取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

良いけどウザい 太宰治

太宰治の『人間失格』を読んだのは恐らく中学1、2年の時だった…と記憶しているが、恥ずかしながらその時は結構感動した。やはり今より二回りくらい繊細で、ストレートな軟弱さもあったからだろう。とっくに成人した現在の自分が改めて『人間失格』のハイライトをぼんやり思い返してみれば、もしかしなくても終盤の方なんかはかなり香ばしい、もとい腐臭立ち込めた内容だった気がする。友人と酒を飲みながら、ある単語についてそれが悲劇名詞(トラ=tragedy)か喜劇名詞(コメ=comedy)かとか、対義語(アント=antonym)や同義語(シノニム=synonym)は何かとかをニタニタ議論するという、余りにもスカした、もとい気色悪いゲームをしていたはずだ。

「死は?」
「コメ、牧師も和尚も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
(中略)
「花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」
「ついでに、女のシノニムは?」
「臓物」
(出典:『人間失格デジタル小説 - 太宰ミュージアム


っていう、寒すぎるくだり。「臓物。(ここでキメ顔)」と括弧で補完してやりたい衝動に駆られる。しかも何やら、これがわからない奴は「芸術を談ずるに足ら」ないらしい。気色悪さここに極まれりだ。何が芸術、何が大出来だよ、人よりちょっと軟弱なだけのくせに全て知ったような顔しくさって。そういえば終盤と言わず序盤から自分のことを「道化」と称して悲劇的に、それこそトラに酔いしれたりしていたな。道化って…。表現がいちいち誇大妄想でゾッとする。


しかし、中学生のハートを鷲掴みすることに関しては確かに天下一品である。私だって今でこそ冷笑的(笑)に批判しているが、今は昔かまびすし中学校の教室の隅でこの『人間失格』に1人いみじく感じ入っちゃったりしていたことは抹消しようのない事実。それに、女にモテるのもまあわかる。少女期の煩悶が脳の漏斗に多めに残留している女というのは大人になってもこういう男に吸い寄せられてしまうものだし、そしてそういう人は結構多い。彼だけが私のことをわかってくれて、私だけが彼のことをわかってあげられる…だとか思わせることに抜きん出ている。実際にはお互い何も理解してないというのは言うまでもないが、そういうモードに誘い込むのがとりわけ上手いということだ。太宰治って相当なミソジニストかつ地雷男だと思うのだが、態度の上では女性にもかなり優しそうだし。


何より、自分も結局嫌いではない。『人間失格』はじめとする長編はもう痛々しくて勧められても読みたくないが、やはり中学時代にはお世話になったし、短篇なんかは今読んでも流石並外れて面白い。文章がくどいので短篇くらいが丁度よいのだろう、『ろまん燈籠』、『右大臣実朝』、『駈込み訴え』あたりは珠玉と思う。ちょっとドープな太宰治ファンがこぞって好き好き言いがちな『女生徒』とかも、結局面白い。私は小説の形式として女性の独白体が特別好きなのだが、元を辿ればそれは太宰治の影響に依っている。


そういう訳で、今でも脳裏にこびりついた太宰治の句って悔しいけれどいくつかあって…ただ基本的にどこまでも情緒の人、センスの人だと思うのでやはり言葉選びの妙で印象に残ってくることが多く、逆に言えば深みある理知的な思索を感じさせられた覚えは私はほぼないのだが、そんな中で唯一と言っていいくらい、これはという思想をまざまざ見せつけられたことがある。

 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。
 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向って投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬です。思想でも何でも、ありゃしないんです。
(中略)
 人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
 なぜ、同じだと言うのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。
(出典:『斜陽』デジタル小説 - 太宰ミュージアム


『斜陽』後半の直治の一節であり、「人間はみな同じものだ」という発想は高貴なものでも平和主義的なものでもなんでもなく、ただの奴隷根性だとする説。極めて太宰治らしいチンケな閃きだが、成程と納得させられる訴求力があってよく覚えている。いわゆるコスモポリタニズムとか言うと何かこう地球の上でみんな微笑み浮かべて手を取り合ってるとか、階段から降りてきた白髪の賢人がこちらに手を差し伸べてるとかの、眩しめな宇宙船地球号感を帯びるが、それは便宜を図った後付けの印象操作であって、始まりはきっと嫉妬に塗れた貶言だったに違いないと。


「確かに確かに確かにー!」 …と、いいねを心で連打してしまう電撃的な感動を子どもながらに覚えたものだ。表現はいくらか大風呂敷だが、言説自体には今も相変わらず「一理ある、いや百理あるかも」と説得させられている。種としての、動物としての人間の偏平さを考える時、ある人は知ったかぶって追いかけっこを放棄する。そうして斜に構えた時の人間の顔や言葉というのは醜くて…見るに耐えがたい。しかし鏡を見たら同じ顔がそこで待っている。
いや確かにね。立派な他人を人智を越えた巨大な集合に呑み込ませる時の束の間の全能感というのが皮肉にもまさに立派な他人に捏ねられ捏ねられ、思想の体裁をとるまでに至ったというストーリー。真偽は如何としても、この筋書きは目から鱗でなかなかすごい。


しかしまあ、敢えて言うことでもないがどうしても言いたいこととして——いや、むしろ他の文全部削ってもこれだけは言わせてもらいたいこととして、太宰治の文って何を言われても「お前が言うな」というムカつきを覚えてしまう。差し迫った問題などひとつもないくせに弱者気取りで。こういうこと言うと怒られるかもしれないが、やっぱり惨めさとか弱者意識の不正受給をしている…今風に言うとフリーライドしていると思う。人が喉から手を出して欲しがるものをいくつも手中に収めておきながら、それでも奴隷と宣って。


上の一節だってさしずめ自分は酒場の醜男側ですみたいに呻いてるけど、どう考えても直治もとい太宰治って羨ましがられる美男子貴族側の人間。それなのに私は専ら弱者側ですなんて言って、全てを掠め取っていく。これはほぼ強盗とみなしていいほどの不正行為だ。寄り添う振りして醜男に与えられた元々の領土まで奪い取り、それによって本当の醜男はどこにも存在を許されなくなる。喪女を自称するキラキラ女子と何も変わらない。この卑怯さの自覚も当然あったのだろうけど…。


共感もできるし、文学ってそういうものだとも思うし、大文豪なのにこんなにつけ入る隙があるというのも才能の成せる技だし、更にそうした赤裸々な作風が本人をより一層苦しめたというのは凡の者たる自分にもちょっと想像はつくのだが、西村賢太太宰治を蛇蝎の如く嫌っているのもよくわかる。どうしてもこう、小賢しくてウザイのだ。人を馬鹿にしてるし。自分なんかは生い立ちとしてはどちらかと言うと太宰治側の人間なので、ウザイけどわかるしそれが癖になるみたいなとこあるのだが、西村賢太のような、何一つ絵空事じゃない物理的な辛苦を散々舐めてきたであろう人達からしてみればそれはもうウザくてウザくて仕方ない筈。


冒頭のゲームは太宰ファンの間では「トラコメ遊び」なんて呼ばれているらしい。もし飲み会で突如こんなゲームが開幕したら、私も殺意が芽生えると同時に、死にたい気分になるだろうな。何もかもを許せず。



しばらく前に下書きに溜めて投稿し損ねてたので供養。