取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

高学歴とモテ

あらすじ(上記リンク先より引用)
横浜市郊外のごくふつうの家庭で育った神立美咲は女子大に進学する。渋谷区広尾の申し分のない環境で育った竹内つばさは、東京大学理科1類に進学した。横浜のオクフェスの夜、ふたりが出会い、ひと目で恋に落ちたはずだった。しかし、人々の妬み、劣等感、格差意識が交錯し、東大生5人によるおぞましい事件につながってゆく。
被害者の美咲がなぜ、「前途ある東大生より、バカ大学のおまえが逮捕されたほうが日本に有益」「この女、被害者がじゃなくて、自称被害者です。尻軽の勘違い女です」とまで、ネットで叩かれなければならなかったのか。
「わいせつ事件」の背景に隠された、学歴格差、スクールカースト、男女のコンプレックス、理系VS文系……。内なる日本人の差別意識をえぐり、とことん切なくて胸が苦しくなる「事実を越えた真実」。すべての東大関係者と、東大生や東大OBOGによって嫌な思いをした人々に。娘や息子を悲惨な事件から守りたいすべての保護者に。スクールカーストに苦しんだことがある人に。恋人ができなくて悩む女性と男性に。
この作品は彼女と彼らの物語であると同時に、私たちの物語です。

 実際の東大誕生日研究会レイプ事件をモチーフにした小説で、何やら賞を受賞しているようだし、世間的な評価もそれなりに良いようなので、ちょっと思うところあり先週末に読んでみた。確かに力の入りようは伝わるし、登場人物の背景設定の描写などはテクニックを感じさせるかなり細密なものになっているが、力の入れる方向性が致命的に誤っていると思わずにはいられない、かなり問題だらけの作品であった。事件への強い憤りはもちろん理解するところだし、それを小説として昇華することも素晴らしい。しかし、このような極端な昇華の仕方では問題の理解に繋がらないどころか、より溝を深めるだけなのではないかと怒りすら湧いた。


 本小説では、加害者である東大生の「つばさ」達がいかに挫折を知らぬ純真で傲慢なホモソーシャルを形成しているか、そしてそれに対して被害者であるいわゆる私立Fラン女子大生の「美咲」がいかに純朴で夢見がちな、非打算的な少女であるかが、取りも直さず長大な説明とテクニックを費やして語られ、二者間の間でどうして認識の齟齬が起きてしまったのかを追っている。要するに、美咲は東大狙いのバカ私大女などではなく、白馬の王子様に憧れる乙女のような純粋な気持ちで「フラットに」つばさに恋い焦がれており、つばさの方もそれに応える淡い感情を持っていた時期も確かにあったにも拘わらず、東大の友人達との有害なホモソーシャル的関わりや、美的にも知的にも格の高い女性である「摩耶」との出会いを通してつばさが勝手に自意識を肥大化させ、いつのまにか美咲は「知能が低いのに狡猾な女子大生」「東大狙いの勘違いブス」として貶められるようになる。そして最終的には卑劣な東大生集団の玩具にされ、更に世間からも同様の二次被害を免れず徹底的に尊厳を毀損されるという流れである。


 しかし私に言わせればこの事件を見るにあたってそんな認識のすれ違いは全くどうでもよいことだ。男女の恋愛ですれ違いが起こるのは普遍的なことであり、そのこと自体には当人達の外からでは単純に良し悪しがつけられない。しかし東大という高位集団の中で女性蔑視の空気が醸成される場合がままあること、そして女性側もそういう集団の中に自ら飛び込んで行ってしまうこと、そして何より、ある一人の女性が複数の男性から合意なしに身体を好き放題に弄ばれ恐怖を植え付けられた挙句、世間からも一斉に非難を向けられ人格否定される事件など決してあってはならないということは、絶対的な問題だ。事件を描くならば焦点を当てるべきはこの3点、特に最後の1点であり、恋愛における男女のすれ違い(男側の驕り)なんて事項に矮小化させてはならない。


