ステイ クローズド

だいたい悪態です。

良いけどウザイのパイオニア

太宰治の『人間失格』を読んだのは恐らく中学1、2年の時だった…と記憶しているが、恥ずかしながらその時は結構感動した。やはり今より二回りくらい繊細で、ストレートな軟弱さもあったからだろう。とっくに成人した現在の自分が改めて『人間失格』のハイライトをぼんやり思い返してみれば、もしかしなくても終盤の方なんかはかなり香ばしい、もとい腐臭立ち込めた内容だった気がする。友人と酒を飲みながら、ある単語についてそれが悲劇名詞(トラ=tragedy)か喜劇名詞(コメ=comedy)かとか、対義語(アント=antonym)や同義語(シノニム=synonym)は何かとかをニタニタ議論するという、余りにもスカした、もとい気色悪いゲームをしていたはずだ。

「死は?」
「コメ、牧師も和尚も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
(中略)
「花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」
「ついでに、女のシノニムは?」
「臓物」
(出典:『人間失格デジタル小説 - 太宰ミュージアム


っていう、寒すぎるくだり。「臓物。(ここでキメ顔)」と括弧で補完してやりたい衝動に駆られる。しかも何やら、これがわからない奴は「芸術を談ずるに足ら」ないらしい。気色悪さここに極まれりだ。何が芸術、何が大出来だよ、人よりちょっと軟弱なだけのくせに全て知ったような顔しくさって。そういえば終盤と言わず序盤から自分のことを「道化」と称して悲劇的に、それこそトラに酔いしれたりしていたな。道化って…。表現がいちいち誇大妄想でゾッとする。


しかし、中学生のハートを鷲掴みすることに関しては確かに天下一品である。私だって今でこそ冷笑的(笑)に批判しているが、今は昔かまびすし中学校の教室の隅でこの『人間失格』に1人いみじく感じ入っちゃったりしていたことは抹消しようのない事実。それに、女にモテるのもまあわかる。少女期の煩悶が脳の漏斗に多めに残留している女というのは大人になってもこういう男に吸い寄せられてしまうものだし、そしてそういう人は結構多い。彼だけが私のことをわかってくれて、私だけが彼のことをわかってあげられる…だとか思わせることに抜きん出ている。実際にはお互い何も理解してないというのは言うまでもないが、そういうモードに誘い込むのがとりわけ上手いということだ。太宰治って相当なミソジニストかつ地雷男だと思うのだが、態度の上では女性にもかなり優しそうだし。


何より、自分も結局嫌いではない。『人間失格』はじめとする長編はもう痛々しくて勧められても読みたくないが、やはり中学時代にはお世話になったし、短篇なんかは今読んでも流石並外れて面白い。文章がくどいので短篇くらいが丁度よいのだろう、『ろまん燈籠』、『右大臣実朝』、『駈込み訴え』あたりは珠玉と思う。ちょっとドープな太宰治ファンがこぞって好き好き言いがちな『女生徒』とかも、結局面白い。私は小説の形式として女性の独白体が特別好きなのだが、元を辿ればそれは太宰治の影響に依っている。


そういう訳で、今でも脳裏にこびりついた太宰治の句って悔しいけれどいくつかあって…ただ基本的にどこまでも情緒の人、センスの人だと思うのでやはり言葉選びの妙で印象に残ってくることが多く、逆に言えば深みある理知的な思索を感じさせられた覚えは私はほぼないのだが、そんな中で唯一と言っていいくらい、これはという思想をまざまざ見せつけられたことがある。

 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。
 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向って投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬です。思想でも何でも、ありゃしないんです。
(中略)
 人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
 なぜ、同じだと言うのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。
(出典:『斜陽』デジタル小説 - 太宰ミュージアム


『斜陽』後半の直治の一節であり、「人間はみな同じものだ」という発想は高貴なものでも平和主義的なものでもなんでもなく、ただの奴隷根性だとする説。極めて太宰治らしいチンケな閃きだが、成程と納得させられる訴求力があってよく覚えている。いわゆるコスモポリタニズムとか言うと何かこう地球の上でみんな微笑み浮かべて手を取り合ってるとか、階段から降りてきた白髪の賢人がこちらに手を差し伸べてるとかの、眩しめな宇宙船地球号感を帯びるが、それは便宜を図った後付けの印象操作であって、始まりはきっと嫉妬に塗れた貶言だったに違いないと。


