取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

コロナの先の杖

 祝・2024年。
 余計なことを言わないタモリのような人間になりたいとぼんやり志すようになってから早10年の年月が流れたが、果たして理想とする人間像にどのくらい近づけたかというとむしろ遠ざかっている。しかし、この半年間ほどブログを一切更新しなかったことで、もしかしたら読者諸氏からは、この饒舌なブログの更新頻度が日に日に下がり、果ては半年もの間放置するという有様を見て、さも私がすっかり余計なことを言わない泰然自若とした人間に成長を遂げたと思われていたかもしれない。そう考えてみれば、私から見て余計なことを言わない人というのも、実は余計なことを言わないのではなく、ただサボッているだけの人かもしれないということをふと改めて発想した。それならばあまり尊敬する必要もないし、サボってばっかりもいられないので、また立て直すこととする。


 2023年は結婚の年であった。実は結婚した。それこそ昨年1月くらいから準備が始まり、付随するイベント事や手続きを世間的な順番に則ってあくせく進め、漸く形を成すまでに丸1年を必要とした。
 人間社会には不思議な道理がいくつもまかり通っているが、婚姻にも多くの不思議がつきものだ。それまで様々な深謀遠慮から私生活に踏み込むような質問を避けてきたであろう人々も、結婚というワードが飛び出すと唐突にそのロックを解除し始める。結婚というのは自分を数える構成単位が変わる大きな変化*1だ、ある程度自分に対する社交の取扱いが変わるのは構わないが、あまりに露骨な人には辟易する。少し前にコロナを発症し仕事を1週間ほど休んだのだが、復帰後、体調不良としか連絡していなかった仕事上の知り合い複数人から、「おめでたかと思っちゃいました」とニコニコ告げられた。その人達にはそもそも結婚したこと自体伝えていなかったのに、である。こういうことを言ってくるのは決まって同性だが、身体の成熟期を過ぎた年齢の女性というのは大なり小なり、年下の同性の体をなぜか自分も共有しているかのような奇怪な万能感を持っている。この迷惑千万な身体感覚のルーツについては前々から折に触れて考えさせられるところだ。もう少し考えが深化したら形にする。


 コロナも困ったもので、私はこのたびが初めての罹患だったがこの期に及んで自分が罹るとは全くもって油断していた。頭痛、めまい、吐き気、喉の痛み、鼻炎、咳、痰、悪寒、全ての体調不良が一挙に襲い掛かり、特に唾を呑み込むたびの引き千切られるような喉の激痛は、安直にも生きていることへの神経症的絶望を感じさせた。独身時代とは違って咳をしても一人ではないのは良いが、咳をしてもコロナなのである。当初はせっかくまとまって仕事を休むのだから自分時間の充実を図ろうと夢見たのも束の間、それどころではない。ディスレクシアと言う程の症状はなかったが、どんな娯楽でさえ喉の激痛を少しも忘れさせてくれなかった。一端のブロガーに倣って2023年の本やらゲームやらその他作品のランキング記事なんかも書こうかと思っていたが、苦痛に呻きながら病床に伏しているうちに結局サボった。それを「おめでた」とか弄られるんだから勘弁してほしい。
 人なんて所詮ウイルスの乗り物、罹患中は蠢く虫になった気分を味わう。回復から一定期間が過ぎた今でさえ本調子ではない。恐ろしいウイルスなので皆さんも気をつけてください。
 私に関しては2023年の終わりにそうして最後の厄を落としたとも言えるし、心機一転でもないが、今年の努力目標に向けて取り組んでいく。謹賀新年。



少し寄付。

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あとは余計な余談。

*2023年は結婚の年だと書いたが、より厳密に修正すると「結婚」と「ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom」の年だった。あまりこうした陳腐な言い方は好きではない私だが、ゼルダの伝説 Breath of the Wildおよびゼルダの伝説 Tears of the Kingdomは、それをプレイしているかしていないかで人を区別したくなるくらいの傑作だった。クリア率80%にまで到達した現在は、やることと言えばひたすら残りのコログちゃんを集めるだけになってしまったが、それでも面白い。任天堂宮本茂は「アイデアというのは複数の問題をいっぺんに解決するものだ」と言ったというが、そういう思考の究極の成果物がゼルダtotkだね。


*私の最も好きな漫画であるところの「ヒストリエ」の新刊が一向に発売しないので、既に全て電子で持っているのだが今後の期待を込めて紙でも収集することにした。そこで少し驚いたのだが、紙版ヒストリエはもはや品薄状態で、リアル書店で全巻揃えることはまず不可能、Amazonでも一部の巻は新品2000円にまで高騰している。かくいう私は何とか各所から寄せ集めて全巻定価・新品で調達する僥倖にあやかったが、休載中とはいえヒストリエほどの作品が絶版になる一方で、訳のわからないなろう転生系オタク漫画が際限なく書店の棚に並んでいることにはそこそこの悲しみがある。

去年はマケドニア関係で2冊の大著が出たみたいだ。なかなか個人で買うのは難しい価格だが、気合入れて図書館で借りて読んでみたい。新婚旅行をギリシャにすることも画策したりする。


