取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソンの伝記映画『Micheal』を見てきた。


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主演のジャファー・ジャクソンは好演で、特に最後の『Bad』のライブシーンは見応えがあったが、映画としては凡庸で消化不良だ。
配慮すべき対象が膨大かつ、2時間でマイケル・ジャクソンを描くという無茶な試みにまとまりをつけるために白羽の矢が立てられたのが、マイケルの周縁で唯一、一切の配慮が不要な父親ジョセフ・ジャクソン(ライオネル・リッチー似)だったんだろう。自分の意見や理想を明確に抱いているのに、いつも自ら話を切り出せないマイケルが、横暴な父とついに自分の意志で決別するという単純すぎる筋書きは、マイケルのことをほぼ知らない私から見ても、マイケル・ジャクソンという巨大な人物にとっては幾百あるサイドストーリーの1つといった重みに過ぎないように感じられた。

せっかく歌唱やダンスがすばらしいのだからそこを長尺で見たいのに、マイケルのノリノリな歌唱の合間合間にも音楽が一気にボリュームダウンして別室にいるプロデューサーがうんうん頷くだけのシーンが映し出されるので、そのたびに興が削がれる。頷くのはいいけど音量は下げないでほしい。
マイケルの人柄は当たり障りない最大公約数的なものに落ち着かせながらも、いくつかの異常性は(表面上はハートフルに受け取れるような形で)幼少期から匂わせており、その程度の描写が限界だったのだなと如実に伝わってきたが、やはりもう少しそこを見たかった。『Billie Jean』や『Bad』みたいな曲を作る人なんだから、内には強烈で繊細な攻撃性もあり、だからこそ表現に昇華できるのだろうし。

とはいえ映画を見た後、まんまとマイケル・ジャクソンのことをもっと知りたくなった。昨日今日と有名曲を聴き直し、マイケルに関する解説記事をいくつか読んだりしていると、今更な話、マイケルはかなり私の好きなタイプの偉人だ。圧倒的な実力でもって君臨するカリスマ、自信に満ち溢れた佇まい、潔癖な程に真面目で品行方正、飽くことを知らぬ向上心、周囲の裏切り、見え隠れするサイコな癖--平たく言えば私がアレクサンドロス大王に感じている種類の魅力を現代の誰よりも持っている。ど真ん中世代だったら傾注してたかもしれない。まあ、マイケルはアレクサンドロス大王よりずっと心優しそうだし、大王の魅力の中枢を占める無茶苦茶な軍事的才能とは当然無縁な訳だが。


脈絡のない話ついでにもうひとつ脈絡のない話をすると、ミシェル・ウェルベックの小説『プラットフォーム』で唐突にマイケルの話が出てくる箇所がある。

そこで僕はもっと複雑でもっと怪しげなセオリーを土台にしてみることにした。要するに、白人は褐色になって、黒人のダンスを習得したい。黒人は肌の色を明るくし、髪をストレートにしたい。全人類は本能的に混合を求めている。区別のつかない状態が行き渡ることを求めている。そしてまず最初の段階ではセックスという基本的手段によってそれを実現しようとする。ただひとり、このプロセスを終わりまで推進した人物はマイケル・ジャクソンだ。彼はすでに黒人でも白人でもない。若者でも老人でもない。それどころか、ある意味では男性でも女性でもない。彼の私生活は誰にも想像できない。彼は普通の人類のあらゆるカテゴリーを併せ持ち、あらゆるカテゴリーを越えようとした。だからこそ彼はスター、それも歴史的スーパースター(しかも事実、最も偉大なスーパースター)でいつづけられる。ほかの面々(ルドルフ・ヴァレンチノ、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒ、マリリン・モンロー、ジェームス・ディーン、ハンフリー・ボガート)は、せいぜいが天才アーティストという程度だ。彼らは人類の条件を表現してみせたにすぎない。つまりある美的な転換を行ったにすぎない。マイケル・ジャクソン、この最も偉大なスーパースターは、もう少し向こうへ行こうとした。(『プラットフォーム』河出文庫、pp.262-263)


これは「性市場において白人女はアフリカ男を求め、白人男はアジア女を求める傾向にある、それはなぜか?」というどうでも良い議題において主人公が持ち出すセオリーで、議題自体はどうでも良かったのだが、この発想はユニークで面白いし、主人公ひいてはその裏にいるウェルベックがいきなりマイケル・ジャクソンを激賞し始めたことに虚を突かれた。このあと、マイケルのことをサイボーグ第一号(人間外に起源を持つ部品を、自らの脳に移植することを受け入れた人間第一号)呼ばわりしたかと思えばまたサラッと別の話に移るのだが、ともかくマイケルがまだ存命だった時期に(『プラットフォーム』の発表は2001年)ウェルベックはマイケルをこれほど超人類的に評価していたということだ。
このような議題の中で引用されるのはマイケルにとっては全く名誉ではないだろうが、確かにマイケル・ジャクソンって、ヴィジュアルにおいてもパフォーマンスにおいても、アメリカ人が考えそうなクールな男の典型とは全く異なり、極めて中性的だ。そしてこうしたことがあらゆるカテゴリーにおいて同じように言うことができる。人間が本来、別種の人間と交わることで満たそうとする願望を、1個の心身で到達した初めての人類がマイケル・ジャクソンだという見方は面白い。