 具体的な描写について強烈に反発を持った点は以下の通り。

  • 美咲の処女性があまりにも強調されすぎている。美咲自身の描き方もそうだが、友人知人として登場する「自分勝手で」「色目を使う」「淫らな」女性達が、完全に美咲の清純さ、奥ゆかしさと対比するためだけの記号として扱われている点にゾッとする。まるで美咲がいかに被害者に相応しい、自我の弱い存在であるかを読者に繰り返し刷り込もうとするかのようで、その妄執振りには被害者を選択的に取り締まる傾向を読み取らずにはいられない。別に美咲は処女でなくてもいいし、東大男に目を光らせた不純な「勘違いビッチ」でもよいのだ。何も0か100かって訳じゃない、そういう打算は少しくらいあって当たり前なのだから。それに、そのことは事件において守られるべき彼女の人権を少しも傷つけやしない。作品が被害者に寄り添うということの意味を著者は根本的にはき違えている。
  • 加害東大生男子の人格および有害なホモソーシャルの形成過程の洞察があまりにも雑。私ですらそう思うのだから、東大男性が読むと尚のことそう感じるはずだ。東大生がそれを表明すると「自分達が非難されたように感じるから居心地が悪いのだろう。この小説のこの部分が現実と違う、とディテールの差異に拘泥するのは本質的じゃない」と封じ込めらるかもしれないが、その指摘は全く逆で、むしろ「自分達が非難されたようには全然感じられない」から問題なのだ。小説に登場する東大生は、実際の東大生の姿(恐らく事件の加害者と近似したメンタリティーの東大生とすらも)と乖離しすぎている。ゆえに、自分達の空想上の像をもって執拗に非難されているような感覚になり、それでは反発を抱いても仕方がない。
  • 「まともな東大生」がつばさの兄くらいしか出てこない。東大生女子に至っては誰一人出てこない。現実では誕生日研究会的な人格の東大生というのはごくごく少数であるにも拘わらずそのことが描写されないのはまあ誤解を招くのであんまり良くないし、つばさ達が学内の少なくとも一定層からドチャクソに嫌われている描写は少しくらいあった方が、単純に小説の舞台の説得力も出ると思った。また東大女性が一切出てこないことに関しては、著者が東大女子のパーソナリティーを全く想像できないからではなかろうかと少し疑ってしまう節があった。


 とはいえ、この小説を読んだことを契機に自分の中で考えさせられたことも大いにある。東大ほどではないが私もわりと良い感じの大学を卒業したので、一般的に見れば恐れ多くも高学歴と言われる部類だ。しかし女性であるので、高学歴という自分の属性をモテのためにフル活用してやろうとニヤニヤ画策したことは無い。ただ、もし自分が男だったらどうだったろう、周りの男達はどうしてただろうと、自分の学歴とモテの相関をいかにして内面に落とし込んでいるだろう、とじっくり考えたくなった。


 高学歴の特権というのは確かに数多く存在するが、その一環に「モテ」があるかどうかは、人によって判断が分かれるのではないかと思う。
 私としては自分が京大卒であることがモテの遠因になったと感じたことは、主観的には皆無である。ただまあそれは偏に私が女性だからだ(あとそもそもモテないから)。女性の場合、女性であるというだけで多少のモテが発生するという前提があるとはいえ、高学歴であるというスペックは性的魅力に直結しない。在学中なら学内ではアドバンテージがあったと思うが、社会に出てしまえばそのアドバンテージも綺麗サッパリ失われてしまう。
 人々は女性に女性らしくあることを求める。人が女性に「眼鏡はやめた方がいい」とか「愛嬌があった方がいい」とか「たまには化粧をしたり、スカートを履いた方がいい」とか、詰まるところ「女性らしくありなさい」と助言する時、それは単に自分の欲望からそう言っている場合もあるだろうが、相手の幸福のためにそう言っている場合も往々にある。性的魅力が高い方が幸福な人生を歩める見込みが高まると思われ、実際にそれはまあまあその通りだからだ(当然誰しもそうとは限らないし、相手の意思を尊重していない助言なので、言われると腹が立つ訳だが)。
 それで行くと高学歴であることは、女性の性的魅力に加算されない。とりあえず今のところは。美しいとか家庭的とか、そうした基本の性的魅力が揃っていれば、高学歴であることも知性のシグナルとして蠱惑的な魅力を帯びてくるだろうが、ただ単に「高学歴」がポンとあるだけでは、女性的魅力のプラス要素にはならず、むしろマイナス要素になったりもする。男性と同じゴールを目指しても男性と同じだけの報酬は待っていないので、別の目標設定が必要になるし、来た道を帰らなければいけないこともある。そこが女性の人生の悩ましいところであり、努力をどこに向ければか自分が幸せになれるのか判断するのが難しい。


