取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

最近見た映画+α

ここ半年くらいに見て、特筆する点あるもののみ。

ブエノスアイレス

 映画好きの友人に『ウォン・カーウェイ4K』特集に誘ってもらい、劇場で鑑賞。初めてゲイ映画を見た。映画そのものは正直わからないという感想に尽きるが、こうやってくっついたり離れたりを繰り返すカップルって確かにどこにでも一定数いるよなー。普通のカップルであれば好意の下に容赦し合えるような些細なトラブルでも、お互いが激情型だとその都度に十分な離別の理由となってしまうのだろう。しかしほとぼりが冷めると好意や情がむくむく戻り、いつのまにか元鞘になっている。とても大人同士の関係とは思えないが、本人達にしかわからない関係ってやつか。とはいえ、こうした刹那的な痴情関係に文学性みたいなものを見出して悦に浸っている奴は死んだ方が良い。
 映画もまあわからないなりに構成や画面作りなどは面白く見れたが、映画よりも鑑賞後に友人と食事しながら「あのシーンって何だったんですか?」「台所でダンス始めたあたり、絶対この後こいつら発情するじゃん感すごいよね」とキャイキャイ盛り上がったのが楽しかった。後から調べて知ったが主演のトニー・レオンはゲイ役だけは演じないと断言していたのに、別シナリオの撮影と騙されてゲイ役を演じる羽目になったらしい。そんなんでよくあんな冒頭のベッドシーン演じてくれたな。一昔前の撮影現場は無茶苦茶な話が多すぎる。

戦場のメリークリスマス


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 よくわからないままにいつの間にか感動させられる、ツッコミどころ満載の映画だった。『ブエノスアイレス』よりはまだ幾分わかりやすいが、説明や表面的なメッセージ性を可能な限り省略した、視聴者に伝える気ゼロの感じは巨匠っぽい。映画のテーマを暗喩する重要な最初のシーンから、たけしの台詞が聞き取れなすぎて笑ってしまう。
 要するにヨノイ大尉にとってセリアズは裁判所で出会ったその時から性的にど真ん中のタイプの男だった、という理解で良いのだろうが。抱擁の場面は最初ピンと来なかったけども、大尉が俘虜から友好のハグをされるなどという唐突にして最大限の侮辱行為に狼狽しつつも、胸に秘めていた禁忌の恋心を不意に射貫かれてまさに「キュン死に」してしまったヨノイ大尉の姿は、間抜けで確かに面白い。
 セリアズの弟のくだりが明らかに浮いていたが、『ブエノスアイレス』に誘ってくれた友人によれば、原作*1だと弟の存在がかなり重く描かれているのでその名残らしい。映画では最後まで必要性を見出せなかったものの、弟がえげつない集団リンチに遭う横でセリアズが一人で異常にかっこよく立ち尽くしているのを並べて収めた画面分割は美しかった。

パッチギ!

 好きではないが面白かった。公開当時の流行の仕方からして大衆的な青春映画とイメージしていたが、1968年という時代に生きた不良高校生の葛藤を軸に、日本と朝鮮の民族間の摩擦、揺らぎを真剣に考え抜いており、その上でエンターテイメント性もふんだんで、なかなかどうして良い映画。毛沢東を賞賛する高校教師やら、二枚目なお兄さんだったのに登場のたび急速にヒッピー化するオダギリジョーやら、世相もコミカルに反映されている。
 川の分岐点(出町柳)で不良の抗争が起こったり、塩谷舜が身一つで川をまさぐりながら川岸の沢尻エリカに話しかけたり、鴨川をイムジン川になぞらえた描き方はわかりやすく、しかし強調されすぎてもおらず、その塩梅が上手い。
 私などは「アンソンらの境遇の厳しさはわかるが、奴ら結局下品な不良だし、不良に何を言われてもなあ…」と思ったりするが、ああした立場に置かれた者、特に男は舐められたら終わりなのだろうから、私が真に理解することのない闘争の中にいるのだろうな。暴力映画や不良映画というのは、何を見ても「なぜ暴力なのか」という命題が最後の一歩で分からず仕舞いでピンと来ない。あと最後は塩谷舜と沢尻エリカ破局する方が私の趣味だ。