「確かに確かに確かにー!」 …と、いいねを心で連打してしまう電撃的な感動を子どもながらに覚えたものだ。表現はいくらか大風呂敷だが、言説自体には今も相変わらず「一理ある、いや百理あるかも」と説得させられている。種としての、動物としての人間の偏平さを考える時、ある人は知ったかぶって追いかけっこを放棄する。そうして斜に構えた時の人間の顔や言葉というのは醜くて…見るに耐えがたい。しかし鏡を見たら同じ顔がそこで待っている。
いや確かにね。立派な他人を人智を越えた巨大な集合に呑み込ませる時の束の間の全能感というのが皮肉にもまさに立派な他人に捏ねられ捏ねられ、思想の体裁をとるまでに至ったというストーリー。真偽は如何としても、この筋書きは目から鱗でなかなかすごい。


しかしまあ、敢えて言うことでもないがどうしても言いたいこととして——いや、むしろ他の文全部削ってもこれだけは言わせてもらいたいこととして、太宰治の文って何を言われても「お前が言うな」というムカつきを覚えてしまう。差し迫った問題などひとつもないくせに弱者気取りで。こういうこと言うと怒られるかもしれないが、やっぱり惨めさとか弱者意識の不正受給をしている…今風に言うとフリーライドしていると思う。人が喉から手を出して欲しがるものをいくつも手中に収めておきながら、それでも奴隷と宣って。


上の一節だってさしずめ自分は酒場の醜男側ですみたいに呻いてるけど、どう考えても直治もとい太宰治って羨ましがられる美男子貴族側の人間。それなのに私は専ら弱者側ですなんて言って、全てを掠め取っていく。これはほぼ強盗とみなしていいほどの不正行為だ。寄り添う振りして醜男に与えられた元々の領土まで奪い取り、それによって本当の醜男はどこにも存在を許されなくなる。喪女を自称するキラキラ女子と何も変わらない。この卑怯さの自覚も当然あったのだろうけど…。


共感もできるし、文学ってそういうものだとも思うし、大文豪なのにこんなにつけ入る隙があるというのも才能の成せる技だし、更にそうした赤裸々な作風が本人をより一層苦しめたというのは凡の者たる自分にもちょっと想像はつくのだが、西村賢太太宰治を蛇蝎の如く嫌っているのもよくわかる。どうしてもこう、小賢しくてウザイのだ。人を馬鹿にしてるし。自分なんかは生い立ちとしてはどちらかと言うと太宰治側の人間なので、ウザイけどわかるしそれが癖になるみたいなとこあるのだが、西村賢太のような、何一つ絵空事じゃない物理的な辛苦を散々舐めてきたであろう人達からしてみればそれはもうウザくてウザくて仕方ない筈。


冒頭のゲームは太宰ファンの間では「トラコメ遊び」なんて呼ばれているらしい。もし飲み会で突如こんなゲームが開幕したら、私も殺意が芽生えると同時に、死にたい気分になるだろうな。何もかもを許せず。



しばらく前に下書きに溜めて投稿し損ねてたので供養。

女性作家の母親描写

探してる訳じゃないのに妙に目について仕方ないのは、欠陥だからなんだと思う。母娘の確執ってのは昔からよくある定番テーマで、カタルシスを得るためかやはり女性作家が自身の経験を活かして取り扱ってることが多いけど、その一方で成功例は案外少ない気がしてる。


最近ほんとにコレが目につく。自分見つめ直し系のOL恋愛漫画だと思って読んでた『凪のお暇』が5巻あたりで突然お母さんとの関係修復を話のメインに持ち出してきて、しかもその描写が普通に失敗してるので「ん?」と思っていたのだが、まあそういうこともあるかと流していた。しかし最近人に借りて読んだ『トクサツガガガ』でも13巻付近を境として母親との喧嘩話に突如膨大なページが割かれ始め、しかもこれも『凪のお暇』と細部まで全く同じ仕方で盛大に失敗していたので、とうとう「ムムムッ⁉」と問題意識を感じ始めた(ガガガだけに)。これは何かおかしいぞ、何かあるぞと思ったのだ。
そしてこれを皮切りに今まで見聞きしたいろんなものをぼんやり思い返してみれば、女性作家の母親描写っておかしなとこがたくさんあった。


