取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

読書にまつわる雑多な所感

万人にとって避けがたくも兎角避けたい営みの一つに自己紹介というものがある、と思っていたが、意外とそうでもないらしい。宇宙ゴミのように、いえ、夜空を瞬く星々のように無数に存在する種々のSNSアカウントの個人プロフィールを無作為に覗いてみると、字数上限までぎっしり自身の情報を詰め込んでくれている人達が一定の割合で存在する。ビジネス臭のない人ですら自分の年齢、職業、趣味、信条、既往歴などなど、かなりミクロな情報をふんだんに開示していることがあり、彼らは恐らく自己紹介が好きなのだろう。自己紹介というのは押せ押せで捲し立てられると負の効果しか生まないことがほとんどなので、広く他者の好感を得たいならそのように情報を過密にするのは避けた方が無難だが、一方で、たったひとつの何気ない紹介ワードが相手に拒絶反応を引き起こしてしまうこともあり、それだからこそ難しい。……自己紹介でも鉄板のテリトリーである趣味項目として、「本が好き」と書く人がいるが、私の場合は彼らがどうにも苦手である。自己紹介が篩や選別といったコミュニティ形成の意味を持つ場面では、私のような人間をそれで篩い落とせるだろう。
本が好き、とは全く奇怪な人々だ。抽象的過ぎて何も言っていないとほぼ同義であるのに、厄介な人間性だけは伝わってくる。



自分に照らして考えて、本が好き、と思ったことはほとんどない。正確に言えば、本という漠然とした表現形式それ自体を愛するという趣向の意味がいまひとつピンと来ない。表現メディアの中で自分には活字が一番性に合う、というのを人生の比較的初期段階で発見したがために、優先順位の高い媒体として以後それなりに親しんではきたが、好きかと言われるとイメージが湧かず、どうも首をひねってしまう。褒められたことでは全くないが、はっきり言って本という物自体への熱量や愛情なんてものは無く、家の中でも紙の本はかなり乱雑に遇しており、気に入った本でも床に置きっ放しのまま足で踏んでしまったりする。


一望したところでは「本が好き」と言う人の大多数は「小説が好き」「文学が好き」の広義の言い換えとしてそのような自己紹介ワードを採用しているようだ。確かに小説というのは本が媒介するジャンルのうちで主だったもの一つと言え、私自身創作側でコミットしている領域でもあるので読者として人並みに拝読もするが、率直なところ私は小説もそれ自体好きとは思っていない。小説が至上の表現媒体と信じている訳でもなく、例えばプロットで魅せることの潜在力などに関しては漫画や映画、ゲームのような新興の表現形式の方がどう考えても優れている。ただ小説ならびに文学は歴史的奥行きが桁違いなので幅広い傑作があるし、性質上、最も突出して個人に肉薄できる芸術であるという点に唯一無二の魅力があり、それゆえ自分の中では比較的重要な領域になっている。しかし小説よりも哲学や歴史の読み物の方が読む頻度は高いし、それらは小説と比べればハズレ(や、自分に合わないもの)の割合も圧倒的に少なく、満足度の平均値が高い。小説以外にもタメになる優れた本は当然膨大に存在し、文学なんてのは文字媒体における一つのジャンルに過ぎやしないのに、それを好むだけで「本が好き」との大風呂敷を喧伝して憚らない人達などは、些か軽薄であるとも見れる。


「本」というのは幅が広すぎ、分野として漠然としすぎており、そんな大きな括りを好むと言われたところで具体的な個人の情報はほぼ入ってこない。それなのになぜか私の印象では、本好き(自分で書いてて悪寒が走る)にこそ自らが本好きであるという虚無の情報をこれ見よがしに標榜する人が際立って多いように思う。
他媒体の愛好家達においては、作品ではなく形式そのものへの偏愛を叫ぶ現象があまり目立たない。本が好きな人はよく「本の力」という言い回しを使用するが、一方で「映画の力」とか「漫画の力」とかいう言葉を標語みたいに頻繁に使う人はそう多くない*1。種々の作品形式がそれぞれ潜在能力を有しているのは誰の目にも明白であるのに、本だけがその能力を殊更に口々に主張される。やはり本好きというのは本という形式そのものへの偏愛振り、ありがたがり振りが突出しているのだ。


