取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』

 

エーゲ 永遠回帰の海 (ちくま文庫)

エーゲ 永遠回帰の海 (ちくま文庫)

  • 作者:立花 隆
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: 文庫
 

 

2005年に出た本ではあるが、この1月に文庫が出たと聞いてそれを買った。

立花隆って読むの初めてだったんだけど、さすが「知の巨人」なんて目されているだけあって一つのセンテンスでめちゃくちゃ教養エピソードが派生して語られるので、ちょいちょい置いてけぼりにされてしまった。でも語り口はわかりやすいし美麗な図版も随所に散りばめられてるので、わりとサクッと読める。これだけ綺麗なカラー写真が載ってて1000円なら安いと思う。

 

書名が「エーゲ」だからクレタ・ミケーネ文明のことがメインなのかなと安直に思ってたけど、もっとずっと広がりのある本だった。「偉大なるパーンは死せり」という文句の紹介から始まり、パーンが象徴する古代のエーゲ、もといギリシア文明は「死滅」した訳ではなく、ローマ、キリスト教、そして現代の中で手を変え品を変え永遠に回帰しているということを、著者の旅行記の形で多面的に掘り下げている。

 

具体的なところで言うとアトス半島とかエフェソスのあたりが面白かった。

アトスっておぼろ~に聞いたことはあったけどこんな排他的で隔離された修道院自治区だったのか。

ja.wikipedia.org

 

徹底した女人禁制を敷いており、動物すら雌は入国禁止らしい。でも猫好きの修道士がいた影響で猫だけは雌もいるとか。何やねんそれって言いたくなる。この場所自体にも興味はそそられたけど、私は寧ろ、こういう清貧な地区で生まれ育った人が成長してもし外の世界に出て行った時、その目に飛び込む刺激に対してどういう反応を起こすんだろうか、ってところの方が気になる。どうなんだろう。1回気絶くらいはしそうだけど、その後どうやって折り合いをつけるんだろう。

 

あとエフェソスの話。「エフェソスの多乳のアルテミス」と「エフェソス公会議」は単語として知ってはいても、両者を結び付けて考えたことはなかった。アルテミス信仰という形でエフェソスで培われていた地母神信仰、すなわち母なる者への信仰心が聖母マリア崇拝の下地となって、後のエフェソス公会議でのマリア神聖視決定に繋がる…という筋書きは「ほー、なるほど」と思わされた。

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ていうか、乳だか卵だか知らないけどこの大量の袋を胸につけたエフェソスのアルテミス像(上図。Wikipediaより)は本当に異形で見るたびゾクッとするね。古代の地母神像ってなんでこういうちょっと気色悪い女性像が多いんだろう。女性に神性を求める感性というのは現代人の自分も結構共感できるんだけど、その神性の所以というのが古代人とは全然違う気がする。自分なんかは女性独特の美しさや繊細さやエキセントリックさに神秘的なものを感じるけども、古代の人ってそういう内面的なことよりかは断然女性の機能的な部分に神聖化の目を向けている。そこがなんとも即物的な感じがするんだけど、そういう身も蓋もない感性の人たちの方が現代の私達よりよっぽど信心深いってのもまた逆説的で面白い。

 

日本みたいな単一民族の大きな島国で生きてると忘れてしまうが、本来エーゲ海みたいな島嶼部というのは、一生をそこで過ごす人がそもそも少ないんだろう。だからこそ歴史上でも多種多様な民族が人生の通過点としてそこを訪ねた。プラトンは自身の政治哲学の実現のために何度もシチリアに足を運ぶし、聖ヨハネはパトモス島に流刑されてそこで黙示録を書くし、聖母マリアはキリストの死後エフェソスでひっそり余生を送る。エーゲ海には古代西洋において運命に翻弄された人々の過渡期が混濁しているんだろう。この本を読んでそう思った。

 

そしてそれは歴史書に名前が残っている人たちだけの壮大な話ではなくて、風で飛ばされるような素朴な生活者たちだって同じだった筈だ。

 

知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。

最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。

記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。

立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』pp.30-32

 

記録されなかった暗がりの中の微細な歴史に触れてみたいという気持ちは自分にもわかる。とはいえ自分は歴史を何一つ探求していないんですが。

この本とは全く関係ないけど、前々から「稚児」って存在に興味がある。稚児というのは単純に幼子のことを指す場合もあるけど、日本仏教において寺の小姓のような役割を担ってきた男の子のことでもあり、これが結構えげつないのだ。

寺の僧侶は女性と肉体関係を持つと女犯という罪になってしまうので、その抜け道のような逃げ口上としてしばしば稚児が利用されてきた。要するに、寺の稚児として村のかわいい男の子を迎え入れ側に置き、女と交われない僧の欲望の捌け口にしたのだ。稚児を理詰めで神聖視して稚児灌頂なんていう儀式まで作り出したり。

 

今の感性からすると「うええ」となる話だが、お寺に仕えるとなれば衣食住も保障されるし何より名誉なことなので、自分の息子が稚児に選ばれると親はむしろ喜んだとも言われる。

この衆道は創作意欲を刺激するので文芸において「稚児もの」っていうのは結構あって、谷崎潤一郎も『二人の稚児』って短編を残しているが、私は何より稚児本人の言葉を聞いてみたいなっていつも思う。

昔の習俗を現代の感覚で理解しようとするのは野暮かもしれないが、当人からしてみればこの経験、やっぱりめちゃくちゃ苦痛だしめちゃくちゃ怖いんじゃないかと考えてしまう。だって年端もいかない若い男の子がオッサンの坊主たちに好き放題されて嫌じゃない訳ない。本当に酷だし辛い話にしか思えない。だけどこうした歴史の端役の生の声というのは、大抵どこにも残らないのだ。後世の人間がその悲しみ、その孤独に想いを馳せることはできても、それは行間の範囲を出ることはない。

 

「語られないものは虚無の中に呑みこまれ」、別の地点、別の時間で再生産される。こうして回帰するのは悲劇や終末論だけではない筈だけども、一度姿を消したものに想像を巡らす時、どうしても寂れた喪失感は付きまとう。だいぶ話が脱線したけど、詰まるところエーゲの遺跡群にはそういった去り行くものの声なき声が白亜で埋め立てられているのだろう。

エーゲ海、人生で一度は行ってみたいものだけど、永遠に憧れていたいような気もする。そうして私の憧憬も永遠回帰させちゃおうかな(?)。詰まらない締めになったけど終了。