取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

チェホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん』

恋と名声にあこがれる女優志望の娘ニーナに、芸術の革新を夢見る若手劇作家と、中年の流行作家を配し、純粋なものが世の凡俗なものの前に滅んでゆく姿を描いた『かもめ』。失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを示す『ワーニャ伯父さん』。チェーホフ晩年の二大名作を、故神西清の名訳で収録する。(上記リンク先より引用)

かもめ

 そもそもが『ドライブ・マイ・カー』の予習用に『ワーニャ伯父さん』を読もうとして購入したのだが、同時収録の『かもめ』の方が優れた作品。絶品の戯曲だった。
 トレープレフの気持ちがしみじみわかるなあ。母親(アルカージナ)が自分と同業の何やらメリンコリックな中年作家(トリゴーリン)に熱をあげているばかりか、愛する女性ニーナさえ、身も心もトリゴーリンに奪われ自分の前からいなくなってしまう。愛している人ほど自分の真価を認めてくれず、それどころかコケにされ――こともあろうに憎き権威をピーチクパーチク持て囃す。2年経ち、漸く自分が世間で成功をものにしたと思えば、今度は自分が型に嵌って落ちていくような気がしてならず、甘い夢から目を覚ましたニーナが遂に自分の腕に帰って来たと思えば、彼女はもう独りでに自分の道を見つけてしまった。残されるのは小さな自分とその出がらしの才能だけ。トレープレフのピストル自殺は悲劇だが、なるべくして起きた悲劇である。


 新潮文庫の裏表紙の内容紹介というのは正直何言ってるかわからないほど抽象的で頓珍漢なことが書かれていることが多いが、時に唸るほど正鵠を射たことが紙一重で書かれている場合もある。『かもめ』がそれだ(本記事では冒頭に引用)。「純粋なものが世の凡俗なものの前に滅んでいく姿」、成程そうだと頷くほかない。
 第1~3幕における「純粋なもの」とは、間違いなく若きトレープレフとニーナを指す。彼らには未来があり、才能があり、そして自信がある。ただしトレープレフは無時間的な生を、ニーナは現世利益的な生を志向している。奔放な女優を母に持ちながらも田舎で一人飼い殺しされているトレープレフは、その観念的生活の中で巡らした思索を新しい芸術表現として昇華させんと試行錯誤する。トレープレフにとっては、伝統的な小手先の技巧で衆望を集める文士トリゴーリンが気に入らない。
 一方、田舎の箱入り娘として閉塞的に育てられ、女優への憧れも内に秘めおかざるをえなかったニーナは、人とは違う自らの才で名声を手に入れ、煌びやかな世界で一挙手一投足を注目されるトリゴーリンの生活が輝いて見えて仕方がない。トリゴーリンおよびアルカージナは、トレープレフ視点の強い本作序幕において「凡俗なもの」――くたびれた目の上のたんこぶとして描かれており、ニーナはそんな色悪に撃ち落された哀れなかもめに喩えられる。

 ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鷗のように湖が好きで、鷗のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鷗のようにね。(p.66)


