取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

『モーリタニアン 黒塗りの記録』


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 話題の『DUNE』か『最後の決闘裁判』どちらかを見に行きたいと思っていた筈なのに、気づいたらこれを見ていた。事前に調べた予告映像ではリーガルドラマ、しかしあらすじを読むと社会派陰鬱映画のように見えたので、はてどっちの系統なのかなと定まらない印象だったが、蓋を開けてみたらその両方の要素を高度に兼ね備えた素晴らしい作品だった。厳然たる問題提起を中核に据えた硬質な映画でありながら、法廷サスペンスとしての娯楽やスリルも備えているし、ちょうど必要十分といったボリュームの人間ドラマもあった。


 ジョディ=フォスター演じるナンシー弁護士もまさに一流の信念を持った女性で実にかっこいいし、バディを務める新米弁護士テリーにも終始共感できた。依頼人への共鳴と信用に基づいて自分の仕事の糧を見出すテリーに対して、熟練のナンシーは揺るぎない自己の信念のみで動こうとする、その対比が鮮やか。息子の無事にすすり泣く母親の音源を聞き、
>ナンシー「なぜモハメドゥは私達に母親の連絡先を渡したと思う?」
>テリー「母親のため?」
>ナンシー「息子の非境を嘆く母親の声を聞かせるためよ」
 …って言い放つシーンは痺れたね。また、グアンタナモ収容所に来たカウチ大佐に、看守が囚人用の読み物を見せ「ちょっとした悪戯で、最終章を切り取るんです」と笑った後、大佐が全く喜んでいないのを見てすぐに「僕はやりませんけど」と切り替えるシーンも技があって良かった。


 そして本編最大のヤマであるグアンタナモの特殊尋問はまさに虫唾が走る映像であり、衆人監視での強制的な性交、母親の収容と強姦を示唆する脅迫のあたりは、見ているだけで体が焼けるような感覚を覚えた。法治国家として名高い米国政府が9.11の背後でしでかした非人道極まる拉致監禁。行われたことを事実報告として知っていても、映像で見せられることによって、こんなことは絶対にあってはならないという憤りが確固たるものになる。そしてそれはモハメドゥがテロリストであろうがなかろうが、等しく絶対にあってはならない人権侵害で間違いなく、ましてテロリストでもない無実の人間にそれが降りかかるようなことが起きてしまうとするならば、そんなことが発生してしまう杜撰な手続きを正しく直さなければならない。モハメドゥの場合ナンシーとテリー、カウチ大佐の尽力によってきちんと裁判がなされたのは本当に良かったことだが、勝訴後にも更に7年拘束を解かず、故郷の母親の死に目にも会わせないというアメリカ政府の仕打ちは許しがたいものに思った。しかも釈放後も各国大使館に圧力をかけ続けているようである。
 法律というのは果ての無い人間の暴挙を規則によって未然に防ぎ、人の命を尊重してなんとか平和に共生できるようにするための秩序なのだということが骨身に染みてよくわかった。ナンシー弁護士の人柄に象徴されるように、制度や法律は冷酷で融通の利かない顔を持てども、その根底には驚くべき人情が敷かれている。だからこそ市民たちは遍くそれに同意し、従い、然るべき手続きを経なければならないのだ。


 若干気になった点としては、グタンタナモの看守たちがあれほど醜悪な自白強要を行った大元の要因である9.11テロの恐怖にほぼ触れられていなかったこと。モハメドゥの台詞で「アメリカ政府がまさか我々を恐怖で支配するとは思わなかった」とあるが、アメリカ政府の暴走もまた、同じように恐怖に支配されていたが故の皮肉な結果だ。あれだけの被害を出した事件に対し、当然自らも恐怖しながら、しかし彼らには国民を恐怖から守らねばならない責務が組織としてある訳で、とりわけグアンタナモの看守のようにテロリスト容疑者本人と日々相対しなければならない立場であれば、こちら側が相手を恐怖で支配しなければ、自分が恐怖で支配されてしまう瀬戸際の状況だっただろう。そうした恐怖の虫の知らせと権力構造、メンツと惰性が絡まり合って、あのような凶悪な侵略行為に及んでしまったのだから、多少なりテロの恐怖も描かれていれば物語として一層フェアだったと思う*1
 やはりこれもモハメドゥの裁判のシーンで彼自身からフォローの言葉が入るものの、そこ以外では政府や軍部の登場人物も単純な「悪い奴」として見えてしまう節があり、特にカウチ中佐が起訴を取り下げる意志を見せた時に彼の上官が「裏切者め」と雑魚台詞を吐いて去っていくシーンは正直チープに感じてしまった。
 あとやはりモハメドゥが健在の人物であるがゆえに、映画のモハメドゥの造形に配慮を感じるというか、ちょっと弱いというか、真人間すぎるというか……キャラクターとしてはナンシー弁護士に食われている。エンドロールでモハメドゥ本人が登場した時、確かに彼は「この人はテロリストではない」という直観を抱かせるような人物(映画視聴後だから余計にそういう印象になる)だったし、映画化させてもらっている立場上、この期に及んでまた彼への疑惑を呼び込む訳にはいかないだろうから、映画でもそういう抑えた描き方にならざるを得なかったというのはよくわかる。ただ、映画の感想として「アメリカ版『夜と霧』だ」などという見当違いな評価をつける人が続出してしまう要素は確かに映画の中にあった。*2


 ……とかいろいろ難癖もつけたものの、法の下の平等ひいては身体の不可侵、人間の尊厳の重要性を再確認させるというのがこの映画の最も太く大きな柱であり、罪を犯していようがいまいが関係なく、人間のルールである司法の手続きをもって裁かれなければならない、という強いメッセージを伝えるにあたって、モハメドゥに寄り添った描き方をするのは当たり前かつ一番有効な方法だ。上述の欠点は作品価値をさして大きく損なうようなことではなく、全体として尊敬すべき素晴らしい映画だった。
 モハメドゥの手記も今回の映画化を機に文庫化したそうだし、こちらも読んでみよう。今もなお縄を解かれていない約40人の収容者達も、一刻も早く正規の手続きをもって裁きがなされることを願う。

*1:ところで、実際の特殊尋問でもあのような猟奇的なお面を被っていたのだろうか? …また、ああいった尋問をした当人達は、モハメドゥが勝訴した時どういった感情になったのか非常に気になるところだ。どのくらい後ろめたいのか、あるいは大して感慨もないものなのか

*2:余談だがフランクルの『夜と霧』は、名著なのは流石に認めるにしても私はあまり好きではない。みんなこんな風になれないから苦しいのではないか、という反発がどうしても残る本だ。