そもそも『凪のお暇』と『トクサツガガガ』で何が違和感だったかというと、作品の本来のテーマとはあんまり関係なさそうに思える「母親」という存在が唐突にねじ込まれ、しかもそれが超重要問題として大袈裟に扱われている点だ。


それぞれの簡単なあらすじは以下の通り。

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

U-NEXTポイントの余りで読んだ。いつも空気を読むのに必死の28歳OLの凪が、唯一の自慢で拠り所だったハイスペ彼氏のきつい一言をきっかけに彼氏と別れ会社も辞めて、人生見つめ直しに入る。元カレとの関係性の寛解が話の主軸。


トクサツガガガ (1) (ビッグコミックス)

トクサツガガガ (1) (ビッグコミックス)

  • 作者:丹羽 庭
  • 発売日: 2014/11/28
  • メディア: コミック

25歳OLで隠れ特撮オタクだった中村が、特撮中心に様々なジャンルのオタクと出会い交流する中で「コンテンツ」の楽しみ方を再確認していく。つまり趣味漫画。


どっちの漫画においても主人公の母親など明らかに主題の外にいる存在で、読者的には死ぬほどどうでもいい。なのに話の途中から、あたかも「この漫画を描くにあたって母親との確執は避けて通れないよね」みたいなノリで平然と対母親問題を話の主軸にすり替えてくるのである。
しかもその母親も大概めちゃくちゃ毒って訳じゃなく、娘が喜ぶだろうと思ってやることが逆に娘にプレッシャーを与えてしまう、ピュアネスタイプの母親なのだ。娘を自分の分身みたく思い込み、自分が好きなものは娘も好きだろうと考えている。こういう人はまあ結構いるだろうね、くらいのプチ支配ママ。


この唐突さとそれに似つかわしくないパンチの弱さに読者は当然うろたえるが、「ま、まあこれから納得させてくれるのかな」と読み進める。しかし読んでも読んでも全然大した話にならず、どうでもよさが募るばかりなのだ。


百歩譲って凪の方はまだ受け入れられる。自分見つめ直し漫画なので、苦手だった母親と向き合うことを通して自分を見つめ直すというロジック自体はまあわかる。でもガガガの方は本当にオタク趣味との関係浅いし、母親との確執とやらも正直言って「母と趣味が合わない」というだけの話。自分は特撮ライダー物が好きなのに母親にそれを良しとされず、ずっと母親が喜ぶピンクのスカートやぬいぐるみを仕方なく受け入れてきた。独り立ちしてからやっと本来の趣味を謳歌できるようになったが、母親には隠したまま。そんな時に母親に突然ライダーフィギュアだらけの自室に入られ、動揺のあまり一方的に絶縁を告げてしまう。この話題が4巻分くらい長引くのだ。


もう心の底から興味がなく、子供かよとしか思えない。わかりきったことだが凪もガガガも「超絶面白い」とか「深すぎ…」みたいな話ではなく、都内の会社勤め経験がある20代以上の女性にターゲットを絞ったあるある漫画。それゆえ普通の女性の日常的な共感をどれだけ数打って集められるかが重要ポイントになる筈だが、この「対母親ターン」に入ると決まって別漫画かのように視点が主観に狭められ、アラサー女性とは思えない幼稚な言動が次から次へと織り成されるので、読者は置いてけぼりどころではない。


社会人女性向けのあるある漫画というのは、基本的に当たり障りなく汎用的な内容が多いのだ。毎日イライラしたり悩んでるけど、理性を保ってしなやかに日々紡ぎます、でもたまに獣になりたい日もあって…みたいな感じの。22時台でドラマ化するのに最適。手堅いポリコレ的配慮も感じられ、「どう?」という作者のささやきが巻貝の中から聞こえてくるようである。真っ当で頑張り屋な彼女達どうですか、人の心ある理性的な彼女達の苛立ち、多様な視点、どうですか、減点箇所とかありますか?


