取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

匿名幾何学

長いことブログ名にしっくり来なくて人知れず試行錯誤していたのだが、今度こそこれで行くと決めた。そういえば最初からアイコンは信楽焼きのタヌキだった訳だし…後講釈になるが元々タヌキはかなり好きな動物で、特にペットとして遇されるに最適な姿形、個体数を誇りながらも、決して飼い馴らされない野生動物であるというところに美学を感じる。日本のそこら中すぐ側にいる筈なのにほとんど姿を現さないというのも神秘的かつラブリーで、特別な動物だ。一方でどこか老獪だったり間が抜けてたり、伝統的なキャラクターとしての多様な顔も持っていて愛嬌がある。そんな訳でリスペクトの意も込めて名付けた。


ブログ名なんて読み手は誰も気にしてないだろうしどう名付けても恥ずかしい感じになってしまうけど、それでも名付けなければならない、というのが難儀なところで、例えばこのブログもご周知の通り(?)某感染症以降は終息祈願も兼ねてステイホームならぬ「ステイクローズド」という名を暫く冠したりしていたが、中途半端に自分のポリシーを時勢に噛ませているのが何ともダサく思えてきたため少し前に満を持してクローズした。以後暫定的にその辺のブログっぽい名前をテキトーに与え、「ブログ名とか拘るのアホくさいし笑」みたいなクールポーズを採用していたが、あまり無頓着に個人サイトを名付けるとそこが自分の庭という実感すら失われてしまい書く時の意識からぼやけていくので、やっぱりきちんと同定可能なユニーク名に落ち着かせることにして、やっと落ち着いた。これで行きます。



ブログを週1目安に書くことを生活に組み込み始めて早1年ちょっと経つけども、これはトレーニングとしてなかなか良いです。文筆のそれとしても大いに良いけど、もっと広義に頭のトレーニングとして役立っている。
文章を書く習慣がない人からすれば「人間は考えていることしか書くことができない」と思われがちだが、実のところそれは全く逆であり、書くことで考えられることが増えていくというものだ。ペンを持つと別人格が憑依して湯水のごとく文章が溢れ出るとかそういう感覚的なことが言いたいのではなく、そもそも主張やら批評やらちょっとした読み物やらを普段から定期的に書き残していると、日常の出来事やトピックスに対して、以前自分が別の問題について述べたことを引っ張り出してそれとの関連づけをしたり、矛盾の発見をしたりするのが直観的にやりやすくなる。自分で書いたらその内容は身に刻み込まれて覚えているし、そもそも文字記録として参照可能になっているので、頭の整理にかかる負荷が軽減され、その代わりのブランクボックスでまた別の考えに能を割くことが出来る*1


まあこのブログは功名心抜きで気楽に書いているものだし、見ての通り読者も少ないから何を書き何を抜かそうが別に誰に詰責されることもないのだが、それでも私は自分の言動に関しては結構コンシステントでありたい派で、主義が無自覚にブレるって格好悪いことだよな、という主義を持っている(入れ子構造文)。もっと言えば、正直なのに一貫している、心の欲する所に従えども矩を踰えず、というのが一番の理想だ。ただ自分の場合到底そうはなれず、感情はおろか行動すらも時に渾然と矛盾してしまうから、せめて文責意識くらいは保っておきたいところであり、そういう意味でウェブログっていうのはとても良い。


要するにブログやっているおかげで自己検閲の幅が広がって、演繹的に指針に辿り着いたりあるいはその指針の揺らぎに気づいたりできるから、それは非常に有益なことだと思っている訳だ。検閲の内面化ってのは石黒一雄御大の仰る通り一面では作家にとって極めて深刻な目の上のたんこぶで、私自身それを歯がゆい障壁と感じたりすることもあるが、強いられて為す是正ではなく主体的な自問のための検閲であれば止めどなく寧ろ積極的にやって良いだろう。


SNSの文章は上等じゃないから読まない」と村上春樹がいつぞやのインタビューで語っていたらしく、つい先日その話題がTwitterで耳目を集めていた。いかにも村上春樹っぽく、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら…」とか言ってる人からすればそりゃそうだろうなという発言だ。とはいえ実際SNSに流れる文章の平均的な質だけを評価するとそりゃあ確かに上等な訳ないのだが。ただ、じゃあ何でSNSの文章は上等じゃないのかというのを考え始めるとまた面白い気がした。
SNSはそこにいる人間の質が上等じゃないから文章も上等じゃないのだ、などと一蹴するのは簡単であるが、恐らくそれ以上に、文章の上等さというのはその匿名性と密接に関連している。文章の匿名性、言い換えれば「文責を当人に追及できる度合い」を示す線分があるとすれば、上等な文章というのは線分のどちらか片端に位置していることが多い。つまり極端に匿名性が高い場合と極端に匿名性が低い場合である。


極端に匿名性が高い場合というのは、例えば法律文章とか、詠み人知らずの和歌とか、5ちゃんねる掲示板の書き込みとかだ。文章を書いた個人を特定することが出来ず、その人の他の文章を参照することも出来ないがために、一期一会の希少性があり読み手の想像力が掻き立てられる。
逆に極端に匿名性が低い場合というのは、有名作家の小説とか、偉人の格言とか、物語におけるキャラの終盤の台詞とか、芸能人のラジオとかだ。その言葉を言ったり書いたりしたのが誰なのかというのが重要であり、それによって言葉に奥行きや説得力が付与されて感銘に繋がる。「中庸が一番」という言葉にしても、アリストテレスという凡庸とかけ離れた人類史上最高峰の知性が言っているからこそ言葉が凄みを帯びているのであって、これがFラン大学卒の実家暮らしニートに「普通が一番」とか言われたら「お前はもっと頑張れよ‼‼」となるだろう。


