取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

不気味の谷の動物



全体性(Gestalt)を持った一個のまとまりを凝視したりしているといつしか全体性が失われて認識がもみくちゃになる現象をゲシュタルト崩壊と言い、よくこうやって漢字なんかがサンプルとして出されるが、自分の場合動物を見ている時にも頻繁に起こる。


動物は好きで――とはいえよく「似非愛好家」と揶揄される動物好きの御多分に漏れず、もふもふの体毛に囲まれた哺乳類くらいしか特別好きではないのだが――実家でも猫を飼っている。この前実家に帰って久しぶりに猫をまじまじ見ていたら、軽いゲシュタルト崩壊に陥った。布団の上で丸まっている猫があまりに可愛く胸が詰まっていつまでも見れると思う反面、見れば見るほど何が良いのかわからなくて不安になるのだ。可愛い可愛いと私達がこぞって持て囃すこの動物は、どこがどのように可愛いだろう。試しにあの三角耳を自分の手で覆い隠してみると、丸いだけの頭部はなんだか造形にアクセントがなくて微妙な気もする。でもそう思って手を除けてみると結局あんま変わらない気もする。ぱっちり吊り上がったお目目が可愛い気もするが、よく見ると結構凶悪な目だ。やはり個々のパーツよりも全体性が良いということなのだろうが、じっと見てるとその全体性も崩壊して訳も分からず不安になる。


動物をじいっと観察している時の座りの悪さの原因は「ゲシュタルト崩壊」に限った話ではない。それとは別の種類の不安感を覚えることもあり、その理由を自分で考えてみたりもする。
…とはいえ自分の脳味噌で感じたり思いついたりすることというのは、既に出尽くされ専門の人間によって精密に分析済みのことばかりであって、現象の理由にも名前にもある程度型が作られているものだ。そして動物に対するこの座り悪さを自分の聞いたことある範囲の既存の分類に当てはめてみると、上述のゲシュタルト崩壊と、集合体恐怖と、あと不気味の谷現象ってやつかなと思う。雑感は以下。



集合体恐怖(トライポフォビア)
小さな穴や斑点が密集している時に感じる生理的嫌悪感。人間は自分基準のスケール観で美醜をとらえるので、人間の視覚がその全容を判別しやすい事物のことを美的に良いと判断することが多く*1、その結果必然的に「かわいい動物」はハムスターからパンダくらいまでの小ささに収まる。そして動物というのは複数の個体が集まった群れ状態にあることが多い。小さめの個物が密集しているのはやはりゾッとする。私はネコが好きだけど、ネコですら複数匹集まっているとお腹がムカムカするような嫌な感じを覚える。
そして動物の場合は集合体恐怖にプラスして、生命そのものの気持ち悪さみたいなものも乗っかってくる。多量の動物それぞれの体内に赤くてグロい臓器があり、それが絶えず脈動している事実の気味悪さ。「命のうつくしさ」とか言われるたびに「でも臓器って気持ち悪いじゃん」なんて頭に過ったりする。これはよく思うんだけど、生命の量にはキモさが宿っている…。


不気味の谷現象
像の擬人性が高まっていく過程で突然好感が急降下し、恐怖感・嫌悪感の底に突き落とされる(=不気味の谷に嵌まる)感情的反応。人に似すぎているのに人じゃないという気持ち悪さのことであり、よく人型ロボットが例に挙がるが、ゴリラとかチンパンジーとかの類人猿にも言えるはず。自分はああいう類人猿を10秒以上見続けることを体が拒むことがある。顔つきや四肢の動かし方が人間に似すぎているのが異常に思えて嫌なのだ。イヌやネコみたいな擬人性が低い動物でもたまに人間みたいな表情をすることがあるが、あれも奇妙で居心地が悪い。
そういえば前にビデオ通話が苦手な理由を少し考えたりしたが、不気味の谷1発で説明できることだったなと後で気づいた(ビデオ通話相手の人間は「人間に似たもの」ではなく人間そのものだが)。



…こう書くと何だかかなり動物を気味悪がってる人みたいになってしまうが、動物は好きだ。愛護や保護の精神こそ育まれなかったけれど、動物に危害を加えたくなったことなど一度もない。単純に姿かたちに惹かれる上で、生物としての面白さや、神性じみたものも感じる。ネコはめちゃくちゃ可愛いし、オオカミやトラはかっこいいし、タヌキやパンダはかわいい上に生態さえも面白すぎる(笹しか食べないって何なんだ!?)。ちょっと悪口も言っちゃったけど、サル系も別に嫌いじゃない。


それにしても、もしかしたら自分は相対的にかなり人間好きなのかもしれないと、ここまで書いてふと思った。動物好きだという自己認識はあったが、その動物を見ている時でさえこれだけの抵抗が奥にあるのに、人間に対して上記のような種類の不快感を覚えることはあまり無い。例えば東京ドームに人が5万人集まっている映像を見ても生理的に無理とは思わないし、逆に某ムスカみたいに「人がゴミのようだ」と愉快になったりもしない。何とも思わない。


昔は『幽遊白書』の仙水忍のセリフ「俺は花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」に共感していたつもりでいたが、そもそも虫は全然好きではないむしろ嫌いだし、多感な学生時代も過ぎて、周りの人に感謝する機会も増えた。人の心の機微にも結構興味がある方だ。総合的に見れば実は自分は人に対してはポジティブな感情のが勝ってるかもしれない。


でもまあ人間と人間以外の動物というのはフィールドが違いすぎるので、動物に関する不快感を人間には覚えないからといって直ちに人間が快適な生き物ということにはならない(「その分だけ快適」というのは言えるかもしれないが)。
それに普段目に映る人々というのは大抵社会生活をしていて、社会生活をしている人は動物的な動きをすることが少ない。それゆえに彼らを動物として意識しづらくなり誤魔化されがちだが、例えば横たわって睡眠している人間が5万人いたらギャップの違和感も相まってやっぱり不気味そのものだし、そういや知らない人の顔写真や鏡の中の自分をじっと見てゲシュタルト崩壊した経験もある(実物の他人の顔をじっと観察することは無礼にあたるのでそもそもできない)。生物としての人の生態を普段あまり気持ち悪いと思わないのは、単純に慣れの問題だったり、第一自分が人間だからなんだろう。


じゃあ単なる動物としての人間は無価値で気持悪いだろうか。そういう説もある。例えば赤ちゃんの状態から一切の知的発達が見込めないそんな人間が生まれたとして、更にその赤ん坊が孤児であり血縁どころか社会的な繋がりも何一つ持っていないとしたら、その人は人格ではなく生物学的な意味しか持たないと言えるかもしれない。そういう時にその人を社会が育てる必要は果たしてどれだけあるか、いや無い、とか。


思考停止で呆けたようにものを言う、平たく言えば「馬鹿な人」のことを医学部の先輩が学生時代によく「脳死チンパン」と言っていた。その形容自体はなかなか…ていうかかなり酷いなと思うのだが、まあ悪口特有の比喩表現だ。でも事実上の「脳死チンパン」人間がもし存在した場合、それは不気味の谷の人間であり…恐らく脱出もできない人間である。
永遠に谷底にいる人間は、動物のように「かわいく」なれたりするのだろうか?

*1:これはアリストテレスが『詩学』(多分。違ったらすみません)で書いてた。