*今年は5年振りに宇多田ヒカルのライブツアーがやるようなので楽しみだ。
 そういえば昨年の新曲「Gold~また逢う日まで~」の感想も特にここでは触れていなかった。あれは良い曲だが近年の傾向に浸かったまま脱してはいないのでそこまで好みではない。近年の宇多田ヒカルは自分や大切な人を信じることで得られる強さ優しさをよく歌っており、それぞれ宇多田ヒカルらしい回り道もあって良い曲ではあるが、たまに空疎な綺麗ごとに聴こえてしまう時がある。しかしそういう時は私が宇多田ヒカル個人の華々しい才能や財力、交友関係を曲の裏に見てしまっている場合が多いと自覚しているので、無粋な文句かも。
 これ系のテーマの曲は私の中で「あなた」が金字塔になっているから、どうしても二番煎じに感じるのだろうか。今度のベストアルバムでもし昔の曲を再収録するのだとしたら尚のこと嬉しいけど流石にそれはないかな。

*1:この変化には少々狼狽し、慣れるまでに暫くかかった。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実


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 右か左かというのは、自己と世界の関係をどう見るかによって決まる。そのことがよくわかるドキュメンタリー。
 この討論会は「日本で言葉が力を持った最後の時代の激論」のように形容されており、確かに両陣営とも終始日本はこのままではいけない、という共通の情熱を以て議論しているが、討論を通して最後までどちらの形勢が崩れるようなこともなければ両主張の着地点として何か光明が差すようなこともなく、結局は三島由紀夫全共闘の世界認識の溝が浮き彫りになっているだけのようにも見えた。三島由紀夫自身が最後に討論会を振り返って「言葉は言葉を呼んで、翼を持って、この部屋を飛び回ったんです」と詩的な言葉を残しているが、そんな融和の感動は自分にはもたらされず、むしろその後の「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」に示されるように、三島由紀夫全共闘に対してその熱情以外は一切信用できずに終わったし、説得もできなかった、というところが結論に近いのではないか。それは仕方がない。左翼は自分が世界に先立つ尊厳ある人格と考え、右翼は自分は単に世界にたまたま生み落とされた一個の人間と考える。両派は世界認識がまるで違うのだ。


 三島由紀夫に対する私の造詣は皆無と言っても差し支えない。『金閣寺』『仮面の告白』『不道徳教育講座』あたりは中高時代に読み、『金閣寺』には相応の感銘を受けた筈だが、以降は大学在学中のとある一日、ふと思い立って三島事件の顛末をぼうっとwikipediaで読み明かす夜が一晩だけあったというくらいのもので、ここ最近で三島由紀夫まわりについて思ったことを無理くり引き出そうとしてみても、強いて言えば数か月前、三島由紀夫が最期の演説で口にした「お前ら、聞け。静かにせい。男一匹が命をかけて諸君に訴えて云々」みたいな文句をtwitter(現X)で構文的に使っている男達を目にした時に、彼らの全てを否定してやりたい猛々しい衝動に駆られたという、小粒も小粒な話しか出てこない。


 その程度の知見しか持たぬ私だが、この討論会の記録を見る限り、やはり三島由紀夫、一角の人物である。大学生なんてただでさえこの世で一番ウザい生き物なのに、加えて革命意欲に燃えることで更にウザさに歯止めがかからなくなっている彼らの中に単身乗り込んで言葉で説得を試みる、そのメンタルは信じがたいものがある。それも、説得できると本気で思っているのだ。
 討論会の触れ書きとして「特別陳列品」「近代ゴリラ」「見物料○円」などという見出しと共に裸の三島由紀夫の風刺画が描かれた全共闘のビラはうんざりするほど醜悪で*1、当の討論会でも幼稚な攻撃的野次*2が要所要所に起こるし、全共闘の論客の言論ですら、客観的に聞いていても屁理屈に近いような論戦をなぜか上から目線でけしかけてきている場面が少なからず見受けられたが、これら全ての癇に障る態度に対して、一度たりとも三島由紀夫は動じる素振りを見せることなく、皮肉で飾られた全共闘の主張の本筋の部分だけを的確に取り出し冷静に応戦していたので、これは大したもんだと天晴である。そしてそういうことが出来るのは、三島由紀夫にとっての討論会の目的が「全共闘の説得」に完璧に一点集中しているからで、それ以外のことは本当に何ら興味がなさそうなのだ。その姿勢はこれまでに見た右翼の中でも異彩を放って誠実に映った。


 具体的な討論内容に関しては流石に両者なかなか頭脳明晰なのであまり理解できていないが、

三島由紀夫「机は授業のためにあるが、バリケードの材料にもなる。生産関係から切り離されて、戦闘目的に使われているということだ。しかしそれは諸君が生産関係から切り離されているからではないか。それが諸君の暴力の根源ではないのか」