『Beat It』を見て寝ることとする。

Suzanne Vega "Solitude Standing"

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Solitude stands by the window
She turns her head as I walk in the room
I can see by her eyes she's been waiting
Standing in the slant of the late afternoon


And she turns to me with her hand extended
Her palm is split with a flower with a flame


Solitude stands in the doorway
And I'm struck once again by her black silhouette
By her long cool stare and her silence
I suddenly remember each time we've met


And she turns to me with her hand extended
Her palm is split with a flower with a flame


And she says "I've come to set a twisted thing straight"
And she says "I've come to lighten this dark heart"
And she takes my wrist, I feel her imprint of fear
And I say "I've never thought of finding you here"


I turn to the crowd as they're watching
They're sitting all together in the dark in the warm
I wanted to be in there among them
I see how their eyes are gathered into one


And then she turns to me with her hand extended
Her palm is split with a flower with a flame


And she says "I've come to set a twisted thing straight"
And she says "I've come to lighten this dark heart"
And she takes my wrist, I feel her imprint of fear
And I say "I've never thought of finding you here"


Solitude stands in the doorway
And I'm struck once again by her black silhouette
By her long cool stare and her silence
I suddenly remember each time we've met


And she turns to me with her hand extended
Her palm is split with a flower with a flame


孤独が窓のそばに立ち
部屋を歩いてる私を目で追う
待ってるんだとその目でわかる
立ち尽くしたまま 日が沈む

私に近づき 手を伸ばす
掌は花と炎で分かたれている

孤独が玄関に立っている
愕然とするほど黒い影
長く冷たい眼差しと沈黙
突然わかった 私たちは何度も会っている

私に近づき 手を伸ばす
掌は花と炎で分かたれている

彼女が言う「ねじれたものを正しに来たの」
彼女が言う「暗い心を照らしに来たの」
彼女は私の腕をつかんだ 怯えるように
私は言うの「こんなところで出会うなんてね」

視線を感じて群衆を見る
薄暗くあたたかい場所に屯する人達
彼らの中に交じりたかった
視線の先にいるのは一人

彼女が近づき 手を伸ばす
掌は花と炎で分かたれている

彼女が言う「ねじれたものを正しに来たの」
彼女が言う「暗い心を照らしに来たの」
彼女は私の腕をつかんだ 怯えるように
私は言うの「こんなところで出会うなんてね」

孤独が玄関に立っている
愕然とするほど黒い影
長く冷たい眼差しと沈黙
突然わかった 私たちは何度もこうして出会ってる

私に近づき 手を伸ばす
掌は花と炎で分かたれている


 ありふれたことだが高校の頃には頭に浮かんだことや詩を書きとめるノートがあり、そこに時折洋楽の歌詞を自分なりに和訳したものを書いたりもしていた。更に掃いて捨てるほどありふれたことに、高校時代には偉そうにも洋楽を嗜んだのである。YouTubeやニコニコ動画から良さげな音楽を物色して気に入ればTUTAYAでCDをレンタルし、中でもこれはと感じたものは金を出して買っていた。
 Suzanne Vegaのアルバム"Solitude Standing"はそうしたものの一つな訳だが、とはいえここ10年近くは存在すら忘れていた。たまたま思い出したのは、この前入った喫茶店でこのアルバムタイトル曲"Slitude Standing"が流れていたからだ。その時、かつてこのアルバムを繰り返し聞いて、そこに漂う挙動不審な女性の意識に心惹かれ胸をざわつかせていた高校生の自分を思い出した。そしていま思い返してみても、高校生の自分もなかなか趣味が良いんじゃないかと気づいたのである。

Solitude Standing

Solitude Standing

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 当時購入したアルバムは現在実家にあるので参照はできないが、たしか歌詞カードに和訳がついていたから、自分で和訳をするという発想は当時なかった。ノートに書いた覚えもない。しかしやはり今なおなかなか趣き深い歌詞なので、ちょいとここで自分の和訳を書いてみた。歌詞カードの和訳の大意も記憶しているつもりなので、記憶の中のそれを公式なものと捉えてみて、それから逸脱しすぎない程度にしている。


 Solitude(孤独)を自分から分化した影の存在として、擬人法で書かれた歌詞である。孤独という言葉は詩や散文に使われがちだが、その実は自分にしか興味がないだけの未熟な状態のことを孤独と形容して悦に浸っている愚かな例も多い。実際私も、陶酔を伴わずに自分のことを孤独だとかぼっちだとか自嘲できたことはない。
 しかしでは本来的な孤独というのは果たして何なんだろうと考えてみると、Solitude Standingで描かれている孤独はなかなか分析的だ。突然自分の似姿で立ち現れ、無防備で弱く、忘れた頃にやってくる。特に後半、内輪ではあたたかい筈の人々が、自分にだけ温度のない視線を一斉に浴びせてくる時に感じる、消え失せたいような慄然とした感覚は、あまりにシンプルで原始的な孤独だ。こういう時、頭の中にもう一人の自分がいて、その中で自分は彼らから白い目を浴びせられるがままになる。その無抵抗・無防備な自分があまりに苦しく情けないという、あの感覚。その不安が曲に上手く描写されている。


