取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

ジョゼフ=キャンベル『神話の力』

商品詳細より
世界中の民族がもつ独自の神話体系には共通の主題や題材も多く、私たちの社会の見えない基盤となっている。神話はなんのために生まれ、私たちに何を語ろうというのか? ジョン・レノン暗殺からスター・ウォーズまでを例に現代人の精神の奥底に潜む神話の影響を明らかにし、綿々たる精神の旅の果てに私たちがどのように生きるべきか、という答えも探っていく。


神話を勉強したいと思って亀の歩みでのそのそ進めていたのをやっと読み終わった。
「現代を生きるよすがとしての神話」を考える含蓄に溢れた本で、読みやすい訳と対談形式のおかげもあって学術書というよりは読み物に仕上がっている。ただ語り手である比較神話学者ジョゼフ=キャンベル(1904-1987)のレジェンド級の知性と、そこから洪水みたく流れてくる人生訓の数々に気圧される本でもあるため、どうしても偉い先生の御高説感が充満しており読んでいてかなり消耗した。神話の話だから当たり前っちゃ当たり前なのだがどうしても話が象徴的・神秘的になりすぎて掴みづらいというのもある。


その点インタビュアーでありジャーナリストのビル=モイヤーズ(1934-)が良い仕事してたな。常軌を逸した博覧強記だがちゃんと世俗的な意見も言ってくれている。キャンベルはやはり大先生なので言うことがいちいち達観していて、それこそ本人自体がオリンポスの山並みから現れてきそうなくらい仙人じみているし、そもそも神話のストーリーテラーたる古代人に対する敬意が半端ないため、私たち俗物からすると「敬意が有り余って暴走してる」と感じる箇所が折にある。そういう場面でインタビュアーがちゃんと「それは拡大解釈では」と水を浴びせてくれるのは良かった。


まあそんなこんなで疲労にうなだれながら頑張って読んだので、印象的だった箇所をいくつか引用メモする。

モーセの)十戒では「殺してはならない」と言っているのに、すぐあとの章ではカナンの地に攻め入って彼らを皆殺しにせよと言っています。それが限界領域というものです。参加と愛の神話は内集団(イン・グループ)だけに関わるもので、外集団(アウト・グループ)はまるで無関係。それが「異邦人(gentile)」という語の意味です。異邦人は同じ人間仲間ではないのです。〔キャンベル、p.78〕

ラーマクリシュナはかつて、もしあなたが自分の罪のことだけしか考えないのなら、あなたは罪人だといいました。それを読んだとき、自分の少年時代を思い出しました。あのころ、土曜日になると教会に告解に行っていたのですが、おかげで、その週に犯した小さな罪のことばかりくよくよ考えていたものです。〔キャンベル、p.135〕

見者の物語を聞いた人はこう言って反応する―—「そうだ! これこそ私の物語だ。これこそ私が以前から語りたかったのに、語れないでいたものだ」〔キャンベル、p.142〕

<戦いで死んだ戦士とお産で死んだ母親が同じ天国に行くアステカ族の神話について>
それにしてもすばらしいイメージだな――母親が英雄だなんて。(中略)それは旅ですね――出産を成し遂げるために、慣れ親しんだ、安全な生活の外へ出て行く。(中略)そして、子供を連れて旅から帰ってくるとき、彼女は世界になにかをもたらしたことになる〔モイヤーズ、p.267〕

女の子は、自分にそのつもりがあろうとなかろうと、ひとりでにおとなになるけれども、男の子だと、自分で努力しなければおとなになれない。最初の月経が来れば、女の子は一人前の女性です。次に気がついたら妊娠していて、もう母親です。しかし男の子はまず最初に、自分を母親から引き離さなければならない。エネルギーを自分自身のうちにたくわえなければならない。スタートはそれからです。これこそ神話が「若者よ、おまえの父を探しに行け」と言っていることなんです。〔キャンベル、pp.291-292〕