女性って男性よりも「ちゃんとしてる」ことに喜びを感じがちだ。生活能力や良識があるとか、小綺麗にしてるとか、時代の波感じ取れてるとか、でもちゃんと羽目は外せる幅の広さもありますよとか、そういう「弁えた」理性的動物である自分を歓迎する傾向がある。(それは性別的役割固定が生んだどこか卑屈な意識かもしれないし、そうではなく女性は元から理性的であることに快楽を感じる性質なのかもしれない。どちらが先んじてるのかなんて確認のしようもなく、そして恐らく互いを切り離せるようなものでもなさそうだ。)


なので凪もガガガもセオリー通りコレクトだ。いや、コレクトだった。それはもう小賢しいほどに。主張しすぎない穏当さもあるので読んでて心をかき乱されることもなく…小賢しさも鼻にはつくけど許容範囲で、「まあわかる」「わからんでもない」「確かにね」な保守的な茶番を延々見せられる感じだった。


なのに、母親が出てくると一気に共感を寄せ付けない近視眼展開になる。私は母親から真っ当な愛を受けて育った側の人間なので余計に、誇張でも何でもなく何ひとつ共感できない。私みたいに母との関係がずっと良好、という女性は結構な割合で存在していると思うのだが、そういう人からすれば明らかに著しく客観性を欠いているような自分勝手な言動を、さっきまでずっとまともだった登場人物達が怒濤のように無自覚に選び出すのだ。いい加減同じことの繰り返しだし。社交的で寛容な主人公の中村が母親にだけは攻撃的な言葉を浴びせ、そのたび後で「私は母親と同じことをしてるのでは?」という同じことをモノローグで繰り返して頭抱えてるだけ。そこまで気づけるならどうして自分のおかしさにも気づかないのか。
これには違和感しか起こらない。母親に「母親らしさ」を求めまくってる。求めすぎ求めすぎ! あのコレクトはどこに行ったの!?


そして更に違和感で畳みかけてくることとして、こういう母親への過度に鬱屈とした感情について周囲の人間もみな異常なまでに理解を示して応援し、「私が間に入ろうか?」と自ら申し出たりするのだ。凪もガガガもそうだったし、他の毒親物でも親の顔ほど見た描写。


シンプルにリアリティーがない。まともな人間なら他人の家族の問題なんかにそうそう立ち入ろうとしない筈だし、第一「オタク趣味が親にバレた」ってだけの話など他人からすりゃどうでもいいし。しかも女の特撮趣味なんて別に言うほど恥ずかしくもないものだから、ゴシップとしての面白さすらない。そんな些事に親身になってあれこれ骨を折るなど、ありがた迷惑通り越して狂人と言ってもいいくらい。こんな不自然なものを当たり前のように描くのは、明らかに作者の投影と願望が滲み出ているんだと思う。


恐らく現実の母親との関係にしこりがある女性作家って、創作上ですら母親が絡むと我を忘れるきらいがある。母親というのが作家本人の内面性をかなり大きく揺るがすらしく、途端に千鳥足になって登場人物が狂い出す。ガガガを貸してくれた女性に「母親とのケンカ話が理解できないんですが…」とおずおず言ってみたところ、「私も。お母さん可哀相だよね」という返答を得たので、この違和感は私に限った感覚じゃない。そしてこういう描写をする女性作家とそれに違和感を覚える私達の間にまたがる違いは、母親に愛されたという肯定感の有無ただそれだけなんじゃないかと思う。


私は母親と趣味や性格をほとんど共有できていないけれども、私の母は私達子供を公平にあたたかく愛してくれた、くれていると思うし、よく出来た人間だと思う。彼女の頭の中を想像しようとしても一度として理解できたことはなく、つくづく私とは全く別種の人間のように感じられるが…しかしそんな不一致など些末なことと思えるほどに、言葉にしがたい特別な感謝と厚意が母親にある(ネット上で身内について詳しく書くのは好きじゃないので、話が漠然としてしまうが)。