私はこの傾向にうんざりで、「本はすごい」と言う人を見るたびに「本ではなく著者や作品がすごい、の間違いだ。取り消せよ、今の言葉…‼‼」と、白ひげを馬鹿にされたエース並に口答えしたくなる*2。実際そうではないか。全く言霊信仰と形式主義、スピリチュアルな人間ほど物質に拘るギャグである。そしてなぜ人々が本という物質的概念にそれほど拘るかというと、書物が知性の象徴であり、ひいては知性的な自分を演出するのにこれ以上ないほど適した装飾であるからだろう。


読書家達に蔓延るこの知性主義、教養主義は度しがたい。既得権益や資本主義社会への知性的なカウンターが出来ることそれ自体に陶酔しているような無邪気な露悪性も嘆かわしいし、こうした知性主義を掲げながらアカデミックの正道に身を置いていない自分に対するコンプレックスみたいなものが傍から簡単に見抜ける点も情けないことこの上ない。やっていることは他人が書いたものを読むという受動行為に収まっている場合がほとんどであり、しかもそれらを正しく読み解き批判することすら実は出来ていなかったりもするというのに、なぜか他の愛好家より一段上に立った気でいる。


本に限らず「○○が好きな自分」に酔っている人間からは向上心が感じられない。もちろん何か熱中できるものがあり、それを好むことに自分の価値を置くというのも歴としたアイデンティティーだが、ただそういう心性は自己研磨とはあまり縁が無いので、それゆえ○○に入るものがもし知性的な行為である場合、自己満足の愚に嵌ってしまうケースが多い。そういう人は他者や社会にばかり向上を求め自分を省みず、実際のところ外部に求めるその向上も向上ではなく自分への受容体制の整備を外部に求めているに他ならなかったりして、盗人猛々しい。装飾はきらびやかで魅力的だが、内実が伴わなければ体を深く沈めてしまい、醜いぬかるみに自分の芯まで浚われる。その安寧もとい泥寧で満足してしまっては知性信仰は本末転倒である。
強い言葉を使うのは自戒も兼ねてだ。自分にも思い当たる記憶があるからこそその欺瞞の小賢しさが具にわかって鼻につく。創作側の人間までもがこうした衒学で留まっていることが往々にあるのは問題だと私は常々感じていて……もちろん内心でこういうドツボに陥る分には一向に構わないが、創作物には浮かび上がらせてはならないだろう。


……やや怒りすぎた。創作者はともかくとして、単なる消費者の衒学的性格をそう酷く非難するのが要求過多というのは承知しているつもりだ。思い返せば私も就活の時は履歴書の趣味欄に「読書」とか書いたものだ。入社するかもわからない会社の採用担当に自分の趣味をつまびらかに開示する趣味はそれこそ無いので、当たり障りない漠然とした趣味を書いて茶を濁そうとしていた。どんな本が好きなのと面接で突っ込まれると堪らなく恥ずかしく言葉に詰まったが、他ならぬ自分が初めにそう書いているのだから逆上するのは意味不明だ。SNSアカウントに「本が好き!」とわざわざ記載するような陽なのか陰なのかよくわからないパーソナリティーの人々も、案外そうした就活心理の拡大延長上の惰性で何となく書いているのかもしれない。元も子もないが、自己紹介だけじゃ本質なんて知りようないしな。目くじらは良くない。


そういえば、近頃とある読書交流アプリが耳目を集めていた。何でもユーザーの位置情報をキャッチして、他ユーザーとすれ違うたびにそのユーザーのお気に入り本棚を覗くことが出来るというサービスであり、これが一部の読書家の間では面白いと評判のようだ。位置情報と結びついているのは危険ではないかと思ったが、すれ違い対象範囲は半径約5km程度らしく、そのくらい広範であれば確かに匿名性も保たれるし問題は無いだろう。どうせこういうアプリを使うのは都会人と決まっているし。
人々の無闇に繋がろうとする傾向には果てがなく、ほとんど理解不能の域に達している。道端ですれ違っただけの見知らぬ他人が読んでいる本など知りたいだろうか。統計を取る楽しさと言うよりは、『耳をすませば』の天沢聖司よろしく、本との「出会い」に少しでもドラマが付随していることを望む読書家にありがちな感傷的な思考回路に依るのだろうが、本という個人主義的なものを好む割に自他の境界には非常におおらか(婉曲表現)のようで不可思議極まりない*3