ブックスマート


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 楽しく器用な映画だけど空々しい。同じハイスクールの同級生が名門大学に進学するエリート達だということに卒業前夜まで気付かないって、いくらなんでも設定に無理があるが、そこは詰めてはいけないところなのだろうか。親の金でイキりパーティーできて良かったねという感じ。行かなきゃいいんだあんなのは。優等生が下ネタで盛り上がっている姿を見るのは微笑ましいでは済まない気まずさ、恥ずかしさがあってどうも苦手だ。なんていうか、彼らが「良い奴」に見えるのは、彼らが純粋培養だからであって、良い奴だからではないと思うのである。
 主人公のモリーはぽっちゃり体型で、映画の中ではいわゆるボディ・ポジティブを表現するキャラクターとしてチャーミングに描かれている。ボディ・ポジティブ。極めて超越論的な言葉だ。その言葉によって目指す理念は想像に易いし賛同するが、実用の場面では結局ただ「デブ」の婉曲表現になってしまう。この婉曲は思いやりや品性、理念としての価値を持つが、どうしても内実が伴わない。逆を張ることでより真理が浮き上がってしまう。つまりデブはネガティブだからこそボディ・ポジティブと言わなければならないのである。価値が転覆されるどころか既存の価値観に依存しきってているからこそ成立する発想であり、悪く言うと自己欺瞞。だからボディ・ポジティブは詭弁だ、ということが言いたいのではなく(詭弁ではあるが、人間的で前向きな詭弁だからそれはもう良い)、ただリベラリズムを旗にあげているからには、言葉が持つ超越論的側面に言及することを省略したり、忌避したりしてはならないのではないか。
 

300(スリーハンドレッド


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 清々しく馬鹿で面白い。序盤はまだ名作の香りがしたが、中盤からは血と暴力のエクスタシーにエンジンを全開していて、そういう映画なのだと理解した。クセルクセス王はじめ魑魅魍魎のペルシア軍のふざけたデザインが魅力的。
 映画はギャグだが、莫大な資金をスパルタ軍とレオニダス王で1本の映画を作ることに費やした心意気がまず楽しいものだ。スパルタという都市国家は世界史上のホモソーシャルの極北である。市民人口の10倍とも言われる奴隷を支配するために、ただ自らが強くなることを選択した都市。その選別は生まれ落ちた瞬間から始まり、虚弱な赤ん坊はタイゲトス山から投げ捨てられ野獣の餌として人生を終える。男児は7歳で強制的に親元を離れ、12歳で軍隊入り、15歳頃には奴隷を殺し略奪して1年間のサバイバル生活を送る。贅沢は厳しく罰せられ、血肉そのものと言える腐臭の料理(メラス・ゾーモス)を日常的に食す。俄かには信じがたいメタファーのような規律だが、実際に敷かれたどころか何百年もこれが持続したというのが驚異だ。スパルタ人の内面が一人称で綴られた日記があるとすれば是非読んでみたいが、日記なぞという軟弱な発想はスパルタ人には無いのである。

言の葉の庭


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 童貞が見た美しい夢の映像化に成功し続けている男、新海誠。コメディー映画としては相当に面白く、『戦場のメリークリスマス』の優に30倍はツッコミどころが存在する稀有な映画である。
 閉じた世界の全肯定が凄まじい。主人公の男子高校生タカオが作る靴(←笑)がハイヒールパンプスばかりなのが端からキモすぎるのに、なぜかタカオはアンニュイかつ朴訥な好青年として造形され続ける。そしてタカオが恋するユキノ先生に至っては、勤務する学校の12歳年下の男子高校生(タカオ)を当然のように自室に連れ込み、連れ込んだ上で曖昧に振るという最低最悪な女であるのに、この女を「ユキノちゃんは何にも悪くないんだよ!」「ユキノちゃんは優しすぎるんだよ」とフォローする女子生徒すら現れる始末である。一方で、その何にも悪くないというユキノ先生を虐めた生徒達は、あまりに記号的でもはや人格として描かれていない*2。映画の中ではタカオとユキノ、この2人だけが生きていればいいと思ってる。
 最後の方のモノローグで《期末テストは案の定散々な点数を取り…》と滔々と語られていた時は「バカなのかよ」と爆笑してしまった。最後の《あんたは一生そうやって!自分は関係ないって顔して…ずっと一人で、生きていくんだッ!!》も癖になる面白シーンである。出来上がった靴もダサすぎて最高だ。
 とはいえ、こうした気持ち悪いセカイ系映画をこの完成度で形にするというのはなかなか出来ることではない。いい大人になってこの湿り切った脚本に方々を巻き込み、現実から逃避するかのような美麗な背景美術でもって映像に仕上げ、一定以上の興行を出すのだから並大抵じゃない。キモいって才能なのだと思わされる。
 余談だがこれを見た後に『三島由紀夫vs東大全共闘』(後日単独で記事にする)を見たため、全共闘相手に決死に論じる三島由紀夫を眺めながら『言の葉の庭』の数々のシーンが頭に過り、確かに今の日本は憂国だと思った。



