取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実


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 右か左かというのは、自己と世界の関係をどう見るかによって決まる。そのことがよくわかるドキュメンタリー。
 この討論会は「日本で言葉が力を持った最後の時代の激論」のように形容されており、確かに両陣営とも終始日本はこのままではいけない、という共通の情熱を以て議論しているが、討論を通して最後までどちらの形勢が崩れるようなこともなければ両主張の着地点として何か光明が差すようなこともなく、結局は三島由紀夫全共闘の世界認識の溝が浮き彫りになっているだけのようにも見えた。三島由紀夫自身が最後に討論会を振り返って「言葉は言葉を呼んで、翼を持って、この部屋を飛び回ったんです」と詩的な言葉を残しているが、そんな融和の感動は自分にはもたらされず、むしろその後の「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」に示されるように、三島由紀夫全共闘に対してその熱情以外は一切信用できずに終わったし、説得もできなかった、というところが結論に近いのではないか。それは仕方がない。左翼は自分が世界に先立つ尊厳ある人格と考え、右翼は自分は単に世界にたまたま生み落とされた一個の人間と考える。両派は世界認識がまるで違うのだ。


 三島由紀夫に対する私の造詣は皆無と言っても差し支えない。『金閣寺』『仮面の告白』『不道徳教育講座』あたりは中高時代に読み、『金閣寺』には相応の感銘を受けた筈だが、以降は大学在学中のとある一日、ふと思い立って三島事件の顛末をぼうっとwikipediaで読み明かす夜が一晩だけあったというくらいのもので、ここ最近で三島由紀夫まわりについて思ったことを無理くり引き出そうとしてみても、強いて言えば数か月前、三島由紀夫が最期の演説で口にした「お前ら、聞け。静かにせい。男一匹が命をかけて諸君に訴えて云々」みたいな文句をtwitter(現X)で構文的に使っている男達を目にした時に、彼らの全てを否定してやりたい猛々しい衝動に駆られたという、小粒も小粒な話しか出てこない。


 その程度の知見しか持たぬ私だが、この討論会の記録を見る限り、やはり三島由紀夫、一角の人物である。大学生なんてただでさえこの世で一番ウザい生き物なのに、加えて革命意欲に燃えることで更にウザさに歯止めがかからなくなっている彼らの中に単身乗り込んで言葉で説得を試みる、そのメンタルは信じがたいものがある。それも、説得できると本気で思っているのだ。
 討論会の触れ書きとして「特別陳列品」「近代ゴリラ」「見物料○円」などという見出しと共に裸の三島由紀夫の風刺画が描かれた全共闘のビラはうんざりするほど醜悪で*1、当の討論会でも幼稚な攻撃的野次*2が要所要所に起こるし、全共闘の論客の言論ですら、客観的に聞いていても屁理屈に近いような論戦をなぜか上から目線でけしかけてきている場面が少なからず見受けられたが、これら全ての癇に障る態度に対して、一度たりとも三島由紀夫は動じる素振りを見せることなく、皮肉で飾られた全共闘の主張の本筋の部分だけを的確に取り出し冷静に応戦していたので、これは大したもんだと天晴である。そしてそういうことが出来るのは、三島由紀夫にとっての討論会の目的が「全共闘の説得」に完璧に一点集中しているからで、それ以外のことは本当に何ら興味がなさそうなのだ。その姿勢はこれまでに見た右翼の中でも異彩を放って誠実に映った。


 具体的な討論内容に関しては流石に両者なかなか頭脳明晰なのであまり理解できていないが、

三島由紀夫「机は授業のためにあるが、バリケードの材料にもなる。生産関係から切り離されて、戦闘目的に使われているということだ。しかしそれは諸君が生産関係から切り離されているからではないか。それが諸君の暴力の根源ではないのか」

芥正彦「大学の形態の中では机は机だけど、大学が解体されれば定義は変わる。この関係の逆転に革命が生まれるんだ」

 この切り返しはいかにも左翼という感じですね。我々という主体に形態や共同体、生産関係があくまで追随するのだという世界認識。解体という言葉が討論会の中で複数回使われる点からは、当時の東大全共闘ポスト構造主義をかなり(好意的に)意識していたことが窺える。
 こういうのどうなんでしょうね。1つ前の映画感想記事でボディ・ポジティブを例にしてちょっと触れたが、こういうのって価値の転覆とか新たな価値の創出として成功してるって言っていいのだろうか。価値を逆転させているようでいて、当のその逆転は既存の価値観に立脚している。本当はスラッとした体形こそ美しいだとか、本当は大学の机は勉学のために生産されている、だとかいうことをよく理解しているからこそ、この理解を前提にして裏をかこうとする仕草。つまり環境や伝統、風俗、文脈から切り離されて自由になっているどころか、それらを100%受け入れてしまっている逆説だということだ。別にそれはそれで結果的に今までとは見かけの違うものを提示できている訳だし、前向きで人間的な逆説だから良いのだけど、まあとにかく、昨今の「価値観のアップデート」にも通ずることだが、左派の価値転覆の論理にはこういう、悪く言えば自己欺瞞的な要素がしばしば見受けられる。