 一方で男性にとっての高学歴は、男性的魅力の1つとして独立に数えられるパターンが恐らく多い。マイナスに働くことは無く、例え容姿や収入など他の要素で引けを取っていたとしても、東大卒なら「あら」と振り向かれたり「なら許す」みたいな謎めいた再評価を受けたりすることはあるだろう。
 しかしそれでも現代において学歴というのは、本小説で描写されているような「東大生なら女はみんな股を開く」などというジョーカー的な代物では全く無い。そんなモテ方をしている高学歴男性は生まれてこの方お目にかかったことが無いし、著名人にもそのような実例は無く、イメージもしづらい。小説の東大生への違和感の核心はそこにある。彼らは全く必勝カードではないものを必勝カードとして素朴に信奉し、しかも小説では実際に必勝カードとして濫用できてしまっているのだ。だからこそ「つるつるぴかぴかの東大生」という気色悪い表現で何度も戯画的に形容される訳だが、現実世界では男の学歴などというものは、モテの加算要素、必要条件でありこそすれ、それさえあれば他の点が全て帳消しされるような絶対条件では無い。顔がかっこいい方がモテるに決まっている。


 誕生日会研究会のようなインカレヤリサーというのは、自分の大学にもきっと存在していた。あそこまで卑劣な行為を行うサークルは無いと信じたいが、高学歴男子と周囲の私大女子がわいわい交流して「仲良く」なろうという裏の目的があるサークルは、東大に限らず種々の有名大学で今も昔も存在する。同じ大学の学生とはいえ私は硬派な美術系の部活に入っていた女子であるので、彼らのパーソナリティーやサークルの内部構造に関してはどこまでも想像の域を出ないが、それでも東大生だから、京大生だからという理由で私大女子が寄って来たというよりは、彼らにはまずそういうサークルに入るような基本があって、それに東大生・京大生というスペックが付加的に乗っかることで「モテ」にブーストがかっているのではないかと思う。
 というのも、私の所属していた硬派な美術系サークルだって、別に京大生限定でもなんでもなく他の私大生・府大生の入部を普通に歓迎していたが、チャラテニサーに来るような煌びやかでゆるふわな私大女子大生は1人も入って来たことが無いのだ。厳密には、新歓イベントには足を運ばれたことがあっても、入部届は出されない。入部してきた他大生も結局同じ穴の貉のような人ばかりになった。ちゃんと絵も描くし。 要するに、チャラテニサーに入ったり近づいたりする私大女子達も将来有望な男のいるコミュニティならどこにでも進軍するという訳では全然なく、そこはきちんと見極めていて妥協もしないし、そうした下心だけを動機としてやって来る訳でもない。学生なんだから皆そんなに所帯じみちゃいない。同じ京大の中でもなんか楽しいイケてる雰囲気があり、自分達と波長が合うように見える歓迎ムードやサービス精神も備えていて、部活動としても気楽にやれて、京大女子が幅をきかせている訳でもなく、自分達の趣味に合う男性が揃っているコミュニティ、が、とっつきやすく楽しそうに輝いて見えるのは当然だ。その結果、紳士淑女だらけの我々の部は往々にして選ばれず、彼女達はチャラテニサーの男達の方に飛び込んでいくのである。非常に選択的*1。東大生、京大生であるというだけで女子の目がハートになりデロデロに崩れ落ちていくというなら、普通に事前の選別に撥ねられまくっている多くの東大生・京大生男子の後姿をどう説明すればよいだろう。


 つまり高学歴というスペックは、女性の性的魅力にとっては厳しい条件付きの加算要素で、男性の性的魅力にとっては単純な加算要素(しかしそれさえだけで一点突破できるものではない)…ということが言えるのではないか。より厳密に言うと、女の場合はまず女であること、そしてその次に外見が強く太い大前提としてあり、その後に種々の評価要素が折り重なるが、男の場合は年収や学歴、外見、身長などのそれぞれが重要な前提要素として連関・拮抗している、というのが実情に近いと私見する。
 特に男性の高学歴が思ったほど「モテ」を左右しないということは、高学歴男性こそよくよく実感しているところだろう。自分がいかにエリートであろうが、それだけの理由で周囲や世間、好きな女性が自分を絶賛してくれるなんてことはない。そのことは、性的承認に重きを置く他律的な、しかしナイーブな男性の幸福観や自尊感覚を残酷に傷つける。