そういう人間からしてみれば、ガガガの中村みたいに「母親と趣味が合わない」なんてことで25歳までくさくさしているのは理解不能だ。なんでそんなに母親にわかってもらいたがるんだろう。
漫画読む限り母親に愛されてない訳では決してないと思うのに、幼児期に趣味を奪われた憎悪が尾を引きすぎて、肯定感が邪魔されている。プチ毒親を持つ女の人がよく語ってるこの感覚がずっとピンと来なくて、一時期その道の大家と思われる田房永子さんのエッセイをちょっと読んでみたりもしたのだが、感じるものはある一方でやはりそれも物珍しさの範疇を出なかった。お母さんにお母さんしてもらえなかったという怒りがあるようだが、その怒りってアラサーになっても咀嚼できないもんなのかなあと不思議に思う。


しかしできないもんなんだろうな。確かに生理的に無理なレベルの人間が自分の母親だったらと考えると、私も気が遠くなる。母親観というのは壮絶に根深い問題で、共感性高い女性同士でさえそう簡単に分かち合えない。上のような私の意見も、母親と確執がある人からしてみればブッ殺したくなるくらい何もわかってない能天気発言なんだろう。確かに私が何を言おうと、お母さんにお母さんしてもらえた恵まれた者の戯言でしかないが。でも作家ならそうゆう人の視点だって意識して作ってほしい、そう求めることは読者の我儘でも何でもない筈。関係ない話に無理やりねじこんでくる程に表現したいテーマというなら、余計にそれを求めたくなる。


西村賢太も言ってたが、客観に至ってない生煮えのことって作品に起こすべきじゃない。経験を持たない人を視野から外した未熟なものになるからだ。こう考えると母との確執を持たぬ自分にも共感を覚えさせた萩尾望都の『イグアナの娘』はやはり金字塔だな。

イグアナの娘 (小学館文庫)

イグアナの娘 (小学館文庫)



ただ母親をイメージする時のこの客観性の欠如って作品としては欠陥だけど、当然ながら別に性向としてはダメじゃなくーーというかダメとか言ったところで排除できるものでもないしーー倒錯してて面白い、どこか反芻したくなる不思議な癖だなと思う。世の中にいる数えきれないほどの娘たち各々に、母親に対してそれだけ得体の知れない執着があるってことじゃないですか、それってなんか面白いよね。こういう面白さは尊重されるべきとも思う。私も今後こういう母親描写を見かけたら、遭遇のたびに楽天カードマンばりにやはり「ムムムッ」と喜んでしまうだろう。


余談だがちょっと前に大学時代の先輩(女性)が「女性作家は出産を機に作風が激変することがあるから信用できない」と言っていて面白いなと思ったのだった。
その先輩は私から見ても普通の人より女性好きな人(そもそも出産時期とその前後の作風を把握している程に好きな女性作家が複数いたのだ)だし、蔑視みたいな意味はなくただ考察から辿り着いた事実を述べているだけだと思う。実際私も同意する。男性作家って良くも悪くも変化が少ない気がするが、女性作家はわかりやすく変遷がある。この、メタモルフォーゼ感。女性作家に関しては作品の是非だけでなく作家自身の観察もしたくなってしまうところは確かにあるかも。


要は女性にとっての母親という存在の巨大さを、最近いろんなものから知らしめられているという話。
ブログでもついこないだ同じ話題に触れたばかりで、そこでは「自分を産んだ人ってやっぱ特別だよね」みたいな普通の話をしただけだが、それに付随して「顔が似てる」ってのもこの母親への数奇な感情の要因として大きそうだね。今日イグアナの娘のこと思い出しててしみじみ再認識した。同性だと顔の似具合もより際立つし、女にとっての顔ってどうしても重要すぎる人生の一大テーマにならざるを得ない。「同じ顔」って言葉じゃなく絵で表現されると流石迫力あって痛感する。


8/4 追記
偏見だが幼児期に親からのプチ支配を感じていた人って、物事を他責的に捉えがちな人が多いような。他責的というのは悪いことばかりでもないし、ずっと消えないセンセーショナルな幼児期の外傷があること自体は勿論配慮されるべきだと思うが、人生に言い訳できていいよな、と妬ましくなる時もある。まあたまに。


