取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

『図説「史記」の世界』


司馬遷の『史記』に憧れはあるものの、おいそれと読めるものではない、それでもやはりエッセンスはずっと味わってみたかったので、図版の多いふくろうの本を買った。ちなみに現在絶版なのでAmazonの中古品である。ふくろうの本シリーズは粒揃いだけど悲しいかな絶版が多い。

面白かったところを一部抜き出す。

 孫武が呉王闔閭(こうりょ)の側室の女性たちを使って軍隊指揮のデモンストレーションを行ったとき、孫武は闔閭のお気に入りの愛妾二名を隊長に任命し、行進の基本的な動作を説明した。しかし女性たちはくすくす笑うばかりで命令に従わない。孫武は指揮者である自分の説明不足だとして、再び説明をし、再度行進をさせようとしたが、やはり女性たちは笑うばかりであった。
 すると孫武は、今回の不手際は指揮者の責任ではなく隊長の責任であるとして、闔閭の制止を聞かずに二人の愛妾を処刑した。そして別の二人を隊長に任命し再び行進の命令を下した。すると笑う者はいなくなり、全員が命令どおり行進した。(p.51)

 秦で人質になっていた燕の太子の丹が母国に逃げ帰ってきた。丹は秦王を恨み、報復を計画した。しばらくして秦の将軍樊於期(はんおき)が燕に逃亡してきて、彼はこれをかくまった。
 丹は秦への報復と樊於期の処遇について、燕の名士である田光先生に相談をした。田光は、自分はもはや年老いたと言い、代わりに荊軻(けいか)を紹介する。かくして荊軻が刺客として秦に送り込まれることとなった。
 荊軻は樊於期のもとを訪ね、自分の計画を話した。懸賞のかかっている樊於期の首を献上すれば必ず秦王は面会を許してくれる、そのときに秦王を刺し殺すのだと。樊於期は喜んで自ら首をはねた。(中略)彼もまた「士」であった。(pp.86-88)

 ある日、呉広はわざと酔っ払って役人を怒らせ、自分を侮辱させた。その気に乗じて陳勝たちは立ち上がり、役人たちを殺した。そして陳勝は、「目的地に着いても死刑、逃亡しても罪になるなら、いっそのこと謀反を起こそうじゃないか」と周りをたきつけ、その場にいた九百人で蜂起した。そのときに陳勝が呼びかけた言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」である。男として生まれたなら、大名声をあげてから死のうじゃないか。王とか諸侯とか、将軍とか宰相とか、生まれつき職業が決まっているわけではないという呼びかけは、農民たちの心をひとつにまとめ、蜂起を促した。(中略)
 陳勝が王となって間もなく、日雇い仕事をしていたときの雇い主がやってきて面会を求めた。彼は陳勝の日雇い時代の話を周りの人たちに面白く語った。部下の一人が、彼の話は陳勝の王としての威信を落とすものだと進言したため、陳勝は彼を殺した。しかしその事件以降、人々の心が彼から離れていった。(p.100)

 ある日、張良が散歩していると、橋のところで一人の老人に出会った。その老人はわざと履を橋の下に落とし、「若いの、降りて履を拾ってきてくれ」といった。張良は腹が立ったが、相手が老人であることを思い、我慢して履を拾ってきてやった。すると老人は「はかせてくれ」と言うので、張良はひざまずいてはかせてやった。老人は笑って去っていくときに「お前に教えてやることがある。五日後の早朝、ここで会おう」と言った。
 五日後の夜明け、張良が橋のところへ行くと、老人はすでに来ていた。老人は「約束しておきながら、遅れてくるとは何ごとだ」と怒ったが、「五日後、また早朝に会おう」と言って去った。その五日後、張良は鶏鳴の時刻に行ったが、また老人に後れをとった。その五日後、張良は前の夜からその場所で待った。老人がやってきて、「こうでなくてはいかん」と喜んで、一冊の本を張良に渡して去り、二度と張良と会うことはなかった。その本は太公望の兵法書であった。張良はこれを熟読し、その後劉邦に従っている間に、さまざまな献策をして活躍することになる。(pp.108-109)


 古代中国史においては、到底自然に受け入れることができない飛躍した話が次から次へと当たり前のように語られるため、それが醍醐味だと理解した上で読む必要がある。人物が激怒するポイントも感心するポイントも現代日本人にはピンとこないが、合理性というよりも登場人物の胆力を見せて「こいつはすごい奴だ」と思わせることに重きが置かれているのだろう。王や諸侯は甚だ真偽の不確かな伝聞情報によって直ちに臣下達を処刑し、平然と族滅までさせるほどで、現代人より遥かにフェイクニュースに踊らされているのに何故か威風堂々としている。かと思えば、相手に類まれな機転や能力を見出せば、たとえ自身の周囲を害せども一気に宰相まで取り立てるほどの厚遇も辞さない。最後に引用したこの五日後ジジイのエピソードなんて、履をはかせろと言ったその場でこの老人が張良に殺害されていても史記において何ら違和感はないのだが、唐突に現れなぜか張良を引き付ける謎めいた気配を漂わせつつ、結局ただ早起きなだけの老人(幻?)だったみたいな意味のわからない話だ。こういうのは司馬遷のユーモア創作なのだろうか。funnyの方の面白さが多分にあることが価値を高くしている。

