取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

京大と普通

 京都大学を卒業して関東に来てから3年半が経ち、母校を外から見るようになって初めて気づいたことがある。というのも何やらこの世には「京都の大学生だった郷愁をブログや短歌でやたらエモく語る」という分野が存在しているらしい。そして、なぜか、不思議なことに、その語り手は決まって京大生なのだ。


 そもそも「京大物」という閉塞極まりない限定的なジャンルがどういう訳か日本文学の世界で一定の権威を得ていることにまず違和感があったのだが、最近その風潮が加速しているようだ、ついに素人までもが京都での学生生活を過剰にセンチメンタルに懐古語りし始めた。
 彼らに共通した特徴として、京都市という都市に関して完全に我が物顔なのにあえて「京都の学生」という表現を好み、「京大」の明言を避けるいやらしさがあることにも気づいた。彼らが享受していた京都の学生生活の楽しさは恐らく彼らが京大生であるという事実にどこまでも所以するものだと思うのだが、そのことには無自覚、あるいは無自覚の振りをしているように見える。百万遍で醸成された喜びが京大の喜び以外の何であるというのか逆に不思議だが、彼らは頑なに京大ではなく京都を語る体を採る。その述懐の仕方がちょっと傲慢だし自己欺瞞的かな。自分も京大卒なので述べられている内容自体は共感できたりもするだけに、余計その語り方の悪質さが気になってしまう。「京都には世界の全てがあった」とか、そんな訳ないって誰でもわかるのにそういうこと言う。


 あくまで傾向の話だが、浪人の人、院卒の人、総合人間学部の人、吉田/熊野寮の人がこういう語り方に陥りがちだ。というか語りがちだ。やはり京大に特別な憧れを持って入学した人や、京大ブランド生活を謳歌した人にとっては、自分が京大生であるという喜びが長いこと尾を引くのだろう。加えて卒業後に東京に就職したりすると京大圏の文化とのギャップにたじろぐことも多いので、京大への郷愁がより増し増しで募りやすい。


 確かに関東人との文化の違いは自分もよく感じるし、それは大学という組織に対する捉え方において特に顕著だ。引っ越したばかりの頃は、東京の大学を出ている人達って最終学歴を人格の判断材料として信頼しすぎているように感じてかなり違和感があった。学閥意識も異常に強く、所属大学の卒業生の名前をそらで際限なく言える人が多いし、インテリ著名人みたいなのが出てくるとすぐに出身大学を確認して言及したがる。田舎出身の京大生である自分からすれば早稲田と慶応って何が違うのか全くわからないし興味もなかったのだが、そういうところにある微妙な差異にみんなが軒並み執着しているようだった。数多ある東京の大学それぞれが熾烈に商品価値を競っているのだ。自分が「京大の人」として扱われるのも、どうも実がなくてあまりしっくりこなかった。


 所属大学が人格を大きく左右するという彼らの確信は学生上がりの当時の私にはかなり闇雲なものに感じたし、なんだか随分くだらないこと気にしてるんだなと内心引いたりもした。そして私が覚えるこうした違和感は私個人が学歴至上主義ではないからとか、田舎者ゆえの東京嫌悪があるからとかの理由で生じる違和感なのかなと思っていた。
 しかし本当のところその違和感も、私が京大卒であるから感じたものに違いなかった。都心から隔絶した関西で絶対王者的に扱われ、全国的にも唯一無二の商品価値を持って君臨する京都大学の中に在籍していると、自分の学歴を手持ちカードみたいに用いて競う発想がまず生まれない。必要がないのだ。


 学歴への興味が薄いという自分の性向は、ひとえに京大卒ゆえの慢心に依拠するものだ。学生時代はこの病理に私もあまり気づかなかったし、関西の大学に関しては京大とあと阪大とそれ以外、という風に、無関心というよりは乱暴な認識をしていた節がある。そういう意味で京都の私大や府大の学生達は、不当に肩見狭い思いを強いられることもあっただろう。こういう傲慢な見方は京大生じゃないと育たないし、いつまで経っても隙あらば京都語りをする京大卒の人がずっと引きずっている感性だと思う。


 京大という自分のレッテルは私も確かに気に入っている。京大卒という事実ひいては特に苦労もなく京大に受かったという事実は、就職して自分の仕事の出来なさにのたうち回っている時などに自分本来の知能の高さを証明し立ち返らせてくれる絶対の事実として私を慰めてくれた。こういう都合のよい馬鹿げた慰めは長くは持たないし、ちょっと「知能」が高かろうと実際上は何の役にも立たないことへの不思議さや惨めさの方が勝つ時も多いが、それでも後生通用する重要な証左であるのは変わりなかった。


 それに京大で過ごした学生生活も自分にとって良い思い出になっている。というのも大学時代に出会った人達は良い人が多かった――正確に言うと「頭が良くてまともな人」「真っ当に藻掻き苦しんでる人」が多かった。京大は世間的には「怠惰で変でちょっと諧謔」「飄々と権威を茶化す自由人」のイメージで飾り付けられて語られることが多いが、世の常としてそういうイメージ通りの人は実際は内部では少数派に位置している(世間のイメージと内情がぴたりと一致しているのは「諧謔」くらいなもんかと思う。関西人が多いので)。隙あらば京都語りをする京大卒の人もその表に出てくる個性的少数派の側だと思うし、森見登美彦世界の京大生活なんかは更に更にごく一部の煮凝りに過ぎない。京大生だからってみんな鴨川でアカペラしてたと思われたら困る。ああいった風土が学内全体に薄く伸びて敷かれているというのはあるかもしれないが。