神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせる〔キャンベル、p.314〕

<中世の吟遊詩人がとなえるアモール(たぶん恋愛のこと)としての愛について>
非常に不思議なことですね。まず電撃的なことが起き、そのあと苦悩が伴うなんて。吟遊詩人たちが賛美するのは、その愛の苦しみであり、医者にも治せない病いであり、傷つけた武器そのものによってしか癒すことのできない傷です。〔キャンベル、p.407〕

新約聖書のなかで、私の心を最も強くとらえている言葉は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」です。わたしは究極的な実在を信じ、それを経験できる、経験していると信じています。それでいて私は自分の疑問に対する答えを持っていないのです。「神は実在するのだろうか」という疑問の〔モイヤーズ、p.440〕

神話とユダヤキリスト教との基本的な相違は、神話のイメージのほうにはユーモアの要素があるということです。私たちはそのイメージがなにかを象徴していることを理解します。私とそのイメージのあいだには距離がある。ところが、私たちの宗教においては、あらゆるものが散文的であり、あらゆるものがとても、とてもきまじめです。ヤハウェを相手のたわむれなんて、まるで考えられない。〔キャンベル、p.456〕


こういう味わい深い詩的な調子が500頁くらいずっと続く。キャンベル自身一貫して神話のことを「壮大な宇宙の詩でありメタファー」と言っており、それは古い化石などではなく全ての人々の内面に今なお息づく物語なのだと語る。


詩かどうかはともかくとして、最後の引用の「神話とキリスト教の物語としての違いはユーモアの有無」というのは確かに。聖書、特に新約の内容というのは(ものすごく浅い記憶だが)厳格・清貧・教化的で、茶化す要素がほとんどない。だからこそうつくしい響きを持って耳に入ってくるのだと思うが、自分のように無宗教の者からすると清らかすぎて「ほんとか?」と訝しんでしまう部分もある。
有名な『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ(マタイ第5章)』という訓戒も、「頬を打たれる」というロマンチックで感動的な表現だからハッとするし自分もこういう心性を持ちたいような気分になるが、別の表現に置き換えたら途端に実践する気が失せたりするんじゃないかなとか思う。頬を打たれるのは我慢できても、例えば親を苔にされたら我慢できないとか、自分の服を毎日真似されたら我慢できないとか、インスタで不倫匂わせられたら我慢できないとかあるかもしれないじゃんね。ちょっと違うかな。
とにかく表現が散文的すぎると、その詩的さでもって問題を誤魔化されているような疑いをかけたくなりもする。


そういう意味では神話のように滑稽さがある方が逆に真実味を帯びて迫ってくるかもしれない。既に潜在的には認めている真実を、荒唐無稽な神話の例が不意にひょいっと引っ張り出してくれるようなダイナミックな感覚は無きにしも非ず。自分としては単純に話がエキセントリックで面白いから宗教の本よりは神話の本の方が楽しくて好きかな。


あと第一章の締めに引用されていたシアトル首長(1786-1866)のスピーチが非常に良かった。シアトル首長は開拓最初期にアメリカ建国に好意的な態度をとったインディアンの首長。白人たちに大地を買い上げられ居留地へと追いやらせる哀惜と疑義の言葉が胸を打つ。


切りがないから記載はしないが、古今東西の奇想天外な神話やショッキングな民族風習についても頻繁に紹介されていて面白かったな。元々そういうのが読みたくて買った本だし。でも対談ゆえに赴くままに喋られるので、地域やテーマが行ったり来たりで混乱もした。どうやらそういう個々の事例検証みたいなのはキャンベルのもうひとつの代表作『千の顔を持つ英雄』の方が詳しいらしい。

確かに『神話の力』は趣味と人生哲学の風味がかなり強くそれはそれで悪くはないけど、深遠すぎて私にはまだ早かったし「神話を学ぶつもりで読んだら思いがけず叱られが発生した」みたいな不服感も多少残ったので、もう少し著者の人格を抑えたものも読みたくなった。というかもうこれも買ってしまっているからいつか頑張って読みます。