取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

J.M.クッツェー『マイケル・K』

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

あらすじ(Amazonより)
土のように優しくなりさえすればいい―内戦の続く南アフリカ、マイケルは手押し車に病気の母親を乗せて、騒乱のケープタウンから内陸の農場をめざす。ひそかに大地を耕し、カボチャを育てて隠れ住み、収容されたキャンプからも逃亡。国家の運命に翻弄されながら、どこまでも自由に生きようとする個人のすがたを描く、ノーベル賞作家の代表傑作。


殺伐として晦渋。干上がって水分が失われた泥土がこびりついた小説。土の匂いがするのにそれは乾いており、稔りの予兆がするのにそれは腐っている。読んでいて非常に苦しく幾度か呻いた。序盤、プリンスアルバートの農場目指して彷徨う下りは、執拗な程に緻密で具体的な文体と物語の緩急の無さが相乗して読み物としてはやや退屈だが、「こんなに詳細な描写をすることって人間に出来たんだ」と驚愕し平伏す思いだけでページを進め……農場に到着してその後キャンプに収容される辺りからは、物語それ自体に好奇心が持てて一気に読めた。


主人公のKは人と関係することが出来ない。内戦中の南アフリカで孤立無援となり、亡き母ゆかりの田舎の地で一人廃農場を耕している時、後にも先にもこの時だけ彼の人生は調和する。しかし時代の歯車は彼をその安寧の地に留めさせてはくれず、兵隊や警官によってKは次々に捕らえられてしまう。Kのような浮浪者達を集めて労働の代わりに最低限度の食料と寝床を提供する「キャンプ」を、痩身にも拘わらずKは何度でも脱走する。キャンプで与えられた食べ物を口にすることを拒み、理由を問われても答えない。


解説や他の感想をいくつか読むと、Kが脱走すること、食べないことはKが自分の自由を希求するがゆえだと言っている人もいる。そうかもしれない。だがKを自由と言うというのは、石ころを見てそれを自由と言う時の物言いに似ている。物質が物質の振舞いとして自由であることを、人間であるKにまで適用しているような不合理感を私は覚える。自分に慈善を施そうとする人間から逃げること、彼らの与えるものを食べないこと、確かにそこには侵犯という暴力から免れようとする消極的な自由の追求がある。しかしその先に辿り着くのが骨と皮だけの自分と、同じように骨と皮のような不毛の大地だけである場合、どうしてそんな自由を輝かしく捉えることができるだろう。


終盤まで私はKのことを、自分を他者に介することが出来ず、そうすることに価値も見出さない人間なのかと思っていた。育てたカボチャをKが初めて口にした時、この小説で唯一と言っていいような率直で瑞々しい言葉で喜びが表現されており、その眩しさは印象的で、だから誰がなんと言おうがどんなに身を落とそうが彼の自由は彼自身が超然と証明できると、そういう話かと思った。だが終盤、Kが自身を振り返り、身の上話を他人にせがまれても自分が何も話すことができず、彼らを喜ばすことが出来ないことに苦悶している記述がある。そこで少し見方が変わり(余計に苦しくなったが)……他人との繋がりをどこかで明確に求めているのに、それを叶えられない、そういう能力が決定的に無い人間が、絶え間ない暴力の中それでも大地を耕している時は土や石ころのように優しく、世界と調和し生きていける、そういう人間の悲愴な生命力、虚しくもある底力のようなものが感じ取れた。肯定するしかない程にひ弱で強靭な一個体がひとつの作品を使ってまるまる提出されている。


クッツェーは2003年のノーベル賞作家だが、読むのはこれが初めて。あまりに素晴らしいので本当は書くことなんてなかったが無理やり書いた。ノーベル賞受賞作家は思索の深遠さや文章の出色振りは当然として、みな志が崇高なのが何にも増して重要で価値がある。こんな作品を作り出すことが出来るなんて人間ってやっぱりとんでもないなと思わされた。


↓備忘

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

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夷狄を待ちながら (集英社文庫)

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鉄の時代 (河出文庫)

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