芥正彦「大学の形態の中では机は机だけど、大学が解体されれば定義は変わる。この関係の逆転に革命が生まれるんだ」

 この切り返しはいかにも左翼という感じですね。我々という主体に形態や共同体、生産関係があくまで追随するのだという世界認識。解体という言葉が討論会の中で複数回使われる点からは、当時の東大全共闘ポスト構造主義をかなり(好意的に)意識していたことが窺える。
 こういうのどうなんでしょうね。1つ前の映画感想記事でボディ・ポジティブを例にしてちょっと触れたが、こういうのって価値の転覆とか新たな価値の創出として成功してるって言っていいのだろうか。価値を逆転させているようでいて、当のその逆転は既存の価値観に立脚している。本当はスラッとした体形こそ美しいだとか、本当は大学の机は勉学のために生産されている、だとかいうことをよく理解しているからこそ、この理解を前提にして裏をかこうとする仕草。つまり環境や伝統、風俗、文脈から切り離されて自由になっているどころか、それらを100%受け入れてしまっている逆説だということだ。別にそれはそれで結果的に今までとは見かけの違うものを提示できている訳だし、前向きで人間的な逆説だから良いのだけど、まあとにかく、昨今の「価値観のアップデート」にも通ずることだが、左派の価値転覆の論理にはこういう、悪く言えば自己欺瞞的な要素がしばしば見受けられる。


 自己欺瞞・自己矛盾・自己否定というワードは、左派の心理的特徴を語る上で外せない。以下の佐々木俊尚によるコラム記事でも、上記のやりとりを引用しつつ面白い指摘がされている。

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東大生たちは、受験戦争を勝ち抜いたエリートである。戦後民主主義は平等を教え、自分だけが利益を得ることは倫理に反すると教えたが、受験エリートはそうした戦後の価値観をもともと否定したところに成り立っている。加えて、いくら学生運動に邁進して反体制を唱えても、卒業後には官公庁や大企業などでのエリートの座が約束されている。これらの現実に対する「罪悪感」が、東大全共闘の根底にあった。自分たちは資本主義を口では批判しながら、実は資本主義を支える側じゃないか、という強烈な自己矛盾があったのだ。

だから他の大学では学費値上げ反対や自治会の自主独立など、おおむね具体的な運動目的があげられていたのに対し、東大闘争だけはまったく違った。「自分たちの生き方を変えていかなければならない」「自分たちにとって学問とは何なのか」という抽象的な理念が目標として掲げられたのである。つまりはエリートである自分を否定しなければ運動は始まらないという、当時流行した言葉でいえば「自己否定」をテーマとしたのだ。


 母校でも思い当たる節がある。私が京都大学に在学していたのは2013年~2017年で、当然ながら学生運動などとうに最盛期を過ぎた時代ではあったが、それでも在学中の2015年10月、校舎の一部がたしか安保闘争の文脈でバリケード封鎖された事件は規模も大きかったし、知人がこの事件で停学処分になったりもしていたから、記憶に残っている。
 私のような一般学生からすれば、停学処分を受けてまで彼らが大学に何を求めているのか理解不能だった。2015年の今、学生の身分から見て大学当局のどこがそんなに不満なのか全くピンとこなかったし時代遅れに見えた。彼らが明示していた大学への要求も、同志の復学の他にはあまり具体的な提言は述べられておらず、自由の学風への回帰を求める観念的な言説(というか、総長・学部長への猛非難)に終始していた気がする。当時私は彼らにほとんど関心を払っていなかったため大雑把な見方になってしまっているだろうが、京大生にまでなっておいて大学への抽象的な反発に心血を注ぐ彼らが、どこか勿体なく荒唐無稽に見えたのは確かで、まあ恐らく京大のアウトドアサークル「ボヘミアン」同様に、大学生でなければできない青春を味わいたいのかなくらいに思っていた。それくらい、彼らからは切羽詰まった喫緊の問題を感じ取れなかったのだ。結局みんなエリートで、その気になればいつでも大企業に就職できるのだ。本人達もそれはよくわかっている。だからこそそういう自己矛盾が更に観念を駆動し活動を躍起にさせるのだろう。自己を開放するために、自己を否定する。


 左翼が自己欺瞞ダブルスタンダードに陥り、右翼が揶揄する、という醜悪な図式はいつの時代もあるものだ。左翼は労働者階級が見えてない、理想ばかりで事態を理解しておらず、安定や維持をまるで度外視している――そういう非難に繋がる揶揄であり、その非難自体はある程度の妥当性があるかもしれないが、揶揄うような態度は軽佻浮薄で卑しいだけだ。一定のリテラシーがある左派は、馬鹿な右翼に指摘されるよりずっと前から自らの矛盾を痛いほど自覚しているし、そもそも世の中で思想と呼ばれるものの多くは、矛盾する自己を解消したいという葛藤から生まれる。ただ、ほとんどの人はその葛藤を思想にまで固めることができないだけだ。だからこそ捉えることもできず苦しんでいる。


 立証する統計がある訳でも何でもない私の偏見に過ぎないが、左翼と右翼の知性は平均は同じくらいだが中央値は結構違っていて、右翼は8〜9割方どうしようもなく低い水準に密集しているが、突出した上位層(それこそ三島由紀夫など)がある程度存在するのに対し、左翼はなべて中くらいのところにグラデーション分布しているものの、傑出した者がほとんどいない印象を受ける。左翼には内部に思想の萌芽があるが、大半の右翼には思想を形成する種そのものが宿っておらず、そんなものが必要とも考えないからだ。どんなに左翼を馬鹿にできても、右翼に革命は起こせない。しかし革命は起こせなくとも、社会的に成熟していて政治的手腕に長けているのは右翼型の人間なのだ。だから堂々巡りになる。