 長いので引用はしなかったが、藺相如の逸話にも大変困惑した。簡単に言うと趙の藺相如という家臣が、大国の秦王から「趙の持ってる和氏の璧(伝説のアクセサリー的なもの)をくれるなら、秦の城15個と交換する」というありえない交渉を持ち掛けられる話だ。ありえない交渉なのだが、藺相如はその秦王との交渉中にもいきなり超サイヤ人みたいに怒髪天をついて怒ったりして秦王をたじたじさせ、結局璧は渡すことなく、城も貰うことなく帰ってきたので、巧みな交渉によって「璧を全うした」ということで「完璧」の由来となっている。語られる話すべてがこんなにスッと入ってこないことも珍しい。


 また中国の英雄たちはみな、王に昇り詰めるまでは天才的な軍事センスと徳を兼ね備えた人たらしなのに、ひとたび王になれば猜疑心の塊と化し、佞臣にあらずんば酷吏と言わんばかりに有能な臣下を手当たり次第に戮していくという典型がある。というかこれはやはり典型なのだなというのを読みながら実感した。これは始皇帝、劉邦、朱元璋、そして明記は避けるが近現代まで、歴代の中国の王たちに共通して見受けられる傾向であり、広大な国土を束ねる権力のインフレ、それに招かれる血みどろの闘争がうかがえるが、特に近代以前はそれを全く隠そうとしないので露骨極まる。劉邦なんて韓信まで殺すんだから酷いよね。疑いようがなく野蛮で弱肉強食な世界であって、風通しは最悪だが、一本筋と度胸が何より重んじられた。このような者たちが活躍していた時代に思いを馳せることは荒唐無稽で楽しい。


 最も好きな中国史の人物を問われれば子路である。ひとえに中島敦の『弟子』と下村湖人『論語物語』をはじめとした論語まわりの創作の影響が大きいが、史記でも子路や孔子は熱く描かれているようだ。いずれもう少し詳しい史記の本も読みたい。横山光輝の史記もいつか読みたいんだよな。
 またこの本を読んだことをきっかけに、久々に中島敦の『李陵』も読み返した。宮刑に処された司馬遷がのたうち回る心の描写は言わずもがな、改めて読んでみると李陵の器の描き方は惚れ惚れする絶妙加減で、李緒を即座に殺すところなんか李陵の矮小さが滲み出ている。李陵の気持ちはよくわかる。史記は荒唐無稽だが、そこで語られるもののその奥に近づきたいと思わせる。中島敦はその中心、その原理を捉えていた。中島敦が生き長らえていたら、史記のいろんな翻案を読んでみたかった。

勝てばよかろうなのだ選挙

祝・2026年。

とはいえもはや2月になってしまった。忙殺と言えるほど忙しくないにもかかわらず、何も書けていない。近ごろは自分だけのための物事に対して妙に不安で腰が重たくなるばかりだ。いかんいかん。

ブログに関してはなかなか難しい都合もある。平日の日記を書くとなれば、しがない一会社員として働いている以上は多少なりリスクがある、もとい、求めていない無駄なスリルが発生してしまい、好き勝手に書けない。だから基本的には休日の日記または日記以外のことを書くほかないが、休日の日記など社会常識のある常人が好き好んで書くようなものではなく、自分の休日がいかに自堕落でいかに徒然としているかが白日のもとに曝け出されてうれしいことなど何もない。一時はブログの継続のために日記を書こうと発想したが、これだから、日記は無理だ。日記ならざるものを日記として書いていくしかないだろう。というか元々そんな感じだったのだから、そんな感じで滔々と再開する。