 しかし第4幕でトレープレフは、自分自身が「凡俗なもの」に成り下がっていくのを感じる。無時間的な独立存在である純粋な自分が現実に吹き曝され、表面から傷みが沁みこんでは血が噴き出す。これじゃないと感じる。自分じゃないと感じる。前進しているのに後退している。利益と同時に獲得できる筈だった幸福が手に入らない。
 そこに同じように現実に打ちひしがれ傷ついたニーナが現われる――ニーナにとっての一世一代の人生をかけたロマンスは、トリゴーリンにとっては退屈まぎれの、ちょっとした短編の題材に過ぎなかったのだ。同じ星に生まれて不幸に堕ちた愛する彼女を胸に抱いて喜ぶのも束の間、傷つき切った筈の彼女が、自分はまだトリゴーリンを愛している、前よりもっと愛しているくらいだ、などと言ってのける。彼女はしかもその上で、誰にも依りかからず苦しみを一人耐え忍ぶ道に生きる希望を見出していたのだ。ニーナが辿り着いた「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの」(pp.120-121)という真理の台詞は素晴らしい。素晴らしいが、それゆえにトレープレフの絶望を深く刻み込む鮮烈な対比。彼女は残酷に成長していた。もう彼女に自分は必要ない、彼女はもう戻らないとはっきり悟る。撃ち落とされる感覚。
 この時ニーナは第1~3幕における「凡俗なもの」に近づいている。しかしここに転換があり、「凡俗なもの」とされていたものが、その実は「純粋なもの」が忍耐によってどうにか生活を繋ぎ止めていった果てに取る形であるかもしれないことが示唆されている。純粋なものが凡俗なものに取って代わられる訳ではなく、凡俗なものの中にも純粋なものがあり、寧ろそこから始まっているということ、そして凡俗になったからと言ってそれは堕ちたことを意味せず、純粋なもののの炎が全く潰えてしまうとも限らないということ。そしてそれこそが生のリアリティーだと。現世を耐え忍び謳歌する道を選ぶニーナはそのことを受け入れるが、純粋なものに異物が混じる、ほんの1滴の泡でも差すことさえ、狂おしく耐えられない人間もいる。生きていけないほどそれが苦しい人間もいるのだ。


 
 大変感銘を受けたため、折角だから舞台でも目を通そうとひとまずU-NEXTで見れる2014年宝塚公演『かもめ』を鑑賞。出来としてはまずまずといったところだったが、ほぼアレンジも無くストレートな作りだし、当たり前だが演じられるとわかりやすいので、原作への理解を深める助けになった。2018年の英国製映画『かもめ』も見ようとしたが、こちらは開始10分でもう見なくていい感じが漂ってきたので脱落。

ワーニャ伯父さん

 ワーニャの姪っ子の名前がソーニャなのは面白い。こう来るとターニャやアーニャも登場してほしい。
 こちらも勿論良い作品だったが、『かもめ』が私に向きすぎていたかな。また、ワーニャに関しては『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇作品ということと、その他本作に関する事前の余計な批評知識があったために、現代で言うところの弱者男性とか有害な男らしさとか、そういった要素が核になっている作品なんだろうな、という先入観を強く抱きながら読んでしまった自分の態度が実に良くなかった。
 実際読んでみるととワーニャは確かにヒステリックで卑屈な中年男性だが、風貌が醜悪という記述も無ければ、お金もそれなりに持っているようだし、大学教授の補佐役を務めるくらいに十分に知性ある人間で、想い人のエレーナへのアプローチからも一定の分別が感じられ、総じて「弱者男性」や「有害な男性」とは明らかに乖離した人物だった。かといって無害とは言い難く、そういった要素が点在している造形なのは確かに間違いないが。そこの淡いが面白いのだから、ワーニャのような人物をテンプレートとして読んでしまうことほどつまらない読み方は無い。自分を顧みて反省した。このように「ジェンダー読み」の姿勢を構えてしまうのは、百害あって一利なしだ。



 一方で『かもめ』も『ワーニャ伯父さん』も、男は観念的で生活感が無く、女は逞しく地に足ついて描かれているのが特徴的だ。共通する主題である「忍耐をもって生きるしかない」というメッセージも、両作品ともに女性から語られている。こういった男女観は古今東西の作品で頻繁に見受けられるあるある表現だが、当然ながらチェホフ個人の癖や洞察が反映されてもいるだろう。
 とりわけこの2作品を読んで、女社会はつくづくスターシステムだな、という納得あるいは落胆、あるいは愛憐が新たになった。嵐のように華やかな女性の影には常に、平凡な女性が切々と紡ぐ忍耐がある。『ワーニャ伯父さん』のエリーナの影にはソーニャがおり、『かもめ』のアルカージナの影にはニーナが、そして更にニーナの影にはマーシャがいる。
 影に隠れた女性達をあるがままに捉えるチェホフの観察眼が冴え渡った作品。追々『ドライブ・マイ・カー』も見ます。