 世界の捉え方という大元の部分が分水嶺になってしまっている両派を結び付けるには、「たとえ全共闘だって日本人である」という事実が鍵になると、三島由紀夫は考えていた。そこで日本人のルーツに遍く確固として存在する筈の天皇という概念を引き合いに出すが、皇国史観と離別した戦後を生きる全共闘にとって天皇という存在はさして強大でも必須でもなく、逆に三島由紀夫との感覚の違いが露わになっていまう。

芥正彦「あなたはだから日本人であるという限界を超えることはできなくなってしまうということでしょう」

三島由紀夫「できなくていいのだよ。僕は日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然僕は抜けたいとは思わない、僕自身。だからあなたからみたらかわいそうだと思うだろうが」

芥正彦「それは思いますよね、僕なんか。むしろ最初から国籍はないのであって」

三島由紀夫「あなたは国籍がないわけだろう? 自由人として僕はあなたを尊敬するよ。それでいいよねぇ。けれども僕は国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない。これは僕は自身の宿命であると信じているわけだ」


 三島由紀夫の右翼思想は――特に天皇に関する部分は三島由紀夫の個人的体験に依拠しているが故に――かなり特殊で普遍化が難しい。上記の言い合いを見る限りは普遍化させる気もなさそうなのだが、一方で単身で東大全共闘に乗り込んだり、果ては自衛隊相手に決死の覚悟で演説したりと、文字通り命を賭して反対勢力や堕落した自陣営に訴える姿は、どうにかして大衆を目覚めさせたいという切なる猛烈な情熱に満ちている。本気で説得できると思っているのだ。

 三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
 かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。(ヘンリー・ミラー


 高度の知性に恵まれながら、最後の最後まで厭世しない。政治思想は流石に賛同できないが、この堂々たる風格は固く白く輝いて見えた。


 そして日本の右翼と左翼の架け橋に「日本人であること」を持ち出すというのは、右翼が左翼に抗する論戦の道具としては悪手だったかもしれないが、単純に両者の共通点を見極めた際の結論としては結局そこに至るのではないかと思う。天皇を出してくるのも、極端に見えてイイ線いっており、天皇の威光が更に希釈されている筈の現代においても通用する発想だ。
 1個前の記事で映画『バービー』広報アカウントの炎上について付け足したが、ああいう些事ひとつとっても、日本人って公式アカウントみたいな藁人形的な存在が好きすぎるよね。この心理って土居健郎が言うところの「甘え」の構造に当てはまり、天皇制を生み出した日本人的形質と寸分違わないんじゃないかと最近ふと閃いた。…まあそれはちょっと凡俗な例だけど、兎にも角にも、自分は日本人である前に世界市民であると主観する人にも、柵のように日本人的性質は備わり、その性質というのが時に理想の自己と根本から食い違ってしまう。世界と自己の問題に「国」が越境し、まさにここが自己矛盾となって思想が分派して、傍から見ると支離滅裂の様相を呈する。


 日本人であるという共通項があるからと言って両者の壁が氷解するとは全く思わないが、私自身は現にそれによって中途半端になっている自覚がある。思想として首肯したいのは大まかには左派だが、性格としては右寄りの人間であることを認めざるを得ない。徒党とか連帯が心の底から嫌いなので自身がどちらかの運動に与することは望まないが、あたかも自分は中立だと表明することほど信用できない振舞いもない。全共闘三島由紀夫のように信念に殉ずることができる人間の方がよほど立派だ。
 ただ、社会派リベラルがボリュームゾーンになっている今の左派は「傷つき」を物事の中心に置きすぎているからどうにも手が出せない。課題解決の方法が武力から言論になったかと思えば、蓋を開けたらそれは揺らめく魔法の感情だったというお笑い草だ。これを左翼と言っていいのかもわからない。廃れながらも生き残った全共闘の人達は今をどう見ているのだろうか。敗戦国の左翼は捻れた存在だから底が深い。

*1:だが、「近代ゴリラ」という形容は妙。

*2:特に三島由紀夫天皇について述べている時に「朕はたらふく食っているぞ、汝臣民飢えて死ね」と言うだけの野次はいかにも小賢しくて不愉快。

最近見た映画+α

ここ半年くらいに見て、特筆する点あるもののみ。

ブエノスアイレス

 映画好きの友人に『ウォン・カーウェイ4K』特集に誘ってもらい、劇場で鑑賞。初めてゲイ映画を見た。映画そのものは正直わからないという感想に尽きるが、こうやってくっついたり離れたりを繰り返すカップルって確かにどこにでも一定数いるよなー。普通のカップルであれば好意の下に容赦し合えるような些細なトラブルでも、お互いが激情型だとその都度に十分な離別の理由となってしまうのだろう。しかしほとぼりが冷めると好意や情がむくむく戻り、いつのまにか元鞘になっている。とても大人同士の関係とは思えないが、本人達にしかわからない関係ってやつか。とはいえ、こうした刹那的な痴情関係に文学性みたいなものを見出して悦に浸っている奴は死んだ方が良い。
 映画もまあわからないなりに構成や画面作りなどは面白く見れたが、映画よりも鑑賞後に友人と食事しながら「あのシーンって何だったんですか?」「台所でダンス始めたあたり、絶対この後こいつら発情するじゃん感すごいよね」とキャイキャイ盛り上がったのが楽しかった。後から調べて知ったが主演のトニー・レオンはゲイ役だけは演じないと断言していたのに、別シナリオの撮影と騙されてゲイ役を演じる羽目になったらしい。そんなんでよくあんな冒頭のベッドシーン演じてくれたな。一昔前の撮影現場は無茶苦茶な話が多すぎる。

