取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

ミュージアム門下生

去る2月17日は安吾忌だった。

だからどうという訳でもなく、この話はここで唐突に終わらせてもらう。ただ言いたかっただけである。


過日、両国の江戸東京博物館で開催中の「古代エジプト展―天地創造の神話―」に行った。エジプト神話の原初の海ヌンについてのキャプションの前で「ヌン、ヌン、ヌン」と連呼してイチャつくカップルがいたこと以外は総じて良い展覧会で、面白いものがたくさん見れた。ベルリン国立博物館のエジプト関連所蔵品を借りた巡回展だが、展覧会全体の案内人として配置された山犬頭のアヌビス神が非常に秀逸に3Dデフォルメされていて(しかも声も良い)、ともすれば性的なくらいに魅力があるのが独自の面白さとして挙げられる。海外のものを展示する時にこういったキャラクタライズが施されるのは日本巡回のオリジナリティーで、賛否はあるのだろうがデザインが優れていれば私は好きだ。


しかし美術館や博物館に行くといつも思うこととして、見ている間は楽しく充実した時間を過ごしている実感があるのに、帰り道には見たものほぼ忘れている、という現象が多すぎる。配布されている目録を見返してみても、とりわけ印象的だった数点くらいしか品名と実物を頭で結び付けて反芻することが出来ない。興味を持って足を運び、絵画やら出土品やらの実物を前にふむふむと鑑賞した筈なのに、後に残るものは無くただ体験を買っただけのような空虚感すら密かに起こる。


それは自分はじめ鑑賞者側の見識不足によるものだと考えていたし実際そういう面も大いにあるだろうが、この頃になって「私のせいだけでも無いな」と疑い、気づき、ないし開き直り始めた。国公立の博物館だと自分の興味の度合いに拘わらずどんな分野の展示でも概して似たような感想になるのだ。
だいたい同じような空間利用で、同じような規則性に沿って展示物が配置されており、そういう画一的な見せ方は良くも悪くも文脈を無効化する。建造物が白壁の箱型空間であるのは最適化の結論だろうし納得できるから良いとして、私が止めてほしいなと思うのはテーマ括りで空間をまとめる展示形式。テーマではなく時系列や作家でまとめた方が自然であるし鑑賞者も流れを追って理解しやすい。例えば歴史的遺物の展示(ex. 古代エジプト展)ならモチーフではなく推定制作年でまとめてほしいし、多数作家の美術展(ex. ルネサンス展、「怖い絵」展)なら作家ごと、更にその作家の制作順でまとめてほしいのに、ここ5年くらいで行ったそれ系の博物館は8割くらいがテーマ優先で部屋を区切った順路になっていた。しかもその作品テーマの割り振り方も、キュレーターの恣意的な判断ではないかと疑わざるを得ないことがそれなりにある。


テーマ別の展示というのは恐らく鑑賞者の知識の無さを前提にしており、知識のない人間でも感覚的に楽しめるように配慮した結果かと推測する(あと内装のしやすさと滞留時間の遅延防止)。確かに博物館の来客は別に専門家でも何でもない一般大衆であるから、そうした配慮が実際に実を結んで満足感に繋がっている部分もあるのだろうが、一過性を越えた、点と点を繋ぐような体系的な理解はあまり望めない。知識のない人間でも楽しめることだけでなく、知識のない人間の知識を増やすことにももっと意欲を費やしてほしいと思うのは我儘だろうか。ツタンカーメン時代(紀元前14世紀)とプトレマイオス朝時代(紀元前1-3世紀)の出土品が特に何の説明もなく、ただ同じ神をモチーフにしているからという理由で横に並んでいるのを見たら、腑に落ちない感想を持っても仕方ない。テーマごとで区切るにしても、せめてその室内でくらいは時系列順に並べて欲しい。あらかじめ相当な見識のある人間でない限り、ちぐはぐに並べられたものから体系を割り出して縦横無尽に鑑賞するなんて芸当は出来ない。当然私も出来ないので毎回すぐ内容を忘れてしまう。大体にして建物の狭さに反して取り扱う展示の規模がでかすぎてピンぼけしていることが多いので、もう少し時代や分野の焦点を絞って深みに入り込めるようにしてほしいと思ったり何だり。あと製造法や絵画技法の説明も全くないことがほとんどで、何がどうすごいのか論理的に理解しようと考えづらいのも問題だ。


加えてよく感じるのが、本来そんなに高等でもなかった物が博物館という文化的に洗練された清潔な均質空間に陳列されてしまうこと自体への似つかわしくなさ。古代の生活用品とか、江戸時代の春画とか、そういう当時むしろ卑俗だったであろう物が時を越えて真っ白い壁の部屋のガラスケース内でぽつりと守られ、余所行きの立派な服を着た人々から長蛇の列を成してまでまじまじ角度を変えて鑑賞されているその状況は、意識してしまうとかなり不思議なものである。古代の祭事に使うような神々の意匠があしらわれた品々だって、まあ神聖な物ではあるのだろうが、当時の人々にとっては恐らく高尚というより日常的な存在だった訳じゃないですか。そういう違和感みたいなものは拭えないよな。これに関してはだからと言ってどうしようもない気がするが、もう少し下賤の雰囲気をまとった国立博物館があってもいいかもしれない。


いわゆる現代アートのギャラリーなんかはやはり作家(存命だし)やキュレーターの創意工夫が広く許容されているだろうから、作品の好みはともかく、展示としてエネルギッシュで面白いことが多い。あと作家1人をまるまる取り上げる展覧会が私は好きで、京都で見たマグリット展なんかは特に作品数も解説も充実しており、個展ゆえに大抵制作順に並べられているから、それまでほとんど知らなかったマグリットの魅力を存分に味わえた。ちょうど1年くらい前に行った箱根彫刻の森美術館も爆裂に面白く、野外に現れるというシュールさが作品の潜在能力を効果的に引き立てていた。

箱根 彫刻の森美術館 公式サイトより


博物館とか美術館みたいに存在自体が公益性に適っている施設はどうも画一化しがちで一長一短ある。土日に上野のミュージアムエリア行くと必ず夥しい人の列が同時多発していて、たとえ真夏の炎天下であろうと日傘を差して項垂れながら、一人客もいればちょっと意識高めのカップルから老夫婦まで、みんな一糸乱れず上品に待っている。たまに自分も意を決してそこに並んでみたりするのだが、そのたびに並びながら「何かが違う」と思うのは確かだ。豊かで高尚な物への人々の興味や憧れがこんなモブ行列の形で表れてしまうのは何か違うのではないか。本物を見たい気持ちが人をこんな劣悪環境に貶めるのは…。
そういう帰路にちょっと寄ってみるかと考えてアメ横に向かうと、そこでは先程の高級な文化地区は何だったのかと思うようなDarkness空間が混沌と広がっており、こんなところに用はないなと結局何もせず踵を返す羽目になるのだが、このコインの裏表みたいな上野の一体構造はとても象徴的でどこか安心する。清濁併せ飲みじゃないけど、もう少しその境目が曖昧でごったになると尚楽しいのかもしれない。