セッション


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 良いねえ! フレッチャー教授の悪口がボキャブラリー豊かでセンス良い。言ってることの暴虐無比もさることながら、頻繁に親を引き合いに出してくるところがよくわかってるし、練習中以外では思慮深い誠実な人間の顔をするのも芸が細かい。
 行き過ぎた指導の話であり事実この先生は極端だが、アンドリューとフレッチャー先生のようなその道のトップ層の世界ではなくとも、教え子の感情を支配することにaddictedだった教師の顔を一人や二人、我々はみな思い浮かべられるのではなかろうか。生徒の冗談をニコニコ笑って聞いているかと思ったら、独特な理由でいきなり怒鳴り出したり、また時には信じられないほど感傷的な話を帰りの会で息せき切って語り出して生徒を惑乱させたりする。なべて教師という人種は「締める時は締めなければならない」という勝手な使命感に燃えている人が異様に多いと見受けられるが、締め方がパーソナルな逆鱗に依拠している教師ほど厄介なものはない。そう思えばフレッチャー先生は実績と能力が十分あるだけまだマシだ。
 アンドリューの家庭が音楽一家でも何でもなく、むしろアンドリューだけ孤立しているのが説得力あって良いね。音楽の他に寄る辺なく、いつも悔しく、我慢していて、実力と名声を以て奴らを見返してやりたいと思ってる。アンドリューが勝手な被害妄想でニコルを一方的に振るシーンもリアル。ニコルはかなり良い女なのでアンドリューには勿体ない。

あのこと


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 間違いなく質は高いが、映像の卑猥さと痛々しさが先行してとにかく気持ち悪かった。わかってることをガンガン大声で責め立てられる感じが居心地悪い。
 こうした「語られなかった、しかし目を背けてはならない女たちの物語」系の映画は、どれほど質が高くとも自分の心を大きく動かしてくれたことは今のところない。特に未成年の妊娠中絶をメインテーマに据えている作品になると、主人公の女性達に対する共感が著しく難しくなり、加えて必然的に生々しいシーンが絶えないので、目に映る映像全てを拒絶したくなってしまう。中絶は別にいいけど、中絶のまさにそのシーンになると、人間の体は気持ち悪すぎる。醜く艶めかしい人体構造そのものに対する不快さで指に力が入らなくなるのである。そしてなぜ彼女達に共感できないかと考えると、こうした作品では大抵の場合、当事者の女性達は「内なる法」を持たない存在として描かれているように感じられ、そのことに「何でだよ」、と頭が軋む違和感がずっと続くのだ。『あのこと』で妊娠する主人公は特に無理を強いられた訳ではなく、一時の寂しさを紛らわすため自分で選択した相手と行為に及んだ結果として妊娠している。だから自己責任だと言いたいのではない(そもそも圧倒的に男が悪い)。そういう衝動行為自体は非難したくないが、ただそこに至るまでにも道程や葛藤はきっとある筈で、何も火花だけってことないだろう(ないよね?)。私が見たいのはその葛藤であって、その後のことは正直、そこまでなのだ。『あのこと』含めこのテーマの映画は、火花があったことがサクッと示された後の、燃え尽きて湿った火薬をバケツ処理する部分にうんと時間を費やす。それも大事なのは理解するし、それを重視しない自分は弁解の余地なく傲慢だし、事が起こらないとそりゃあ物語にならないんだけど、私はその前の頭の中が見たいのだ。じゃないと全然わからないじゃないか。みんなわかるの?
 とはいえこの映画も質は高かったので、アニー=エルノーの原作『事件』も読んでみた。『事件』は映画の方が出来が良いと感じたが、同時収録の『嫉妬』が面白い。自伝的小説に付きものの、著者の生き様に付き合わされている感のダルさはそこそこあるけれど、人間心理への洞察力と描写力が生半可じゃないので、ずっと同じこと言ってるだけでも飽きさせない。