戦場のメリークリスマス


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 よくわからないままにいつの間にか感動させられる、ツッコミどころ満載の映画だった。『ブエノスアイレス』よりはまだ幾分わかりやすいが、説明や表面的なメッセージ性を可能な限り省略した、視聴者に伝える気ゼロの感じは巨匠っぽい。映画のテーマを暗喩する重要な最初のシーンから、たけしの台詞が聞き取れなすぎて笑ってしまう。
 要するにヨノイ大尉にとってセリアズは裁判所で出会ったその時から性的にど真ん中のタイプの男だった、という理解で良いのだろうが。抱擁の場面は最初ピンと来なかったけども、大尉が俘虜から友好のハグをされるなどという唐突にして最大限の侮辱行為に狼狽しつつも、胸に秘めていた禁忌の恋心を不意に射貫かれてまさに「キュン死に」してしまったヨノイ大尉の姿は、間抜けで確かに面白い。
 セリアズの弟のくだりが明らかに浮いていたが、『ブエノスアイレス』に誘ってくれた友人によれば、原作*1だと弟の存在がかなり重く描かれているのでその名残らしい。映画では最後まで必要性を見出せなかったものの、弟がえげつない集団リンチに遭う横でセリアズが一人で異常にかっこよく立ち尽くしているのを並べて収めた画面分割は美しかった。

パッチギ!

 好きではないが面白かった。公開当時の流行の仕方からして大衆的な青春映画とイメージしていたが、1968年という時代に生きた不良高校生の葛藤を軸に、日本と朝鮮の民族間の摩擦、揺らぎを真剣に考え抜いており、その上でエンターテイメント性もふんだんで、なかなかどうして良い映画。毛沢東を賞賛する高校教師やら、二枚目なお兄さんだったのに登場のたび急速にヒッピー化するオダギリジョーやら、世相もコミカルに反映されている。
 川の分岐点(出町柳)で不良の抗争が起こったり、塩谷舜が身一つで川をまさぐりながら川岸の沢尻エリカに話しかけたり、鴨川をイムジン川になぞらえた描き方はわかりやすく、しかし強調されすぎてもおらず、その塩梅が上手い。
 私などは「アンソンらの境遇の厳しさはわかるが、奴ら結局下品な不良だし、不良に何を言われてもなあ…」と思ったりするが、ああした立場に置かれた者、特に男は舐められたら終わりなのだろうから、私が真に理解することのない闘争の中にいるのだろうな。暴力映画や不良映画というのは、何を見ても「なぜ暴力なのか」という命題が最後の一歩で分からず仕舞いでピンと来ない。あと最後は塩谷舜と沢尻エリカ破局する方が私の趣味だ。

ブックスマート


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 楽しく器用な映画だけど空々しい。同じハイスクールの同級生が名門大学に進学するエリート達だということに卒業前夜まで気付かないって、いくらなんでも設定に無理があるが、そこは詰めてはいけないところなのだろうか。親の金でイキりパーティーできて良かったねという感じ。行かなきゃいいんだあんなのは。優等生が下ネタで盛り上がっている姿を見るのは微笑ましいでは済まない気まずさ、恥ずかしさがあってどうも苦手だ。なんていうか、彼らが「良い奴」に見えるのは、彼らが純粋培養だからであって、良い奴だからではないと思うのである。
 主人公のモリーはぽっちゃり体型で、映画の中ではいわゆるボディ・ポジティブを表現するキャラクターとしてチャーミングに描かれている。ボディ・ポジティブ。極めて超越論的な言葉だ。その言葉によって目指す理念は想像に易いし賛同するが、実用の場面では結局ただ「デブ」の婉曲表現になってしまう。この婉曲は思いやりや品性、理念としての価値を持つが、どうしても内実が伴わない。逆を張ることでより真理が浮き上がってしまう。つまりデブはネガティブだからこそボディ・ポジティブと言わなければならないのである。価値が転覆されるどころか既存の価値観に依存しきってているからこそ成立する発想であり、悪く言うと自己欺瞞。だからボディ・ポジティブは詭弁だ、ということが言いたいのではなく(詭弁ではあるが、人間的で前向きな詭弁だからそれはもう良い)、ただリベラリズムを旗にあげているからには、言葉が持つ超越論的側面に言及することを省略したり、忌避したりしてはならないのではないか。
 