 しかしこの小説がこれだけ支持を得ている事実に裏付けされるように、男子東大生という存在は、多くの日本人にとって超特権層としてシンボリックかつ刺激的に目に写り、様々な感情や想像を掻き立てるようだ。この小説は読者にそのイメージを見当違いな方向に膨らませてしまう作用があるので宜しくないが、男性でありかつ東大生であるという自意識が東大のホモソーシャル的な環境と相乗して、偏った世界観を抱かせてしまう事例は、現実に多くあるだろう。
 日本で1番頭の良い大学に通っているというのはさぞかし心地が良いであろうし、東大というカードを見せた時に学外の女性が「すごーい」と褒めそやしたり、ちょっと目の色を替えたりすることがあるとすれば、相当愉快かつ不愉快だろうなとは想像できる*2。極端に言えば「東大にあらずんば人にあらず」のような、大学という基準で物事を捉え、下を全て十把一絡げに馬鹿にする思考になりかねない。このような傾向は社会経験を経るにつれて緩和されていくものだが、パターンとしてはむしろ社会に出ることで大学時代の周囲と世間一般の空気の落差に失望し、「やはり低学歴の人間は駄目だ」という認識が強まってしまうこともある――白状するとこれは私自身にも時折魔が差す考えだ。あるいは、望む望まないに拘らず社会に出ることで男の中の熾烈な縦の競争に参入することになり、経済的な格差も目に見えて開いてくることで、東大出であるという自分の勝者としての揺るぎないアイデンティティーが後から燦然と輝き出し、拠り所となっていく可能性もあるかもしれない。


 女性観というのは厄介だ。恐らくモテる東大男というのは2パターンに大別でき、ひとつは上述の通り、東大生じゃなくても女が寄ってくる男に東大のスペックが加算されて爆発しているパターン、そしてもうひとつが、東大生じゃなければ別にモテるまでいかないが、東大生という加算要素が足され、その効果的な示し方も見つけた*3ことでわりと女を調達できるようになっているパターンである。
 後者はいわゆる大学デビューに近く、高校以前までモテなかった鬱屈を引き摺っている。勝手な憶測でものを言わせてもらうと、思うに学生時代にモテなかった男性というのは、当時好きだったが手に入れられなかったクラスの女子のイメージをずっと綺麗に胸に抱いており、そのタイプの女性と本懐を遂げるまでその鬱屈が寛解しない。もしくは本懐を遂げたとしても、自分がそれまでその女子のイメージを神的な存在にまで拡張させすぎたあまりに、いざ手に入れればそれらが大した存在ではなかったと気付いて失望したり、自分によって汚されることに呵責が発生したりして、俺が求めていたのはこんなものじゃない、という果てなき不毛な旅に出たりする。まあそれはどうでもよいのだが、とりあえずモテる東大生にはそういう2パターンがあると思われる。
 しかしながら当人達の主観として「俺が東大だから女が寄ってくるんだ」というある意味卑屈な意識が発生することは当然ある*4だろうし、その延長上に「そういう目的で寄ってくる女は知能が低く生き物としてカス」とか「でも顔や体はそういう女の方が上物だし、ペット飼ってる感覚も味わえるから、そこは愉しまなきゃ損」という悪辣ながら合理的な、それでいて倒錯した発想がある。だから当人達の供述として「東大と言えば女がすぐに股を開く」という即物的な変な発言が出てきたりするのだろうが、世間までがその言葉を真に受けて彼らのパーソナリティーを「東大の名で女を食い物にした東大男」「頭は良いけど人の気持ちがわからない」という単純なイメージに収めてしまうと、気を付けるべきものにも気をつけられなくなってしまう。