 自己欺瞞・自己矛盾・自己否定というワードは、左派の心理的特徴を語る上で外せない。以下の佐々木俊尚によるコラム記事でも、上記のやりとりを引用しつつ面白い指摘がされている。

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東大生たちは、受験戦争を勝ち抜いたエリートである。戦後民主主義は平等を教え、自分だけが利益を得ることは倫理に反すると教えたが、受験エリートはそうした戦後の価値観をもともと否定したところに成り立っている。加えて、いくら学生運動に邁進して反体制を唱えても、卒業後には官公庁や大企業などでのエリートの座が約束されている。これらの現実に対する「罪悪感」が、東大全共闘の根底にあった。自分たちは資本主義を口では批判しながら、実は資本主義を支える側じゃないか、という強烈な自己矛盾があったのだ。

だから他の大学では学費値上げ反対や自治会の自主独立など、おおむね具体的な運動目的があげられていたのに対し、東大闘争だけはまったく違った。「自分たちの生き方を変えていかなければならない」「自分たちにとって学問とは何なのか」という抽象的な理念が目標として掲げられたのである。つまりはエリートである自分を否定しなければ運動は始まらないという、当時流行した言葉でいえば「自己否定」をテーマとしたのだ。


 母校でも思い当たる節がある。私が京都大学に在学していたのは2013年~2017年で、当然ながら学生運動などとうに最盛期を過ぎた時代ではあったが、それでも在学中の2015年10月、校舎の一部がたしか安保闘争の文脈でバリケード封鎖された事件は規模も大きかったし、知人がこの事件で停学処分になったりもしていたから、記憶に残っている。
 私のような一般学生からすれば、停学処分を受けてまで彼らが大学に何を求めているのか理解不能だった。2015年の今、学生の身分から見て大学当局のどこがそんなに不満なのか全くピンとこなかったし時代遅れに見えた。彼らが明示していた大学への要求も、同志の復学の他にはあまり具体的な提言は述べられておらず、自由の学風への回帰を求める観念的な言説(というか、総長・学部長への猛非難)に終始していた気がする。当時私は彼らにほとんど関心を払っていなかったため大雑把な見方になってしまっているだろうが、京大生にまでなっておいて大学への抽象的な反発に心血を注ぐ彼らが、どこか勿体なく荒唐無稽に見えたのは確かで、まあ恐らく京大のアウトドアサークル「ボヘミアン」同様に、大学生でなければできない青春を味わいたいのかなくらいに思っていた。それくらい、彼らからは切羽詰まった喫緊の問題を感じ取れなかったのだ。結局みんなエリートで、その気になればいつでも大企業に就職できるのだ。本人達もそれはよくわかっている。だからこそそういう自己矛盾が更に観念を駆動し活動を躍起にさせるのだろう。自己を開放するために、自己を否定する。


 左翼が自己欺瞞ダブルスタンダードに陥り、右翼が揶揄する、という醜悪な図式はいつの時代もあるものだ。左翼は労働者階級が見えてない、理想ばかりで事態を理解しておらず、安定や維持をまるで度外視している――そういう非難に繋がる揶揄であり、その非難自体はある程度の妥当性があるかもしれないが、揶揄うような態度は軽佻浮薄で卑しいだけだ。一定のリテラシーがある左派は、馬鹿な右翼に指摘されるよりずっと前から自らの矛盾を痛いほど自覚しているし、そもそも世の中で思想と呼ばれるものの多くは、矛盾する自己を解消したいという葛藤から生まれる。ただ、ほとんどの人はその葛藤を思想にまで固めることができないだけだ。だからこそ捉えることもできず苦しんでいる。