こうした読書交流的なものに対して自分が感じる反発は、「ごっこ」に対する拒否感もあるだろう。好きなもの、感動したものについて他人に語り交流する時、人は甘口なことしか話さない。件の読書交流サービスにおいても、見知らぬ他人と好きな本の情報を交換するというのは、普段ほとんど本を読まない人間にとっては道しるべになるのかもしれないが、ある程度日常的に本を読む人間達の間でこれが取り行われたところで、安い娯楽以外の何かが生まれるとは思えない。ビギナー層向けのサービスというのは「憧れに目をつけて金儲けする」ことと紙一重であり、エスカレートすると不毛な悪循環だけを生む。評価の信頼性がゼロであり、出会いというシチュエーションだけに重きを置くその選書方法には、小説しか読まない人間特有の視野狭窄が垣間見え、「知性主義者がそれで良いのか?」という疑問も直観的に生じる。……まあそういうガバガバさが人の愛すべきところでもあるが。


かく言う自分は3年くらい前から読書管理として読書メーターを利用している。交流のための機能も色々装備されているようだが、私は専ら読了本の記録とレビュー参照だけを目的に使っており、それだけでも結構有用なサービスだと満足している。読書管理アプリとしては最もユーザー人口が多いだけありAmazonよりレビュー数も多い一方、業界最大手とはいえ当然ながらTwitterやインスタみたいな巨大SNSとは比較にならない小規模な世界なので、レビューもあまり演出欲に捉われておらず直截で質が高い。わからないものには冷淡に「わからない」「気持ち悪い」と突き付けている人が多いのも好印象。流石によく本を読む人達だけあって表現も達者であったり、学術読み物の場合はその道の学徒のレビューが読めたりして面白い*4。最近『春にして君を離れ』を読んだのだが、ああいう風にレビュワーの性格によって感想の立場がはっきり分かれる小説のレビューを読むのも、ゴシップ誌的な楽しさがある。読書家と言っても私が忌み嫌うような、すなわち、繊細な感性を持っていることを抜け目なく主張して止まないような図太い人間ばかりではなく、健全な感覚を持っている人が本当は多数派なのだと実感できる。
多数決の法則でものを言いたい訳ではないが、私は特に日本の純文学の本流がどんどん異常でナイーブで破滅的、みたいな方向に先鋭化してしまっているように感じており、そのことに強い抵抗がある。もちろん普通の人の奥に潜む異常性や依存性に手が届くもの、という価値はひとつの大きな、そして必要な価値であろうが、主流になったら逆に価値が減ずる性質のものだし、やっぱり、凡庸な人でも真っ当な人でも異常な人でも誰であっても結局は同じ人の形を止めさす正常性、それこそ永遠に追求しても飽き足りない普遍的な人間の核ではないかと私は思う。だいたい、かのアリストテレス大先生の頃から中庸が一番と言われてたんだし(権威付け)。


ま、うだうだ述べたけど、言いたいことは簡潔明瞭で、だらしないだけなのに訳のわからん文学っぽさを振りかざす奴はアホ、カス、死んだ方がいいということですね。
迂遠な自己紹介になっていないことを祈る。

*1:そう言えば「音楽の力」は3.11震災以降たびたび耳にするようになったな。坂本龍一が「恥ずべき言葉」と痛烈に非難しているのをどこかで見た。

*2:返り討ちにされるのでやらないが。

*3:内容ではなく人にばかり執着する属人的な思考が蔓延るのは考え物だ。私の見立てでは、10代から20代前半のSNSネイティブ世代というよりは、30代以上の非ネイティブ世代がこういうものに耽溺し醜態を晒している。ネイティブ世代の方がSNSの無為な部分をよりフラットに感覚的によく理解しているように思う。

*4:しかしレビュー数1000以上あたりからは玉石混交の石の量が目立ってくるし、また、愚かな本のレビューを見たら愚かなレビューばかりだったので、本の質とレビューの質が比例しているという説もある。