ところでここ数か月くらいブログをよく更新していたが、その反動でちょっと疲れた。ここにおける自分の文にうんざりしてきた感じもある。今後ブログはいくらか省エネ化したい。

拝呼吸・敗呼吸

拝読と敗北は似ている、と最近思う。
というのも拝読のたびに敗北を数えているような気がするからだ。勝ち負けや優劣に拘泥しすぎる悪い癖。わかっていても癖ってやつはどうしようもない。征伐されることに我慢ができるタチでもない。
これに対して何を言おうが何を書こうが敗北の言葉になるんじゃないか、そういう恐れが先走り、内蔵電池が切れたみたいに口も手も突然びたと動かなくなる時がある。人よりやや多めに「そう」かもしれない。


拝読、敗北、拝読、敗北…語感も似ている。滑舌悪い人ならテキトーに入れ換えて言ったとしても多分バレない。
とはいえ別に拝「読」に限った問題ではなく、拝読でも拝見でも拝聴でも同じこと、要は「読」ではなく「拝」が肝でありもはやゲシュタルト崩壊するほどに、ある作品に対して自分が一段下の立場からそれを受容したことを思い知らされる時、原理からして敗北している。「拝」なんて大人なら礼儀として即物的に付帯させる接頭語だが、そういう敬意や社交辞令で流通加工される前段階の、本当に手入れのない素朴な感想としてでさえ、作品に「拝」させられることは無論多々あり、そういう時ってもう、逃れようもなく漏れなく敗北してる気がする。ピュアな感情としての「拝」というのは、あまねく「敗」も内包している。石川五ェ門ではないが、また「わからせ」られてしまった…と思う。


「拝」させられて襟正されるのは嫌いじゃない…わからせられるのは好きなのだが、敗北するのは好きじゃない。全然好きじゃない。だからどうにもストレスが残る。このずっと愛せないストレスが。楽しいだけの享受にならないものはじっと頭に残存し、良くも悪くも度しがたい。


詰まるところはただのダジャレだ。拝読と敗北って音似てる、と思い立ちここまで書いただけの与太話。でもここまで書きながら、そういや近頃、良いものを摂取した時に「優勝した」って言葉を使う人もたまに見かけるな、ともふと連想した。いわゆるネットスラングのひとつで、優勝なんてまさに敗北の対にある概念だが、面白いことにそういえばその語用には私は違和感感じないのだ。なるほど優勝か、とこれはこれで納得できる言い様で、先述の敗北云々の話とも別に矛盾してないと思ってる。


その表現って美味しいレストランで食事したとかいう時によく使われてる印象があるのだが、考えてみれば食事というのは頂戴するものでもあると同時に行為としては能動でもあるし、しかもわかりやすく生理的な喜びをもたらすものだから、それを優勝という自分主体の喜ばしい言葉で表現するのはそんなに難なく腑に落ちる。恐らく「めでたい」くらいの意味で、感官を刺激する最高なものに出会った自分のことをカジュアルに「優勝」と言ってるんだろう。まあ焼き肉食べただけで何が優勝だよ、とも思うんだけど。でも膝を打って全面的に降伏することが逆に気持ちいい優勝になるという、この感覚は結構わかる。自分が制作側に回る発想がないジャンルのものだと勝敗とかどうでもいいから無防備に供給として喜べるのだ。そしてそれは勝利であり歓迎であって、友好的な態度の礎になる。友好的な。



拝読。拝読。拝読。敗北。
一応は物書きの端くれなので、人の小説を読んで無邪気に「優勝」してたらそれこそ終わりだとは思うが。でも価値の高いものに対してストレスフリーで、そこに内在するいくつもの黒星を意識せられることもなかった子どもの頃に無性に戻りたくなる瞬間もある。あるいはもうちょっと柔軟に、負けるのを楽しむみたいなそういう器量があればいい。でも一度ついた習性はなかなか消えてくれない。こういう癖って今後一周回ることもあるのかな。全然回せる気がしない。