 簡易な英語だけども訳す上で難しいのはやはり"Her palm is split with a flower with a flame"の部分。でもまあ、伸ばされた掌が引き裂かれていて、一方は花、一方は炎に分かれている、と考えるのが普通な気がした。なんで花と炎で分かれてんのってのはまあそういう比喩だからと答えるしかないが、もう少し解釈するとつまり伸ばされた手は掴み返すことができずただ美しく燃え広がるだけ、ということなんだろう。


 スザンヌ・ヴェガは恐らく今そんなに有名な歌手ではなく、私もこのアルバムしか知らないが、少なくともこのアルバムは高いレベルで内省的な良い曲が多い。もうひとつの代表曲"Luka"も好きなので続けて和訳するつもりだ。

Clair Obscur: Expedition 33

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まだ全ての裏ボスは倒していないけどじっくり100時間ほどプレイしてエンディングも見たので軽く感想。
ゲームシステム特に戦闘のビルド要素、敵やマップの幻想的なアートデザイン、音楽については素晴らしいの一言、これによって100時間も楽しませてもらったが、シナリオには不満が多く残った。以下のIGNのレビューにほぼ同意する。

『Clair Obscur: Expedition 33』レビュー

島の外に屹立するモノリス(巨岩)に刻印された数字が毎年繰り下がり、そのたびにその数字の年齢の人が「抹消」されこの世から消えてしまう、という設定とそれを示唆するオープニングは卓越している。だからプレイヤーはその魅力的な謎がどのように解明されるかをずっと楽しみにしてプレイするのに、終盤、唐突かつ曖昧にその世界観の種明かしがなされ、しかもその種が大変がっかりな種なのである。この展開を良いと感じる人がそんなに多いとは思えないのだが、世間的にはシナリオも一定以上の評価を得ているのはよくわからない。自分たちが守ろうとしていた世界が実は作り物の世界で、自分たちはこの世界の外側にいる高次の存在からの観察対象だった…というグノーシス神話的な作劇は特に目新しいものではなく、そこにポジティブな意外性はない。こういう話で主人公をギュスターヴやルネではなくマエルにするのがフランス流のズラシなのか尖っていて好感はあるが、代償として、主役(と言って良いだろう)のマエルに感情移入するのが難しくなってしまっている。
プレイしているだけでは腑に落ちない、理解できない点が多すぎたので、考察記事みたいなのもいくらか読み、現在はストーリーにおけるおおよそのことを理解したつもりだ。しかし、普通のプレイヤーが考察記事読まなきゃ大枠も理解できないストーリーってどうなのよ。作品がプレイヤーに解釈を要求することは全く問題ないが、このゲームは単純に説明不足だし、説明されても「はあ、そうなんすか」と心がビタッと止まってしまう。エンディングも微妙。自分のプレイによってゲーム世界という箱庭を能動的に変えられるのがゲームの面白さなのに、微妙なバッドエンドしかない二択をいきなり強制されるのは明確に不満である。現実は辛く苦しい、というメッセージを伝えるにしても成功していない。


洋RPGって壮大な世界観を広げつつ最終的には家族の話に納まることが多くないですか? 私がやる洋ゲーがたまたまそういうのが多いだけだろうか。日本のセカイ系と逆を行く話の組み立て方。セカイ系は極端だし私自身は好きではなく、我々温室育ちの日本人が内省的に過ぎる点もあるのかもしれないが、かといってこれだけ物語世界の深みを演出しながら結局最小単位の共同体の話に収束するのも勿体ない。それが逆に粋、と思えるような展開でもなかった。
家族や自分のルーツというのはあらゆるユーザーに共鳴しうる重要なテーマかつ、登場人物を関連付けやすく話の組み立てに便利、というのはよく理解できるが、家族に関する登場人物の葛藤は、物語の中盤までに片づけておくべき通過儀礼だ。身辺整理ってそういうものだし、作劇としてもいったん内輪に閉じちゃうともうそこから話広げられない。家族という極度に具体的な実体より、一個人の頭の中の方がずっと自由で大きく、家族がいなくなっても自分や主人公の物語は続くんだから、せっかくそれを最大限に表現できるゲームの冒険物語が家族の話で終わっちゃうのは、宝の持ち腐れに思う。


とはいえやはりGOTY、素晴らしい点は多々あったのでもうちょっと楽しむ。シモン第2形態にもう10回くらい絶望させられているけど、ルミエールで取得したピクトスを上手いことビルドに組み込めば勝てるような気がする。
明日からはぽこあポケモン。