もちろん匿名性が極端だからって必ずしも良い文章とは限らず、ただそういう条件下だと良い文章が生み出されやすいということだ。2つのパターンは似て非なるもの、非なりて似ているもので、コンテクストに強く依存している点で共通していながらも、その文脈は全く別種の文脈である。匿名性が高い文章は書き手の情報がほぼゼロなので、その文章が何のためにどこで書かれた文章であるかという残りの情報が浮き出たような形で印象に残り、読み手の好奇心を刺激する。ぽっと湧いて出た、文脈が無いという一種の強烈でソリッドな文脈。匿名のために投影しやすく、しかし誰とも知れぬ浮遊した他人。書き手も自分の文章であることの責任感などないために、空に投げつけるみたいに衒わない無加工の普遍的な情緒がある。他方で匿名性が低い文章は前述のとおり誰の文章であるかに依存しており、書き手からすれば他でもない自分の文章への厳格な責任感ゆえに威信をかけて言葉を吟味推敲することで上等な文章が出来上がるし、読み手としてもその人をよく知っていれば知っているほど多角的に見れて面白い。人格という一個の文脈への造詣がその人の言葉を味わい深くする。


こうして考えた時に、SNSというのは匿名性が非常に中途半端だ。実名は伏せられてもアカウント名は表示されるし、多様な人の発信が入り乱れてはいてもその人のアイコンをクリックすればその人のホーム画面に飛ぶ。無作為に乱読しようとしても少し続ければ「よく見る人」みたいなアルファ存在が必ず現れてきて、要らぬ情報を知ってしまい、都合の悪いことは隠されてしまう。このように匿名性が片方の極に研ぎ澄まされるのが構造的に難しい状況だと、必然の成り行きとして承認塗れの駄文が目立ち量産され、上等な文章はどんどん総体に埋もれていくのである。


しかしこんなことを書きながらも私自身は結構インターネット中毒のきらいがあり、SNSの文章だって割合に楽しんで読んでいる。信条の似通った者達で界隈を形成し「いいね」を飛ばし合ったり、相容れない論客に安い挑発を繰り返し他人を操作する喜びに浸ったり、そんな腑抜けた行為にかまける私ではないので、飽くまでROMにとどまっているが、SNSブラウジングはそういう一読者から見てもエンタメ消費ができるジャンルにくらいは成っていると思う。文章の平均的質に関してはそりゃ決して高くないし、良い文章が読みたくてSNS見るような馬鹿はそんな居ないだろうけど、結局SNS内でも上述と同じ論理が敷かれ、匿名性が高低どちらかに振り切れている人の文章ほど上等である場合が多く、これはという地の塩のような言葉に出会うこともある*2


SNSへの評価はゴシップの評価と通じるものがあると思っている。村上春樹みたいな御年72歳の老人がSNSを敬遠するのは寧ろ当然の話だが、30代以下のフレンドリー世代で、SNSにかなりディープに浸かっているような人ですら、いざSNSの有益性を問われると甚だ懐疑的な意見を述べたりすることがままある。この「SNS、やってはいるけどくだらない。もっと良いものはたくさんある」みたいな感覚は私もこよなく共感するところなのだが、それでも「一応やってはいる」という事実の部分を忘れてはいけないだろう。ゴシップに関して同じことがよく指摘される。ゴシップつまり他人の噂話は、皆がやっていることなのに大半の人がそれに対して批判的な態度を採りがちだ。ゴシップを話すことで会話に油が差され人間関係が進歩する現象は至る所で何億どころか何恒河沙、いや何那由多回くらい繰り返されているのに、一般にゴシップは「あまり良くない、汚染されたもの」とされている。これはゴシップの過小評価だと、名著『しあわせ仮説』でジョナサン=ハイトが言っていて、私も大いに説得された論だ。SNSにもある程度は同様のことが言えるかもしれない。


はてなブログなんかも広く捉えればSNSの亜種みたいなもんだろう(亜種呼ばわりは怒られるかな)。私は文責は持ちたいけど結局ネットの零細個人ブログだし、このページでの筆名をわざわざ設定する程ガチガチにする必要はないと考えているので、このブログの匿名性も突き抜けられず中途半端だ*3。まあそれでも可能な限り上等な文章目指して刻苦勉励あるのみである。


…決意表明じみた言葉で締めといてアレだが、今月いっぱいドタバタするので記事の頻度や文量減ります。

*1:ただ、あまり脳内垂れ流しのように書く習慣がついてしまうと今度は書いていることしか考えられなくなっていくので、加減が必要。

*2:元も子もないことを言うが、この稿全体を通した文章評価の基準には私自身の趣味が影響している。審美眼はあるつもりだけどちょっと依怙贔屓が混ざっているのは否めない。

*3:とはいえ読者はほとんど既存の知り合いなので、そういう意味では実は匿名性めちゃくちゃ低いのだが。