あ、春


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 これも映画好きの友人が相米慎二監督特集に誘ってくれて、劇場で鑑賞。持つべきものは映画に詳しく一緒に映画を見てくれる同性の友人である。誘われなかったら絶対自分からこんな渋いやつ見ないし、こんな面白い映画があることも知らなかったろう。完成度が非常に高く、鑑賞後に爽やかな気持ちになれる私の好きなタイプの映画だ。シンプルに好きなタイプの映画というのは逆にあまり特筆することもないのだが、妻の斉藤由貴が薬を服用しており何らかの精神病を患っていることを示唆していたのが上手くて憎い。そして実際に途中、佐藤浩市が寝室で真剣な話をしようとしているのに斉藤由貴が「面白い顔~!」と金切声で大笑いし始め止まらなくなるシーンはゾッとするほど写実的な怖さがあり、佐藤浩市がビンタしたくなる気持ちがよくわかった。あれは引っ叩きたくなるね。

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー


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 楽しいファンムービー。マリオを2-3作プレイしたことがあれば1分に1回くらい「あ!」とニヤリできる発見がある。が、たとえマリオを全てプレイした人でも、マリオ、ルイージ、ピーチの生い立ちがあんなだったとは知らないんじゃないかな。マリオ個人について「25歳前後」「イタリア系移民」「配管工」という断片的な知識はあれど、それらが結びつくマリオの境遇や日常を具体的にイメージしたことはなかったので、「望む望まないに関わらず急にマリオに詳しくなってしまった感」が半端じゃない。なんかピーチとか処女受胎みたいな展開でキノコ王国来てるし、「え、そんな感じだったの?」でしかない。
 興行が絶好調なのと裏腹に批評家のレビュー点数は低いだとかで、Twitterのオタク達が何やら高度な議論を交わしてたようだが、レビューが高くないのは当たり前だろう。そこに評価で拘っても仕方がないんじゃないか。オタクが希求するものについては謎が尽きることはなく、あまりに高度なので私には理解できなかった。

朝井リョウ『正欲』

 映画じゃないけどつい昨日読んだので感想メモ。
 巧みだし世の中を向いているところに大きな価値があり、売れるのもよくわかるが作品は腑に落ちない。レベルは違うが『彼女は頭が悪いから』と似た問題点。やはり本当は小児性愛でやりたかったのかな。だから色々と齟齬があるのだろうか?
 水に対する対物性愛という性的志向は確かにかなり特殊だが、対物性愛の中でも極めて安全かつポルノ規制されることはない種のものだ。それで下手打って捕まるんなら、結局その主人公達の生き辛さとやらの要因は別のところ(コミュニケーション能力の欠如や大人としての常識の無さ)にあるんじゃないかって読めちゃうよね。本人達としてはそうした能力の低さも元を辿ればその異常性癖が影響してると考えてきたのだろうけど、学生はともかく20代後半の夏月や佐々木がそうした楽な思考に収まり続けているのは同情できない。
 持ってはいけない欲求を持ってることを常に意識せられるのは辛いよね、死にたくなるよね、という話は理解するが、対物性愛の、しかも水なんて一般的にも綺麗とされているものを対象にした無害な性愛であれば、八重子視点の浅すぎる会話の中で語られていたダイバーシティ概念からも十分視野に認められるんでないの。しかも日本のインターネットなんて異様なまでに性表現に寛容なんだから、性的志向の孤独に悩む登場人物達が生涯その界隈に触れたこともなさそうで、避難先としてYouTubeのキッズ動画に屯するしかなくなっているという状況も不自然。というか、この作品の登場人物達も小説や映画や漫画などに少しでも触れていればもう少し自分の特殊性がいかにちっぽけなのかくらい理解する機会に恵まれそうなものだが。私のようなノーマル人間に当事者たちの孤独を想像される謂れはないとはいえ、それでも自分を特殊だと頭から決めてかかり他者を寄せ付けない態度は幼稚であり、注目すべきは性癖じゃなくてその幼稚さだと思った。というかそれを描いているのだろうが。
 人というのはこんなに性欲の話ばかりしているものだろうか。例え頭の中がそればっかりの人だって、性欲という共通項でしか人と交流しないなんてことはない。恋愛や性体験、結婚、子どもの話でしか会話の入り口がなく人間の興味を集められないような作品内の環境に強烈に違和感を覚えたが、それは私の周囲がたまたまお上品すぎるのだろうか? 一理あるかもしれないが、それだけじゃない。社交にはそれ相応の距離があり、距離のある人付き合いの中で、そんなプライベートな話題をあけすけに披瀝する人も、根掘り葉掘り尋ねてくる人もさしていない。なのに夏月の仕事先の年上女など、夏月が妊娠したと知った途端にギャグのような直截な悪口を投げつけてくるのだからリアリティーが無さ過ぎて呆然とする。人と人の繋がりという肝の要素を、物語のために単純化しすぎじゃないか。最後、八重子を大也(一番可哀想な人)にきちんと反論させていたのは誠実で素晴らしいが、登場人物みんながこんなに自分の気持ちを言葉にして相手にぶつけられるみたいなのに、終始過剰に抑圧されているのが出来すぎててチグハグだ。でもそれが小説なのかなあ。水に濡れた子どもの写真持ってるくらいで児童ポルノで捕まるって恐らく法に則ってないのでは? うーん。スカされてる感じ。とにかく「水」じゃ弱いだろ、という感想。