300(スリーハンドレッド


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 清々しく馬鹿で面白い。序盤はまだ名作の香りがしたが、中盤からは血と暴力のエクスタシーにエンジンを全開していて、そういう映画なのだと理解した。クセルクセス王はじめ魑魅魍魎のペルシア軍のふざけたデザインが魅力的。
 映画はギャグだが、莫大な資金をスパルタ軍とレオニダス王で1本の映画を作ることに費やした心意気がまず楽しいものだ。スパルタという都市国家は世界史上のホモソーシャルの極北である。市民人口の10倍とも言われる奴隷を支配するために、ただ自らが強くなることを選択した都市。その選別は生まれ落ちた瞬間から始まり、虚弱な赤ん坊はタイゲトス山から投げ捨てられ野獣の餌として人生を終える。男児は7歳で強制的に親元を離れ、12歳で軍隊入り、15歳頃には奴隷を殺し略奪して1年間のサバイバル生活を送る。贅沢は厳しく罰せられ、血肉そのものと言える腐臭の料理(メラス・ゾーモス)を日常的に食す。俄かには信じがたいメタファーのような規律だが、実際に敷かれたどころか何百年もこれが持続したというのが驚異だ。スパルタ人の内面が一人称で綴られた日記があるとすれば是非読んでみたいが、日記なぞという軟弱な発想はスパルタ人には無いのである。

言の葉の庭


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 童貞が見た美しい夢の映像化に成功し続けている男、新海誠。コメディー映画としては相当に面白く、『戦場のメリークリスマス』の優に30倍はツッコミどころが存在する稀有な映画である。
 閉じた世界の全肯定が凄まじい。主人公の男子高校生タカオが作る靴(←笑)がハイヒールパンプスばかりなのが端からキモすぎるのに、なぜかタカオはアンニュイかつ朴訥な好青年として造形され続ける。そしてタカオが恋するユキノ先生に至っては、勤務する学校の12歳年下の男子高校生(タカオ)を当然のように自室に連れ込み、連れ込んだ上で曖昧に振るという最低最悪な女であるのに、この女を「ユキノちゃんは何にも悪くないんだよ!」「ユキノちゃんは優しすぎるんだよ」とフォローする女子生徒すら現れる始末である。一方で、その何にも悪くないというユキノ先生を虐めた生徒達は、あまりに記号的でもはや人格として描かれていない*2。映画の中ではタカオとユキノ、この2人だけが生きていればいいと思ってる。
 最後の方のモノローグで《期末テストは案の定散々な点数を取り…》と滔々と語られていた時は「バカなのかよ」と爆笑してしまった。最後の《あんたは一生そうやって!自分は関係ないって顔して…ずっと一人で、生きていくんだッ!!》も癖になる面白シーンである。出来上がった靴もダサすぎて最高だ。
 とはいえ、こうした気持ち悪いセカイ系映画をこの完成度で形にするというのはなかなか出来ることではない。いい大人になってこの湿り切った脚本に方々を巻き込み、現実から逃避するかのような美麗な背景美術でもって映像に仕上げ、一定以上の興行を出すのだから並大抵じゃない。キモいって才能なのだと思わされる。
 余談だがこれを見た後に『三島由紀夫vs東大全共闘』(後日単独で記事にする)を見たため、全共闘相手に決死に論じる三島由紀夫を眺めながら『言の葉の庭』の数々のシーンが頭に過り、確かに今の日本は憂国だと思った。



セッション


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 良いねえ! フレッチャー教授の悪口がボキャブラリー豊かでセンス良い。言ってることの暴虐無比もさることながら、頻繁に親を引き合いに出してくるところがよくわかってるし、練習中以外では思慮深い誠実な人間の顔をするのも芸が細かい。
 行き過ぎた指導の話であり事実この先生は極端だが、アンドリューとフレッチャー先生のようなその道のトップ層の世界ではなくとも、教え子の感情を支配することにaddictedだった教師の顔を一人や二人、我々はみな思い浮かべられるのではなかろうか。生徒の冗談をニコニコ笑って聞いているかと思ったら、独特な理由でいきなり怒鳴り出したり、また時には信じられないほど感傷的な話を帰りの会で息せき切って語り出して生徒を惑乱させたりする。なべて教師という人種は「締める時は締めなければならない」という勝手な使命感に燃えている人が異様に多いと見受けられるが、締め方がパーソナルな逆鱗に依拠している教師ほど厄介なものはない。そう思えばフレッチャー先生は実績と能力が十分あるだけまだマシだ。
 アンドリューの家庭が音楽一家でも何でもなく、むしろアンドリューだけ孤立しているのが説得力あって良いね。音楽の他に寄る辺なく、いつも悔しく、我慢していて、実力と名声を以て奴らを見返してやりたいと思ってる。アンドリューが勝手な被害妄想でニコルを一方的に振るシーンもリアル。ニコルはかなり良い女なのでアンドリューには勿体ない。

