取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

道なき道のための宣言

 10月。いやー、まさかだったね。まさかこんなことになるとは。え? いや総裁選のことじゃないですよ。結局岸田氏か、と聊か肩を落としたのは事実だけど、まさかって程に予想できないことじゃない。だから……いや、小室圭帰国はもっと違うよ。そりゃ彼は面白いけど、いつか帰ってくるのは予めわかっていたはずだ。私が言ってるのはほらアレ……緊急事態宣言が解除されるらしいじゃないですか。緊急事態宣言が解除されるなんて、緊急事態すぎる。そんなことって起こり得るのかって、驚天動地と言う他ないよ。ほんとほんと、緊急事態じゃなくなるなんて、緊急事態にも程がある。


 ……茶番は置いといて、めでたく緊急事態宣言が解除された。本当に解除されるのかと思う程に長い、もしかしたらこのまま永遠にemergency、墓場までマスク生活を余儀なくされるのではないかと疑心暗鬼にもなる程だったが、マスク生活はまだ暫く続くとしても、とりあえず緊急事態は一旦解除されたということらしい。現に昨夜、半ば訝しみつつ近所を歩いてみたら、越してきてからずっと気になっていたものの19時半のラストオーダーまでにいつも間に合わずにいたインドカレー屋が、なんと20時を過ぎても元気に営業しているではないですか。控えめなネオンライトがチラチラ光り、狭い厨房には多すぎる数のインド・ネパール人が心なしかリラックスした面持ちで仲良く客を待っていた。あいにく客は私1人だったが、私としては落ち着く上に密も避けられて丁度良かった。出てきたインドカレーは美味しかったし満足だ。ところでインドカレー屋のサラダにかかってるあのオレンジ色のドレッシング、あれやたら美味しいですよね。一体あれは何なんだろう、にんじんですか?
 

 このところてんで良いことがないが、不思議とあまり落ち込んでいない。仕事でも特に喜ばしくないことばかり起こるし、小説の執筆も進んでいないし、趣味の制作もやれていない。先日なんかは帰宅する際、玄関扉の蝶番に勢いよく左手小指を挟んでしまった。「うわああああ!!」と激痛に身悶えながら何とか指を救出したら、挟んだ部分の肉が抉れて指の横幅が3/4くらいになっており、くらくらと眼前暗黒感を覚えるとともにその後2時間ほど家でひとり鈍痛と出血に悩まされたが、まあそれも次の日にはだいぶ回復した。プラナリアの再生能力に驚愕すれど、人間だってなかなかのものだ。指の横幅も戻って来たし、流血部分は他でもない流血の凝固によって埋め合わされ傷が閉じている。自然治癒力とか発育とかいうものは、改めて考えると奇跡みたいに途方もない事象に思えてきてならない。
 「なんであんなこと言ってしまったのか、言わなきゃよかった」という小粒の煩悶は毎日毎日あり、小粒だろうが昆虫が飛び回るように頭をぐるぐる翻弄してくるのだが、良かれ悪しかれ尾を引く時間は短くなってきたかもしれない。我々小人は「あのメールの一文は全く余計だった。絶対マウントだと思われたし、そして実際マウントだった」「このメールにあの人をCC入れなかったのは良くなかった、後でチクッと言われるかもしれない」程度のことで自意識過剰に右往左往しビクついているが、この広大な世界を見渡せば、訴訟を起こされても平然としてる人も大勢いるし、それどころか東京地検特捜部に逮捕されてもレバノンに逃亡する人だっている。そのことを反芻すると自分の心配事などいかほどのことかと楽になることが増えてきた。とはいえ他人は他人だし、小説は10月こそ死に物狂いで書かなければならないのだが。
 実際の自分の生において緊急事態だと思うことを、他人は自分が期待するほど親身に受け取ってくれないが、それは客観的事実としてその当の問題がさして緊急事態ではないからという場合がほとんどだ。そして他人が自分の緊急事態なのではないかと自分を心配してくれる時ほど、怖いくらいに波が無く落ち着いていることがある。

 
 夜20時以降に活性化すると専ら噂だった新型コロナウイルスも、緊急事態宣言が解除されたことで鎮静化することを祈る。酒類の提供中止はまだ宴会の抑止としての機能を理解するにしても、全飲食店が20時で閉店してしまうのは極めて不便かつ非合理的、かつ残忍な施策であったと言わざるを得ない。
 飲食店側の収支は言わずもがなだが、私ひとりの生活を取っても、夜遅く帰らざるを得ない疲れた日に1人で店の料理を食べて良い気持ちで家に着くことが叶わず、夜道のコンビニでとぼとぼ添加物過多の夜食を買ったり、たいして楽しくも好きでもない料理を帰宅後の空腹状態から作ったりしなければならなかったのは実にさもしい日々だった。結局のところ専業主婦の妻を求める男の気持ちは妬ましいほどによくわかる。妻ではなくて良いので、あたたかい料理と猫が家で待っていてほしい。


 緊急事態発令前から誰に頼まれずともステイホームしていた私だが、こう2年3年も続くといかな自分と言えども流石に友人知人と対面で食事したりドライブに行ったり旅行したりしたい願望が我慢しがたく渦巻いてきた。実は状況を逆手にとってオンラインゲームやDiscord通話などで一部の友人とはステイホーム以前よりも喋る機会が増えた部分もあるのだが、やはり対面が一番だ。ショッピングモールに友人と服を買いに行き、友人が普段着そうにないような服を試着させて「こういうのもいいじゃん」などとしきりに頷いて軽率に購入を促すやつをやりたいのである。


 人間の感情生活は不要不急のことでしか構成されていない。生権力のおぞましさを世界規模で体験した経験が何か自分の今後の人生に大きな跡を残すかと言えば未だよくわからず、むしろ例えば創作物などでこれ見よがしに登場人物がマスクやら消毒やらをしている描写が差し挟まれたりするといかにも表層的で一気に白けてしまう。
 ただ一方で、普段から生権力がどうたらフーコーがどうたら述べていた教養人達が当然のようにワクチン接種をしているのを見るにつけ、インテリというのは実に脆弱な生き物であると痛感する。それはワクチンに限らずコロナ禍を通して一貫して意識せられたことだ。手前味噌だが私も世間一般的に見たらインテリの部類に入るであろうし、自分自身の脆弱性も必然的に省みられた。学問にも知性にも巨大な時代のうねりを解決する効能は無い。しかしそれらを有する人間達が全くその知性に似つかわしくないようなみすぼらしいほどの綱渡りで自らの命を永らえようとしている姿には、幻滅もあれど却ってしぶとい生命力を感じたのも事実だ。
 緊急事態を知らせるというのは人々に「何とかして生きろ」と号令をかけるような、無茶で躍動的な側面がある。繰り返されすぎてその側面は如実に失われつつあるが、現在の感染者数から見れば実は前年を超える緊急事態の只中であるのは間違いない筈だ。そして逆にその解除を知らせるというのは、一旦のインターバルの宣言である。舗装されてない道の上で休むというのがどういうことか、わからないまま首相は代わり時が過ぎ、とりあえず自分の生活を全うしていく他にない。