取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

春・生成流転

 車窓から見える景色が日毎うららかになり、遂に今週来たなと思った。訪問先でふと横目に見やった街路樹の枝先からやや蕾の膨らみを感じたその日の数時間後昼、建物を出る頃にはもうそこは誰が見ても春爛漫の桜並木に変わっていた。
 植物のくせに人間並みの目まぐるしさだ、意表を突かれてゾッとした。真っピンクのクローンだと思うと尚更薄気味悪いものがある。そういえば植物って静物ではないのだった。


 そんな虚をつかれた春の便りだが、もちろんのこととして、景趣としては心地よい。運転していても視界が終始はなやかで可愛らしく、揚々と鼻歌を歌いたくなる。こんもりした丘の緑の遠景に時たまピンク色が混ざっているのが愛くるしいし、青空をぽくぽくと漂う雲が大きな綿菓子に見えて美味しそうだななんて思った。
 桜景色など京都に住んでいた頃に呆れるほど見た、と飽いていたが、季節の花というのはこうした日常風景の中で何の気なしに遭遇すると、素直に心に染みる。京都は植え過ぎだ。京都市の桜、特に寺社仏閣の桜は時々、情趣を失う程咲き乱れ油汚れのようにギラついている狂おしく頽廃的な美を生み出している。あれも豪奢で悪くないが、季節の訪れを微笑ましく牧歌的に実感できるという点において、景色それ自体を目的とせずいつも通りの生活を送る中で不意に遭遇する花の芽吹きの方がずっと私は良い。ゾッとしたとか書いたが、ゾッとするのも味である。


 流動の季節だ。やはり目まぐるしく人も動く。自分は半年前に引っ越したばかりなのでこの4月には流石に特に生活に変化は無いが、新生活に向けて慌ただしく準備している人々の姿は、街中でも周囲でも多く目にした。お達しもあれば決断もある、感じることが多くなる季節だ。


 先週末、大学の研究室の先生が退官されるということで、最後の講義と祝賀会が京都で執り行われていた。ただの学部生として末席を汚していた身分からすれば恐れ多くも大変光栄な機会であるし、逢瀬の絶えて久しい懐かしい方々とも一堂に会せる貴重な場であろうから参加したくはあったのだが、スケジュール的にも体力的にもなかなか険しいものがあり断念した。
 会の当日、家のパソコンでカタカタ作業しながら画面右下の時刻表示を5分に1回垣間見て「そろそろ集まった頃かな」と思いを馳せ、そのまた数時間後にカレー(2日目)を機械的に口に運びながら「そろそろ店に移動した頃かな」と落ち着かない心地で推測する。どういう話をしてるんだろうな。感慨深く、楽しいだろうな。わいわいやってるんだろうな――。
 ぼんやりとそう思う時、同時に胸に僅かに沸々と去来した、とある感情にぎくりとした。この感覚には身に覚えがある。大学の頃にはこの数十倍の粘度をもって胸に抱いていたのだが、大学当時の私は、他に何の予定がある訳でもないのに敢えてサークルのイベントを欠席し、下宿で一人もそもそ食事を取りながら、同時刻にさぞ盛り上がっているであろう、自分が欠席している大学生的青年イベントの沙汰を様々想像しては、それら全てを退けて一人飯を選択するいま現在の自身の存在との鮮烈な対比に、得も言われぬ快感を感じていた。
 まだ青かった。人が自己を孤独だとかぼっちだとか認定する時には、常に陶酔が伴う。「サークル本来の定期活動には常連の一人として真面目に取り組み、ある程度の社交も厭わずに顔を出すものの、馴れ合いは好まず絶対的な個人のゾーンを持っている」「付き合いは決して悪くないが、どこか希少価値がありぞんざいに扱われない」――自分がそういう存在に近づいていることへの尊大な没入感、しかし一方で、そうは言っても皆がいる場に自分が居ないことへの寂寥と不服、そしてイベントごとをあまり何度も欠席すれば次からは誘われもしなくなってしまう、それは避けたい、という姑息な恐れも明確にあった。大人数の社交場での身の振舞い方を考えることや、考えたなりの身の振り方を実践して撃沈することは、当時の自分には激しい苦痛をもたらした。その苦痛を回避し、自尊心をも防衛できる最も楽で都合の良い方法が欠席だったのだ。
 全く毛羽立つ程に懐かしい。大学時代の知人と再会する際に生じる外発的な懐古などより、我が身に自然と起こる感覚が当時と寸部変わっていない事実の実在性の方がよっぽど、不快な程に過去の自分を連れて来る。


 流石にこの勿体ぶった自己演出はいつからか自然としなくなったし、此度の先生の回を欠席したのもただ単純に日程に不都合があったからだが、あの大学横の安アパートの一室で一人感じた自分本位な快感を現在の自分がゆめゆめ覚えなくなったと言えば、それは完全な嘘になる。粘度や形態、発現場所は変われども、今も確実に自分の構成要素になっている感覚で間違いない。
 流動の季節が過去の自分を連れてきて、変わらないものを突き付ける。桜も我々も散ることはあれど遺伝子は内部に保存されて変わらない。ただ我々はいつ咲きいつ散るかが不規則なのがきっと面白いところだろう。



 私事としては(いつも私事だが)3月は大きな文学賞の締切があるので、ここ数年くらい自分が照準を合わせてきた時期だ。今年も同じように構えてやっていたが、思うところあり、というか単に間に合わせられず、3月の末、倦みに倦んで今年は期日を自分で延長させた。よって、もうひと踏ん張りする。
 京都も3年くらい前から行きたい行きたい言っておいて結局今回も行けなかった上、気づいたら京都の知り合いが次また次と三々五々に京都から離れてしまった。これ以上行く意義が薄まる前に、そろそろ本当に再訪したい。そんで一丁前に紀行文とかも書けたら良いよね。まあこれは努力目標。