あのこと


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 間違いなく質は高いが、映像の卑猥さと痛々しさが先行してとにかく気持ち悪かった。わかってることをガンガン大声で責め立てられる感じが居心地悪い。
 こうした「語られなかった、しかし目を背けてはならない女たちの物語」系の映画は、どれほど質が高くとも自分の心を大きく動かしてくれたことは今のところない。特に未成年の妊娠中絶をメインテーマに据えている作品になると、主人公の女性達に対する共感が著しく難しくなり、加えて必然的に生々しいシーンが絶えないので、目に映る映像全てを拒絶したくなってしまう。中絶は別にいいけど、中絶のまさにそのシーンになると、人間の体は気持ち悪すぎる。醜く艶めかしい人体構造そのものに対する不快さで指に力が入らなくなるのである。そしてなぜ彼女達に共感できないかと考えると、こうした作品では大抵の場合、当事者の女性達は「内なる法」を持たない存在として描かれているように感じられ、そのことに「何でだよ」、と頭が軋む違和感がずっと続くのだ。『あのこと』で妊娠する主人公は特に無理を強いられた訳ではなく、一時の寂しさを紛らわすため自分で選択した相手と行為に及んだ結果として妊娠している。だから自己責任だと言いたいのではない(そもそも圧倒的に男が悪い)。そういう衝動行為自体は非難したくないが、ただそこに至るまでにも道程や葛藤はきっとある筈で、何も火花だけってことないだろう(ないよね?)。私が見たいのはその葛藤であって、その後のことは正直、そこまでなのだ。『あのこと』含めこのテーマの映画は、火花があったことがサクッと示された後の、燃え尽きて湿った火薬をバケツ処理する部分にうんと時間を費やす。それも大事なのは理解するし、それを重視しない自分は弁解の余地なく傲慢だし、事が起こらないとそりゃあ物語にならないんだけど、私はその前の頭の中が見たいのだ。じゃないと全然わからないじゃないか。みんなわかるの?
 とはいえこの映画も質は高かったので、アニー=エルノーの原作『事件』も読んでみた。『事件』は映画の方が出来が良いと感じたが、同時収録の『嫉妬』が面白い。自伝的小説に付きものの、著者の生き様に付き合わされている感のダルさはそこそこあるけれど、人間心理への洞察力と描写力が生半可じゃないので、ずっと同じこと言ってるだけでも飽きさせない。


あ、春


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 これも映画好きの友人が相米慎二監督特集に誘ってくれて、劇場で鑑賞。持つべきものは映画に詳しく一緒に映画を見てくれる同性の友人である。誘われなかったら絶対自分からこんな渋いやつ見ないし、こんな面白い映画があることも知らなかったろう。完成度が非常に高く、鑑賞後に爽やかな気持ちになれる私の好きなタイプの映画だ。シンプルに好きなタイプの映画というのは逆にあまり特筆することもないのだが、妻の斉藤由貴が薬を服用しており何らかの精神病を患っていることを示唆していたのが上手くて憎い。そして実際に途中、佐藤浩市が寝室で真剣な話をしようとしているのに斉藤由貴が「面白い顔~!」と金切声で大笑いし始め止まらなくなるシーンはゾッとするほど写実的な怖さがあり、佐藤浩市がビンタしたくなる気持ちがよくわかった。あれは引っ叩きたくなるね。

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー


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 楽しいファンムービー。マリオを2-3作プレイしたことがあれば1分に1回くらい「あ!」とニヤリできる発見がある。が、たとえマリオを全てプレイした人でも、マリオ、ルイージ、ピーチの生い立ちがあんなだったとは知らないんじゃないかな。マリオ個人について「25歳前後」「イタリア系移民」「配管工」という断片的な知識はあれど、それらが結びつくマリオの境遇や日常を具体的にイメージしたことはなかったので、「望む望まないに関わらず急にマリオに詳しくなってしまった感」が半端じゃない。なんかピーチとか処女受胎みたいな展開でキノコ王国来てるし、「え、そんな感じだったの?」でしかない。
 興行が絶好調なのと裏腹に批評家のレビュー点数は低いだとかで、Twitterのオタク達が何やら高度な議論を交わしてたようだが、レビューが高くないのは当たり前だろう。そこに評価で拘っても仕方がないんじゃないか。オタクが希求するものについては謎が尽きることはなく、あまりに高度なので私には理解できなかった。