昨日は選挙だった。寒さ厳しい中せっかく外出するなら投票終わりに何か映画でも見ようかと、出かける前に夫と二人で映画を物色していたところ、夫が「〇〇(私)がめちゃくちゃ嫌いそうな映画見つけた!」と欣喜雀躍として予告編を見せてきたものがある。以前もその言葉とともに『ナミビアの砂漠』の予告編を見せてくれたが、今回見せてくれたのは何を隠そうバカリズムの『架空OL日記』である。かなり前の映画であり現在上映している訳もないのだが、私の嫌いそうなものを見つけると喜色満面で報告する傾向を持ち、私のバカリズム嫌いを深く知っている夫が、どこからともなく鋭敏な感性で発見してくれた。強制的に見せられた予告編を吟味し、その不快さについて談義する。夫はバカリズムの女装とそれをはばからずOL役に交じる感覚にまず嫌悪感を示していたが、やはり私はそれに加えて、人畜無害そうな顔をした男がちゃちなセンス一本で自活し、女を程よく馬鹿にしながら取り巻いていくという現象が憎くて悔しくてたまらない。こういう男が勝つ世の中は嫌だ。
そういう談義はできたものの、見る気は全く起きないしそもそもいま上映していない。その後も少し探したが、近場かつちょうどよい時間帯で見れる面白そうな映画はなかったので、結局投票後はご飯だけ食べて帰宅した。


家で自民圧勝の選挙速報をぼんやり眺める。自民が勝つのは当然予測できたことだが、ここまでの大勝とは思っていなかったので驚いた。大義のない選挙だというのは事前に散々指摘されていたけれども、本当に大義はなく、ただ勝つための選挙だったのだろう。これを受け、今回の選挙を私は「勝てばよかろうなのだ選挙」と頭の中で名付けてみた。
選挙、特に小選挙区制はあまりに政治的だ。そこで勝つということはつまり政策の良し悪しというよりも端的に政治力によって勝つことに等しい。政治力は大変に重要な要素なのでこれはこれでやはり理にかなった仕組みだと思うが、釈然としない部分もある。小選挙区制において有権者が取れる実質的な有効打は、与党に入れるか対立候補に入れるか、ありていに言うと予測1位の人か2位の人かのどちらか二択であって、それ以外の票は無惨なほど意味がない。まあ、選挙が政治力やネームバリューによるものだなんてこと、言い出したら今更か。バカリズムが出馬しても当選しちゃうだろうな。それにしても、あまりに政治力のない敗け方をしていた党には同情さえ湧いてしまった。支持政党を持たないのんべんだらりとした自分でも、組織を牽引してきた有力者が失意の中で引責する場面は、見ていて快いものじゃない。しかし仕方のないことだ。
今は嫌なことばかり言う人が多い。人が高潔になるのは難しい。どんどん難しくなっているのかもしれない。

早まる集合

今週は3連休だったが、うち半日は出勤した。私と上司と後輩の3名が参加する仕事だったので、前日に私から他2人へ「12時15分集合でどうですか?」と提案し、上司もクレバーな感じで「了解」とその場を締めていたのだが、その20分後、上司が先方に「我々は12時前には参ります」とメールを送っていた。
え…話聞いてた? と思うのも束の間、先方からすぐ「それでは私も12時前に参ります」と返信が来てしまい、指摘もできないまま私たちもなぜか12時前に着かなければいけなくなった。いや、別にいいけど何で早まってんだ。


日曜は夫がメタルギアソリッドΔをクリアするところと、井上尚弥vsアフマダリエフ戦を鑑賞。


メタルギアは初見だがストーリーが骨太でかっこいい。かと思えばすぐ胸元のジッパーを下げるスケベ女もいるし、敵の能力は全員人知を超えており特にオセロットには毎回笑わせてもらった。あげく最終的にはザ・ボスまで服のジッパーを下げてくる始末である。ゲームというのは自分のプレイを含めそうした緩急が楽しい。
ツッコミどころは数えきれないほどあったが、無視できない点で言えば女性であるザ・ボスがなぜあんなに強いのかの説明が欲しかった。ギャビ・ガルシアみたいなフィジカルなら強さにも納得するが、そうではないんだからザ・ボスが軍人になる経緯をもう少し教えてほしかった。


井上尚弥戦はながら見。夫がボクシング好きなので結婚してからたびたび配信でボクシング鑑賞しており、あしたのジョーで止まっていた私のボクシング知識にもわずかながら蓄積が増えつつある。(それでギャビ・ガルシアも最近知った)
私は他人の試合なんて結局自分に関係ないじゃん、とそこで興味が尽きてしまうが、とはいえ選手の背景をある程度知ると、2人ともこんなに頑張ってきたのにどちらかが負けてしまうなんてあんまりだ、とは思えてきて見てられない。
しかし互いに人生を背負った強い男と強い男が、肉弾戦という象徴的な形式で鮮烈にぶつかり勝敗を決するその様は、多くの男性にとっては大いに自分に関係するメタファーに見えるんだろう。その想像はできなくもない。ただフェイスオフやトラッシュ・トークなる儀礼を知った時には爆笑した。皆時には笑いをこらえつつ、その場では当たり前のように振舞っているのがなお面白い。なるほど見世物っていうのはよく考えるな。