 また、圧倒的に男子優勢の男女比率環境の中で日々を過ごしていた場合、男性的な価値観が是とされ、女性的な物差しや女性性の優れた部分がそこに介入する機会はどうしても少なくなり、これは世界認識の膠着に繋がる。私の大学時代でも、ミソジニスト的側面を覗かせる男性というのは(敢えて書くと)工学部や医学部のような、学内でもとりわけ男の多い学部に平均的に多かった。……ただ、そういう彼らは女性に対して無理解というよりは、「女性の内面的習性のうち醜悪な部分はかなり正確に理解している反面、美徳の部分は全て嘘だと思っている」という特徴的な理解の仕方をしていた印象。モテない二次元オタクであったり、京大進学以後に周りの女性の反応が変わったりすることで、現実の女性の醜い部分が減点法的に目につくようになっているのかもしれないが、不思議なものだ。
 女に関する猥談や女への下品な評価や悪口話では際限なく盛り上がるものの、自分達自身に対しては多くを語る言葉を持たないーー女を媒介して自分達が競争するというのがホモソーシャルの大きな特徴としてある。しかし本小説だと女への批評はホモソではなくつばさ1人の印象として語られることが多い*5し、逆に東大男同士の会話では自分達の出自や親族のエピソードを極めて細密にべらべら喋っていることが、大変な違和感だった。男達が自分達のサラブレッド性を誇りにしていることを示すためにこのような描写にしたのかもしれないが、実際にはこんなに自分達のことを喋りたがる男はいない。しかも男らしい男であるほど自分のことは喋らなくなるものだ。
 それに普通の感覚として、自分の親族のことなんか大学の友人に事細かに話さないだろう。私は仲の良い友人の親の職業を知らないし、知りたいと思ったこともない。確かに教育とは再生産されるもので、高学歴であるほど親の所得平均が高いことはよく指摘される事実だが、だからこそ自分や他人の親族のことなんて話そうと思わないのが普通だ。自分自身に自信があればあるほど話さないし、他人のそれも気にならない。ゆえに、自信満々な東大男達が事あるごとに詳細に身辺事情をひけらかす描写は違和感の極み。


 ただ複雑なことに、ホモソーシャルに強く惹かれる癖を持った女性も多い。男性アイドルグループとか、男のコンビ芸人とか、男性ゲーム実況者チームとか。私自身はそのあたりはちょっとあからさま過ぎて流石に苦手だが、FF15の「男達の旅」みたいなワチャワチャした空気感は、見る分には結局わりと好きなのである。描かれていないだけ、見せていないだけで、実際は同じ工場で女性への下品な批評もしっかり製造されていることが頭ではわかっていても、魅力を感じてしまうものなのだ。そういうものが性的魅力なのだから。とはいえ自分の場合は頭ではわかっているので「そこに飛び込んで仲間入りしたい」とか「いや、私の好きな○○君たちはそんなこと言わない!」「私にはそんなことしない!」みたいな思考にはならないが、少なくない女性達が、頭でわかることを頭で拒否し、そういう衝動に突っ走ってしまう気持ちにも、共感しないでもない。しかも自分がFラン大学で、相手が東大生であれば、彼らはきっと人間的にも出来ているからアホな男子大学生のホモソと違って品性があり、自分のことも節度を持って扱ってくれるだろう……という勝手な期待が生じてもおかしくない。その時高学歴であるという事実は、相手の人格への信頼に繋がっている訳だ*6。それは非常によくわかる。私自身、「高学歴になればなるほどまともで面白い人間が平均的に多くなる」という経験則を大いに持っている。


 高学歴が特権であることに異論を挟む人はいない。しかしその特権とは何なのだろう。特権という言葉は、何かを言っているようでその実何も言っていないような気がして、私はあまり好きじゃない。しきりに呼びかけられる「特権性への自覚」なる言葉も、何か空を掴むような響きがあってよくわからない。特権を持っている人間は常に罪悪感を持って生きろとでも言うなら、それは酷い言い草である。しかしながら同じく先日読んだヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』*7で、「特権」概念に関して成程と思う記述があった。

「特権とは、そのことを考えるか考えないかの選択肢を持っていること。私は、自分が女であることを忘れることができないが、自分が白人であるということを忘れることができる。それが白人であるということだ。」

