取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

最近観た映画

直近1か月くらいに見た映画のまとめ。例によってネタバレ満載。

天才マックスの世界』『ファンタスティックMr.FOX

 私はウェス=アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』が大好きなのだが、同監督の『ダージリン急行』はいくら何でも意味不明すぎて何ひとつ記憶に残っておらず、以来特に監督に固執してはいなかった。しかし今回見たこの2作は私の好きなウェス・アンダーソンだったな。終始毒気の臭う、しかしそれ以上にファンタスティックでハートフル。つくづく私は映画だとこういうのを一番好んでしまう。傑作であるか否かというより自分の趣味としての話。しかし『ファンタスティックMr.FOX』は特に趣味抜きにしても素晴らしかった。
 悪役や意地悪な奴すらもコミカルに描く作家が好きというのもある。『ファンタスティックMr.FOX』ではジャイアン的な同級生が一瞬でボコられて「え~ん」と泣きながらフェードアウトするシーンが本当にサラッと(10秒くらい)インサートされているのだが、その笑っちゃうくらいのサラッと加減の悪の扱いが好きなのだ。登場人物全員がナチュラルに狂人という世界観の吹っ切れた異常さにもスカッとする。反面、苦手な人の気持ちもわかるのだが。
 上下関係のある男同士の友情モノって最高だ、と『グランド・ブダペスト・ホテル』を観た大学の頃にハッと気づき、以来一人でに認識を深めてきた。『ファンタスティックMr.FOX』も、主人公キツネとフクロネズミの関係性に一番グッとくる。男性というのは必勝カードを持たない生き物、という前提があり、そういう生き物が使えそうな有限のカードを補い合って大きな物事を達成する、という王道のわかりやすい熱血ストーリーになりやすく、それが良いのかな。友情の硬度に不純物が紛れ込みにくくて、結局はそれが羨ましいのもかもしれない。女性同士のウェットな友情や、もしくはバチバチのやつも別ベクトルで好きだけどね。

『17歳の瞳に映る世界』

17hitomi-movie.jp

 劇場で鑑賞。まあかなり退屈だが、裏表なく子どもの意思を尊重した、厳粛で実直な映画だった。妊娠に至る経緯という「子どもにとって話したくないこと」が最後まで一切明かされないまま終わるのが本物。
 従妹の美人の女の子がレジ締めの時にバイト先の店長から手の平にキスされてるシーンとかは「こんな奴いるかよ」と思った(実際はあんな露骨で頭悪い方法でなく、もうちょっと悪知恵働かせた表現にするんじゃないかと思う)けど、バスで出会ったヤリモクカス男の目線や表情には非常にリアルな気持ち悪さがあった。それに対して明確に嫌悪感を覚えながらも、なんやかんやで連絡先を渡しちゃったりする優柔不断な従妹もリアル。理由はどうあれ形としては後でちゃっかりカス男を利用してる訳だし、カス男からしたらたまったもんじゃないだろう。しかしそれが彼女達の消極的な身の護り方なのだ。
 27の成人女性であり、彼女達の年齢の頃にも彼女達のような経験に近似した出来事が全くなかった人間からすると随所で「馬鹿すぎる」と客観的に感じたりするが、子どもである彼女達自身ではなく一貫して社会構造に批判の眼を向けている映画。邦題が陳腐と非難されているようだが、タイトルセンスはともかくとして、映画の本質を捉えている題ではあると私見。原題のシーンが本映画の真骨頂なので、それ以上のものは日本語ではつけられないし。
 未成年の権利というのは日本のリベラルの好きな話題の1つだ。勿論それは盛んに議論された上で然るべき方法で守られるべき権利だが、人がこれを積極的に語る時、「子ども」のようにイノセントなものを喜びすぎる嫌いがあるのではないかと感じることがある。常にではなく時々だが。子どもだからって決してイノセントな筈が無いのに、彼らの頭の中では純真無垢で罪なき奔放な子ども像が組み立てられ、そのように不完全で不安定な存在を大人が徹底的に保護しなければという鬼気迫る感覚に駆り立てられているような。子どもには判断力が無いから大人が良識で守らねばならず、正しい性教育を施さねばならない、という言説は一定の説得力を持つが、自由主義者が求めるものが「正しい教育」であるとするなら、自分達の存在と矛盾しているのではなかろうか。なんてね。