※以下、8/17追記

君たちはどう生きるか

 説明不足で、駄作という言葉が似合う駄作だった。最後に何か個人的なものを作りたかったのだな、という以外の賞賛は不可能な作品。市井の人は別としても、これを褒める批評家は作家性の知識や宮崎駿へのリスペクトに溺れてプライドも鑑賞能力も喪った人間とみなして良い。
 こういうのを名作と呼ぶ風潮はやめてほしい。原著へのリスペクトも申し訳程度にしか作中で感じられず、もはや収奪の域にまで侵している。
 あまり触れている人を見ないが、主人公の父親が妻亡き後に妻の妹と結婚するという王侯貴族みたいなことをしているのが異様すぎて暫く鑑賞のノイズになった。あれはあの時代よくあることなのか? 流石にそんなことはないだろうし、都合が良すぎる。
 あと宣伝費用一切ナシという広報戦略が誠実だとか硬派だとか一部で言われているが、その場合の採算って既存の知名度SNSによって成り立ってるから、回り回って凡俗でセコいイメージで終わっており、実際に上映後1-2週間はSNSの浮薄な口コミしか流れてこなかったので、硬派どころではなくむしろ極めて大衆迎合的な戦略だ。個人的な映画だから過度な宣伝は控えたいっていう意向ならまだわかる。



 
 映画の話題で少し雑感。
 数週間前に映画『バービー』のtwitter(現X)の広報アカウントがバービーとキノコ雲を結びつけたファンアートに肯定的な反応をしていたことが若干世間を賑わせていたようだ。キノコ雲を揶揄と言われると我々日本人は特に侮蔑的に感じるが、一方でキノコ雲自体が意匠としてかなり優れてしまっているからその辺が干渉するのだろう。
 造形としても、喚起するイメージの過激さも唯一無二の引力があるという点で、良くも悪くも優れた意匠であるから、海外の人々がこの意匠を意匠として気軽に使用する時、そこに原爆を揶揄する意図などは非常に薄く、ただ過激さを演出したいだけであることは想像できる。アメリカ人は我々のように小学校で『はだしのゲン』読まされてる訳じゃないから、同じ感覚は強要できない。拡大解釈すれば確かに戦勝国ゆえの無知蒙昧に起因するだろうが、映画のコラージュファンアート作るような人はその中でも大概アレな人だから、そこはもう仕方がないのだ。
 企業公式アカウントの管理不足を道徳の問題に拡大し、見解の表明を求めることに何のけじめがあるのだろう。放っておけばよいことに構いすぎる。しかし自分と関係のないことを関係づけて自分に巻き付く不愉快なものの1つに加えたい、人にはそういう欲求があり、欲求をぶつける藁人形があった時それは加速する。

*1:

*2:これはいじめを描く創作あるあるだが、実際のいじめというのはもっと日常の暇つぶしとして行われるものであるのに、創作におけるいじめ加害者はいじめそのものを目的として楽しんでいることが多い。バスケ部のいじめっこの本領域はバスケであり、いじめではない。むしろサブであるがゆえにいじめは残酷なのだ。