 では多数派の特徴は一体何なのかと言われると特に思いつかない。それくらい、少なくとも私の周囲の人は普通だった。オタクが多いとか冷笑的とか自尊心が強いとかはあるが、それは京大に限らず偏差値の高い大学にみな共通する特徴だし。強いて言うなら上述のようなタイプの傲慢さと、あと変身願望が強い人が多い気はするかな。サークラ同好会とかボヘミアンとか、最近で言うとお嬢様部みたいな、他大とは「一味違う」サークルが多いという香ばしい実態は確かにあるが、入会してる人は極めて、本当に極めて稀だ(私は関わったことがないし、多分彼らは個性を渇望するがゆえに個性的な型になってる。もしくは、世間から仮託されたイメージ通りの「変人」にならんと努力した結果そうなっている。自分の鬱屈の戯画化IFを見ているようで、私は彼らのこともそんなに嫌いとは思わなかった)。
 多くの人は入れそうだったから京大に入ったという感覚で、自分は生まれつき勉強ができるだけの普通の市民だと自覚もしており、大学生活を通してその自覚もどんどん強まっていく、というのも自分よりすごい人が学内にたくさんいるからだ。そういう普通さが良いと思った。相当な会話下手の自分がああも気負いなく会話を続けられる相手があんなにゴロゴロいた場所は、今のところ京大以外に見つかっていない。だいたいの人を話しにくいと感じる私が、京大ではだいたいの人を話しやすいと感じた。


 私の思う「普通」と世間の「普通」が食い違っている可能性はある。そのことは最近気まぐれで芥川賞の『破局』を読んでみて改めて思い知らされた。小説自体は正直かなり嫌いなタイプだが、こういう流行りの日本文学で描かれる「普通の人」が私にとっては全然普通じゃないのでその違和感がとにかく頭に残った。そしてこれは自分が世間の人に対してもよく抱いている感覚だ。
 世間で言う「普通の人」が持っている特徴として、「凡庸な思索から繰り出される奇天烈な行動」というのがあると思う。凡庸というよりは思索自体が欠落しているのかもしれない。世に流布する規範意識を一丁前に身に着けつつも内面化がほとんどない感じ。それなのに、いや、それゆえにと言うべきか、行動としてはかなり突飛なことをする。深夜に急に元カレの家に押しかけたり、SNSや匿名サービスで見知らぬ他人に突然説教ぶちかましたり、顔も出していないゲーム実況者にときめいて可愛い可愛いとコメント欄で持て囃したり…。話を聞くと全然変ったことや狂ったこと言わないのに、行動としては「何やっちゃってんの⁉」と思うようなことを平気な顔してやっている。


 自分含め大学時代の周囲には、この逆の人が多かった。つまり頭の中は攻撃的に煮詰まっていて小難しい問題を考え続けることが好きだが、行動としては何も起こさず波風立てない。よく言えば硬派、悪く言えば臆病で、自分の思考やポリシーに他人を巻き込むのを厭う。
 私はこれが普通でまともだとずっと信じている。子供の頃からずっと信じていて、私の周囲も私と同じく普通だろうと勝手に信じていたら、たまに当てが外れて「あれ?」と思うのを繰り返している。いま巷で人気のマッチングアプリも、私にとっては全然普通じゃないので「おかしいなー」と思ってる。皆意外と軽い気持ちでやっていたりするのが余計わからない。葛藤や主義など堅苦しいと嫌っているのか、何やら衝動的な感情と行為だけが殺伐と浮かび上がっているように見える人が多くて不思議で不思議でたまらない。そういうのが良いとかエモいとか全然思えないしそういうのを文学性だとかのたまう奴らを可能性から根絶やしにすることが私の夢です、と思う時さえある。


 なので私の「普通」がまさに普通じゃない京大的個性なのだと指摘されればそうとも言えるのかもしれない。でもそれも京大というより高学歴あるあるなんじゃないかな。私はあまり人から「変わってる」と評されたことはない。
 まあとりあえず世間から託された「面白おかしい優美な狂人」「馬鹿と天才の紙一重」みたいな京大イメージは、京大内のごく一部でブランディング的再生産をさかんに繰り返されているだけ(そしてその空気が学内を微量~に巡回している)の偏ったイメージなので、在学中ならまだしも卒業後にもそれにしがみつくのは見苦しい。


 狭い界隈のぬるま湯に無批判に浸かり続けていると普通は世間に白い目で見られるのに、京大をはじめとした名門大学はその学術的権威で人々を目くらましして、なぜか尊敬を勝ち取っているところがある。
 京大文学への違和感もそこにある。私は森見登美彦作品を『太陽の塔』しか読んだことがないので知った風には言えないが…あれもエンタメ小説として面白いし文章も流石上手いと思う反面、「でもこれ京大生以外誰が楽しいの?」と不思議に思った。嫌いじゃないんだけど、もし自分が京大生じゃなかったらすげームカつくだろうなというか。しかし事実として森見登美彦は超のつく売れっ子で京大生以外のファンもかなり多いからなおさら不思議だ。京大ブロガーの「京都エモ語り」を好んで読む京大外の人もそうだが、あんな京大色ムンムンの読み物を京大生でもないのに素直に喜ぶ人達の気が知れない。ちょっと根が明るすぎやしないか。これは本当によく思う。普通の人は根が明るすぎる。なんでだ、なんでだ、なんでなんだ。



 …世の中は不思議な人々で満ちている。皆アイデンティティーを探し回って獲得しては、時にそれをかなぐり捨てたりしてまた放浪する。「狭さ」というのは個人の中で極めるべきで、界隈の中で極めてもごっこ遊びになるだけだ。皆それぞれ自分の中の普通を極めるしかなく、そこで生まれる奇妙な自分らしさこそ、自立し合った他人の中で本当に共有できることだと私は思うが…そう思わない人もいる。普通というのは大変だ。