朝井リョウ『正欲』

 映画じゃないけどつい昨日読んだので感想メモ。
 巧みだし世の中を向いているところに大きな価値があり、売れるのもよくわかるが作品は腑に落ちない。レベルは違うが『彼女は頭が悪いから』と似た問題点。やはり本当は小児性愛でやりたかったのかな。だから色々と齟齬があるのだろうか?
 水に対する対物性愛という性的志向は確かにかなり特殊だが、対物性愛の中でも極めて安全かつポルノ規制されることはない種のものだ。それで下手打って捕まるんなら、結局その主人公達の生き辛さとやらの要因は別のところ(コミュニケーション能力の欠如や大人としての常識の無さ)にあるんじゃないかって読めちゃうよね。本人達としてはそうした能力の低さも元を辿ればその異常性癖が影響してると考えてきたのだろうけど、学生はともかく20代後半の夏月や佐々木がそうした楽な思考に収まり続けているのは同情できない。
 持ってはいけない欲求を持ってることを常に意識せられるのは辛いよね、死にたくなるよね、という話は理解するが、対物性愛の、しかも水なんて一般的にも綺麗とされているものを対象にした無害な性愛であれば、八重子視点の浅すぎる会話の中で語られていたダイバーシティ概念からも十分視野に認められるんでないの。しかも日本のインターネットなんて異様なまでに性表現に寛容なんだから、性的志向の孤独に悩む登場人物達が生涯その界隈に触れたこともなさそうで、避難先としてYouTubeのキッズ動画に屯するしかなくなっているという状況も不自然。というか、この作品の登場人物達も小説や映画や漫画などに少しでも触れていればもう少し自分の特殊性がいかにちっぽけなのかくらい理解する機会に恵まれそうなものだが。私のようなノーマル人間に当事者たちの孤独を想像される謂れはないとはいえ、それでも自分を特殊だと頭から決めてかかり他者を寄せ付けない態度は幼稚であり、注目すべきは性癖じゃなくてその幼稚さだと思った。というかそれを描いているのだろうが。
 人というのはこんなに性欲の話ばかりしているものだろうか。例え頭の中がそればっかりの人だって、性欲という共通項でしか人と交流しないなんてことはない。恋愛や性体験、結婚、子どもの話でしか会話の入り口がなく人間の興味を集められないような作品内の環境に強烈に違和感を覚えたが、それは私の周囲がたまたまお上品すぎるのだろうか? 一理あるかもしれないが、それだけじゃない。社交にはそれ相応の距離があり、距離のある人付き合いの中で、そんなプライベートな話題をあけすけに披瀝する人も、根掘り葉掘り尋ねてくる人もさしていない。なのに夏月の仕事先の年上女など、夏月が妊娠したと知った途端にギャグのような直截な悪口を投げつけてくるのだからリアリティーが無さ過ぎて呆然とする。人と人の繋がりという肝の要素を、物語のために単純化しすぎじゃないか。最後、八重子を大也(一番可哀想な人)にきちんと反論させていたのは誠実で素晴らしいが、登場人物みんながこんなに自分の気持ちを言葉にして相手にぶつけられるみたいなのに、終始過剰に抑圧されているのが出来すぎててチグハグだ。でもそれが小説なのかなあ。水に濡れた子どもの写真持ってるくらいで児童ポルノで捕まるって恐らく法に則ってないのでは? うーん。スカされてる感じ。とにかく「水」じゃ弱いだろ、という感想。


※以下、8/17追記

君たちはどう生きるか

 説明不足で、駄作という言葉が似合う駄作だった。最後に何か個人的なものを作りたかったのだな、という以外の賞賛は不可能な作品。市井の人は別としても、これを褒める批評家は作家性の知識や宮崎駿へのリスペクトに溺れてプライドも鑑賞能力も喪った人間とみなして良い。
 こういうのを名作と呼ぶ風潮はやめてほしい。原著へのリスペクトも申し訳程度にしか作中で感じられず、もはや収奪の域にまで侵している。
 あまり触れている人を見ないが、主人公の父親が妻亡き後に妻の妹と結婚するという王侯貴族みたいなことをしているのが異様すぎて暫く鑑賞のノイズになった。あれはあの時代よくあることなのか? 流石にそんなことはないだろうし、都合が良すぎる。
 あと宣伝費用一切ナシという広報戦略が誠実だとか硬派だとか一部で言われているが、その場合の採算って既存の知名度SNSによって成り立ってるから、回り回って凡俗でセコいイメージで終わっており、実際に上映後1-2週間はSNSの浮薄な口コミしか流れてこなかったので、硬派どころではなくむしろ極めて大衆迎合的な戦略だ。個人的な映画だから過度な宣伝は控えたいっていう意向ならまだわかる。



 
 映画の話題で少し雑感。
 数週間前に映画『バービー』のtwitter(現X)の広報アカウントがバービーとキノコ雲を結びつけたファンアートに肯定的な反応をしていたことが若干世間を賑わせていたようだ。キノコ雲を揶揄と言われると我々日本人は特に侮蔑的に感じるが、一方でキノコ雲自体が意匠としてかなり優れてしまっているからその辺が干渉するのだろう。
 造形としても、喚起するイメージの過激さも唯一無二の引力があるという点で、良くも悪くも優れた意匠であるから、海外の人々がこの意匠を意匠として気軽に使用する時、そこに原爆を揶揄する意図などは非常に薄く、ただ過激さを演出したいだけであることは想像できる。アメリカ人は我々のように小学校で『はだしのゲン』読まされてる訳じゃないから、同じ感覚は強要できない。拡大解釈すれば確かに戦勝国ゆえの無知蒙昧に起因するだろうが、映画のコラージュファンアート作るような人はその中でも大概アレな人だから、そこはもう仕方がないのだ。
 企業公式アカウントの管理不足を道徳の問題に拡大し、見解の表明を求めることに何のけじめがあるのだろう。放っておけばよいことに構いすぎる。しかし自分と関係のないことを関係づけて自分に巻き付く不愉快なものの1つに加えたい、人にはそういう欲求があり、欲求をぶつける藁人形があった時それは加速する。

*1:

*2:これはいじめを描く創作あるあるだが、実際のいじめというのはもっと日常の暇つぶしとして行われるものであるのに、創作におけるいじめ加害者はいじめそのものを目的として楽しんでいることが多い。バスケ部のいじめっこの本領域はバスケであり、いじめではない。むしろサブであるがゆえにいじめは残酷なのだ。