取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

日記はじめと『カンディード』

日記書く。
本当は1週間前に最初の日記を書いていたのだが、いざ公開ボタンを押したらはてなブログのメンテナンスに直撃して最初の日記が丸ごと消えた。流石にやや精神的に泣き、不貞腐れていたけれども、仕切り直しだ。

1週間前はちょうど思うところあり、時代認識、例えば1973年に書かれたという文書を読んだ時に「ああこれはあさま山荘事件が起きてすぐの年だから、左翼活動家を危険視する世相が急速に強まった時だな」とかそういう、時代の空気を具体例とともに思い描こうと努力できるかどうかって、人が世代を跨いでともに生きるにおいてとても大切なことだなあ、みたいなことをいきなり書いていた。まあ何か思うことがあったのである。

さて今日は久しぶりに在宅勤務だった。
在宅勤務は始業の15分前にベッドから起き上がっても事足りることや、ささいな家事を合間にこなせることや、昼休みにマリカをしたり布団にくるまったりできることが素晴らしいが、素晴らしすぎるあまり、仕事をしている感じがしない。2週間に1日程度にとどめるのが自分のペースに合っている。


在宅勤務なので1歩も外に出ておらず、特筆することの一切ない、日記を書き始めるのに全くふさわしくない日に日記を始めてしまったため、代わりに昨日読んだ『カンディード』の感想を少し。

敷居の高い古典だと思っていたが非常にコミカルで読みやすい。ただこの表紙は何なんだろう? 最初の城から追い出された場面だろうか。
「最善の神が創造したこの世界はあらゆる可能世界の中で最も最善な世界のはずだ」というライプニッツの最善説を信じ切る善良な青年カンディードが、耐え難い苦難と不条理を経て徐々に擦れっ枯らしになっていく様には一抹の寂しさがあるものの、学者の語る現実離れした公理の美しさを認めつつ、自らが従うべきはその公理ではなく自分の畑を耕すことだと知るに至ったカンディードの姿は逞しい。
恋焦がれ探し続けていたクネゴンデ姫が身をやつしてブスになるや否や「ひどいブスだ」とカンディードがあからさまに幻滅したのには笑ったが、それでも義理人情で一蓮托生の妻に迎えているのが良い話だった。

最善説をただ辛辣に非難しているだけではないことも随所で明示されておりヴォルテールの洞察の深さがわかる。解説でも触れられているが最善説とはあくまで世界のあらゆる存在理由を突き詰めた形而上学的理論であって、別に「この世界は最善なのだから世界に起こる個別具体的な悪は各々引き受けなければならない」などという教訓を含めたものではない。ヴォルテールはそれ自体はよく理解しておりある程度納得しているからこそ、『カンディード』をただの悲愴な物語にはしなかったのであり、むしろ死んだと思われた善人達はどいつもこいつも奇跡的に生還している。ただし、以前よりどこか付き合いづらい嫌な奴になって。ここが妙だ。
最善の世界のあからさまな比喩として登場する理想郷エルドラドだって、クネゴンデ姫がいないことただ1点を理由にカンディード自身からそこを去るのである。最善の世界をわざわざ捨ててまで、必ず手に入れられるとも限らない野望の方に走ってしまう。
人間は、苦しむために愚かに作られたとしか思えない。しかしそうした愚かな人間たちがとにかく互いに何かを創造しようとして生きている、それしかないのだという希望を感じられる本だった。