『フリー・ガイ』

www.20thcenturystudios.jp

 良いね! これも劇場で鑑賞。
 ただ、普段主義主張にシンパシーを覚える人達が挙ってこの映画を激賞していたので、随分と期待値を上げた状態で観に行ってしまったため、「期待したほどではない、安牌の良い映画」という感想も持ってしまった。世界的大ヒットゲーム『グランド・セフト・オート』の世界を彷彿とさせるゲーム世界で「良い奴」になって注目を浴びるというのは、バトルロイヤル系の洋ゲープレイヤーにとってはユニークな逆転の発想のように思えるのかもしれないが、私のように日本の、特に任天堂の優しいゲーム世界に慣れている者からすれば特に面白いとか裏をつかれたとかは思わなかった。好感は持つけどね。
 ゲームという暴力的な異世界を魅力的に描きながらも、多方面に対して完璧に誠実であるのが明確な美点。スキンの再現度やアピールポーズ、建築、当たり判定、見えない壁など、ゲーム世界の表現や描写はゲーム好きならニヤリとせずにはいられない程に精巧で良い。特にGTA好きにはたまらないだろう。商業主義的な小手先だけじゃない、年季の入ったゲーム好きが熱を入れて作り上げたというのが伝わる。『名探偵ピカチュウ』もそういう意味で良かったし。
 いつも同じセリフしか言わない人のことを「RPGのキャラみたいだな」と思うことがある。そしてそういう人でも一定の条件を満たせば特殊会話が発生することがあり、ますますRPGのキャラみたいだと思う。しかしその時に同時に喜びが発生する。特殊会話というのはゲームの中でも嬉しくて、それの回収に勤しむ気持ちは私にもよくわかるから、モロトフがガイに出会った高揚感には非常に共感した。ゲームには仮想と現実の淡いに没入する側面があり、それゆえに現実への気づきをもたらすには効果的なメディア。誰だって自分の人生の主人公、というポジティブメッセージを直球に表現する道徳的価値もあり、視覚的にも楽しい作品。ただ最後は、ミリーがガイとくっつく方が私の好みかな。それがやりにくいのもわかるけど。

『かぞくのくに』

 友人に勧めてもらった映画。あまりにも政治的なので純粋な芸術作品として評価するのが難しいのだが、良かった。激しすぎる画面の揺れや極端に聞き取りづらく生っぽい台詞には少々食傷したが、意義のある真剣な映画であり、苦しくても見る価値があった。
 ソンホが鞄屋で妹のリエと大きなスーツケースを並ばせて、「お前そういうの持っていろんな国行けよ」と無造作に言うシーンが出色。井浦新も良いけど、安藤サクラとヤン同志役の人が光っている。あと宮崎美子。彼女の演技はちょっと芝居がかっていると敬遠する人もいるようだが、私の母がまさにあのタイプの可愛らしさのある人なので、宮崎美子を見ると昔から、妙に胸が詰まる感覚がする。ソンホとの最後の離別時、彼女がソンホではなく監視役のヤン同志に対してスーツと金銭、手紙を渡したシーンには、言葉では形容できない母親の愛の同心円的深みを感じた。



 映画館は月1で行けたら御の字かなというモチベーションだが、せっかくU-NEXT会員なのだから映画自体は月に4-5本見るのを目標にやっていく。とはいえ、見れば見るほど映画というのは都会生まれ――もっと有り体に言うと東京生まれの人の趣味だな。映画館なんて地方にはそう数もなく、ましてミニシアターなんて私の地元の県じゃ1度も見たことがないどころか、そういう施設の存在すら大学で京都に来るまで知らなかった。それに作品内容的にもやはり生活の基盤が社会の中心地域にある人でないと響かない類の物語が多いと感じずにはいられないのだ。それが悪いとは思わないけど、これじゃ田舎に映画好きなんて育ちようがないなあとしみじみ思う。
 個々の作品は楽しみつつも、映画という媒体そのものに対しては、そういう文化資本の偏りの象徴としていつまでも拭えない反駁心みたいなものが自分の中に倦んでいる。ただ世代の問題もあるだろうから、令和生まれの子ども達なら地方出身者でも若くから十分映画に親しんでいくのかもしれない。それはきっと良いことだろう。