 立証する統計がある訳でも何でもない私の偏見に過ぎないが、左翼と右翼の知性は平均は同じくらいだが中央値は結構違っていて、右翼は8〜9割方どうしようもなく低い水準に密集しているが、突出した上位層(それこそ三島由紀夫など)がある程度存在するのに対し、左翼はなべて中くらいのところにグラデーション分布しているものの、傑出した者がほとんどいない印象を受ける。左翼には内部に思想の萌芽があるが、大半の右翼には思想を形成する種そのものが宿っておらず、そんなものが必要とも考えないからだ。どんなに左翼を馬鹿にできても、右翼に革命は起こせない。しかし革命は起こせなくとも、社会的に成熟していて政治的手腕に長けているのは右翼型の人間なのだ。だから堂々巡りになる。


 世界の捉え方という大元の部分が分水嶺になってしまっている両派を結び付けるには、「たとえ全共闘だって日本人である」という事実が鍵になると、三島由紀夫は考えていた。そこで日本人のルーツに遍く確固として存在する筈の天皇という概念を引き合いに出すが、皇国史観と離別した戦後を生きる全共闘にとって天皇という存在はさして強大でも必須でもなく、逆に三島由紀夫との感覚の違いが露わになっていまう。

芥正彦「あなたはだから日本人であるという限界を超えることはできなくなってしまうということでしょう」

三島由紀夫「できなくていいのだよ。僕は日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然僕は抜けたいとは思わない、僕自身。だからあなたからみたらかわいそうだと思うだろうが」

芥正彦「それは思いますよね、僕なんか。むしろ最初から国籍はないのであって」

三島由紀夫「あなたは国籍がないわけだろう? 自由人として僕はあなたを尊敬するよ。それでいいよねぇ。けれども僕は国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない。これは僕は自身の宿命であると信じているわけだ」


 三島由紀夫の右翼思想は――特に天皇に関する部分は三島由紀夫の個人的体験に依拠しているが故に――かなり特殊で普遍化が難しい。上記の言い合いを見る限りは普遍化させる気もなさそうなのだが、一方で単身で東大全共闘に乗り込んだり、果ては自衛隊相手に決死の覚悟で演説したりと、文字通り命を賭して反対勢力や堕落した自陣営に訴える姿は、どうにかして大衆を目覚めさせたいという切なる猛烈な情熱に満ちている。本気で説得できると思っているのだ。

 三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
 かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。(ヘンリー・ミラー


 高度の知性に恵まれながら、最後の最後まで厭世しない。政治思想は流石に賛同できないが、この堂々たる風格は固く白く輝いて見えた。


 そして日本の右翼と左翼の架け橋に「日本人であること」を持ち出すというのは、右翼が左翼に抗する論戦の道具としては悪手だったかもしれないが、単純に両者の共通点を見極めた際の結論としては結局そこに至るのではないかと思う。天皇を出してくるのも、極端に見えてイイ線いっており、天皇の威光が更に希釈されている筈の現代においても通用する発想だ。
 1個前の記事で映画『バービー』広報アカウントの炎上について付け足したが、ああいう些事ひとつとっても、日本人って公式アカウントみたいな藁人形的な存在が好きすぎるよね。この心理って土居健郎が言うところの「甘え」の構造に当てはまり、天皇制を生み出した日本人的形質と寸分違わないんじゃないかと最近ふと閃いた。…まあそれはちょっと凡俗な例だけど、兎にも角にも、自分は日本人である前に世界市民であると主観する人にも、柵のように日本人的性質は備わり、その性質というのが時に理想の自己と根本から食い違ってしまう。世界と自己の問題に「国」が越境し、まさにここが自己矛盾となって思想が分派して、傍から見ると支離滅裂の様相を呈する。


 日本人であるという共通項があるからと言って両者の壁が氷解するとは全く思わないが、私自身は現にそれによって中途半端になっている自覚がある。思想として首肯したいのは大まかには左派だが、性格としては右寄りの人間であることを認めざるを得ない。徒党とか連帯が心の底から嫌いなので自身がどちらかの運動に与することは望まないが、あたかも自分は中立だと表明することほど信用できない振舞いもない。全共闘三島由紀夫のように信念に殉ずることができる人間の方がよほど立派だ。
 ただ、社会派リベラルがボリュームゾーンになっている今の左派は「傷つき」を物事の中心に置きすぎているからどうにも手が出せない。課題解決の方法が武力から言論になったかと思えば、蓋を開けたらそれは揺らめく魔法の感情だったというお笑い草だ。これを左翼と言っていいのかもわからない。廃れながらも生き残った全共闘の人達は今をどう見ているのだろうか。敗戦国の左翼は捻れた存在だから底が深い。

*1:だが、「近代ゴリラ」という形容は妙。

*2:特に三島由紀夫天皇について述べている時に「朕はたらふく食っているぞ、汝臣民飢えて死ね」と言うだけの野次はいかにも小賢しくて不愉快。