 これは確かに言えてるかもな。ただ、私自身は自分が女であることを時々忘れることが出来る。それは私がいわゆる高学歴女性であり、金はないけど一応それなりの企業で働いており、直接的な表現で男性から過度に苔にされた経験も無く、自負する特技もいくつかあるという、女性の中ではある程度の特権を持った存在であるからかもしれない。しかし同時に、女であるということが特権として機能するケースも少なからずあるからかもしれない。もしくは、女であることが自分にとってそれほど重要なアイデンティティーではないからかもしれない。
 ある特権を持っていないという事実は、他の特権を所持することによって上書きのように忘れることができるのかもしれない。しかし危機に瀕した時、その欠如をまざまざと突き付けられる。一度、レイトショーの映画を見に行った帰り、深夜12時頃に自転車で帰宅していたら、人気のない高架橋の下に差し掛かったところで急に男が正面に現れ、呼び止められたことがある。警察による自転車の防犯登録確認だったが、暗くて服装も何もよく見えず、ただその男が男であるということだけ瞬時に理解し、咄嗟に逃げようとしたら立ち塞がれて、凍った背筋がもっと凍った。「警察です」と彼は言ったが、そんな言葉を信用できる筈がなかった。殺されると本気で思いブルブル震え、自分ってこんな感じになるんだと、幽体離脱したみたいな自分の感覚が脳裏に走ってすぐ消えた。尋常でない私の怯えようを不審がった後、彼は状況を理解して警察手帳を見せながら謝ってくれたが、すぐには信用しなかったし、渡してと言われた身分証も、手に掴んだまま引き渡しはしなかった。彼は自転車を確認しもう一度「怖がらせてすみません」と謝った後すぐに解放してくれて、彼には後味の悪いことをしたと思うが、私の方も残りの帰途を走る間、そして安全な家に帰ってからも、殺されると直観した時の自分の恐怖が暫く後まで体に残って吐きそうだった。
 あの時、自分がそこらの男などより余程「知能」が高く立派な大学を出ていることなど、何も思い出せなかった。相手が男で自分が女であるというだけだ。それがその場の天体を支配し、それ以外のことは意味が無かった。しかし彼はそのことに暫く気づかない。特権というのはそういうことだ。


 上記の小説も、男性であり東大生であるという二重の特権の有害な部分に迫ろうとするならば、件の東大生のようなサイコ的人格描写に止まらず、現実味のあるまともで真っ当で挫折も知った男子東大生の中にもその有害性の芽が前提としてあるということ、そしてそれ自体は決して罪ではないこと、しかし育て方によってはそれによって他者を不当に害し、許されざる現実の罪にまで繋がってしまうということ、を描いてほしかったと思うし、そういう作品が今後も増えて欲しいと思う。
 それにしても昨今は本小説のように、モチーフは高潔だがその描写に深い洞察が伴っておらず荷崩れしている作品が題材の志の高さだけで喝采を受ける、というパターンがメディアを問わず多いと感じる。ガワだけ、モチーフだけを高潔にしても意味が無い。誰かを非難したいならその誰かのことを一人の人間として深く真剣に分析するべきだ。

*1:もちろん、チャラテニサー的な男性より地味で硬派な男性の方が好きという人は逆に我々の部のようなところに吸い寄せられるが、そういう趣味の人はわりと自分自身も羽目を外さず部活動にも真面目に取り組むタイプであるので、あまり波乱も巻き起こさず、絶対数としても大学生時点ではそこまで多くない。同じ美術をやるならば京大の方が自分の大学の部より規模も箔も大きいので、どうせやるなら京大に来る、という理にかなった理由もある。だが、他大から我々の部に来る人も確かにほぼ女性ではあった。

*2:これは年上の男性がマンスプレイニング的な働きかけをしてきた後に私の学歴を知って居心地悪そうに縮こまった顔をする時の、あの愉快と不愉快の入り混じる得も言われぬ法悦にちょっと似ているのかもしれない。いや違うかな。しかしとにかく学歴というのは、持っていると愉快な場面は増えるものなのだ。勝手に憎まれたり決めつけられたりして鬱陶しいこともあるが

*3:学歴はやはりモテにとって付加的な要素、言わば体ではなく武器なので、活用せずに受動的にしているままではその恩恵も得られない。だからこそ東大に入れば女が寄ってくるようになると思っていた男性が、実際には東大に入るだけでは女は全然寄ってこないことに打ちひしがれたりするのだろう。

*4:特に後者のパターンの場合は突然自分に発生し始めた性的承認の味に動揺し、歯止めのきかせ方がわからず認知が暴走するケースがあるのは想像できる。

*5:ただ、ちょっと良いと思っていた美咲のことを東大仲間に「ネタ枠」と評されたことで自尊心が傷つき、つばさの中で一気に美咲の価値が失われる描写はリアルだと思った。

*6:学生時代を東京で過ごしていない自分にはいまいちピンと来ないが、東京ないし関東における東大の権威というのはやっぱり絶大なのだろう。そういう地域性みたいなものは小説からでは東大生側の自意識としてしか読み取れないが、実際に相当な権威なのだろうとは思う。

*7:

これは今まで読んだフェミニズム関連の小説・エッセイの中では一番良かった。言葉が過ぎると感じる点もかなり多いが、それも含めて爆発していて面白い。