取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

紫陽花、涙のボテロ展

 最後の更新から随分と日が空いてしまった。更新が無いことに対して周囲の誰からも催促も惜しむ言葉も貰っていないが、このブログの更新が無くなることで地球上の恐らく5名程度の方々がどこか物足りない気持ちになるってことが数日前からテレパシーでビシバシ伝わって来たので、ここらでとりあえず1つ記事を置いておくことにする。ブログを止めるとかそういう予定は全く無い。


 未来の私によって爆発的に成し遂げられてほしい物事が多い日々だ。やりたいことが不履行のままいくつも滞っており、頭の中の林修に責め立てられている。なんだろうな。構えすぎ……まあ、実生活上での知り合いの方々にはもう少しで一度、書き途中の小説読んでもらえないかお願いすることになると思われる。


 まだ6月というのに瞬く間に紫陽花が枯れ、とんでもない酷暑が到来しているが、枯れる前の満開の時期にちょっと紫陽花の写真を撮った。紫陽花が咲くところだけが梅雨の長所であるとは誰もが認めるところだろう、青くてずんぐりしていてかわいい。


 ついブログを放置してしまった6月だったが、実生活では比較的トピックの多い月であった。家族に少々動きがあったり、動物園やら美術展やらに出かけたり、サラリーマン仕事の方で珍しく良いことが重なったり、友人の結婚式に伴う関西旅行の宿を取ったり、映画を観たり本を読んだりゲームをしたりククルス・ドアンきっかけに初代ガンダムを見始めたり……要するに普通に生きてるだけなのだが。


 先日は有休を取って美術展に行ってきた。開催前からずっと楽しみにしていた国立近代美術館のゲルハルト・リヒター展、せっかくならば大混雑必至の土日祝ではなく平日にゆっくり鑑賞したく、有休まで取って備えていた。
 朝から東京メトロという最悪の乗り物にまで乗車してはるばる九段下まで辿り着き、ゆでだこになりそうな炎天下の東京をGoogle Mapを確認しながら一人で歩く。今思えばいくら平日と言えど道が空きすぎていることに違和感は覚えていた筈だったが、暑さで頭がやられていて、早く館内に入って涼みたい欲望が明晰な推測を妨げていた。
 ここまで書いたらわかると思うが、休館日だったのだ。到着して看板の赤文字を見て初めて気づいた。サーッと血の気が引く絶望の瞬間だ。有休まで取って遠出して酷暑の道を気息奄々で歩くくらいの意気込みがあって、どうして事前確認ひとつを怠ったのかわからない。そもそも月曜日なんて、考えてみりゃ美術館のよくある週休なのに。
 通行禁止となっている入り口前には同じく休館日を知らないでやって来たと見られる男性客1人×2がぽつんと立ち尽くしており、自分も全く同じ轍を踏んでいるくせに同族だと思われるのが恥ずかしく、足早にその場を去って北の丸公園の中に戻った。
 こういうのも旅の醍醐味だと微笑むことができるほど出来た人間ではない。精神的に号泣である。落胆と腹立たしさと単純な猛暑でへろへろになりながら汗だくで踵を返し歩いた。こんな馬鹿みたいな目に遭ったのだからこの片道で5kgくらい痩せていないと気が済まないが500gも痩せていないし。九段下に上陸した価値を少しでも残そうと帰りに靖国参拝でもしようと思ったが、暑さでそんな元気も失せ、また東京メトロという最悪な乗り物に乗り込むために駅に戻らなければならない。憤懣やる方ないとはこのことである。人と一緒に間違えるならまだ笑い話や思い出になるが、一人で間違えるのは単純な損失であり何の益も生み出さない。


 ともあれ間違えたものは取り返せず、既に有休は始まっているので、何とか外出の意義を捻出するために新たな目的地を考えていたら、そういえば以前から少し気になっていた渋谷bunkamuraのボテロ展の閉幕が迫っていることを思い出した。

www.bunkamura.co.jp


 善は急げで出発。
 渋谷はこれまた最悪な街だが、bunkamuraがあるので時々行く。とはいえ私が行くのは映画館と美術展くらいなものだが、このボテロ展はその2つ、映画と展覧会の同時開催をやっていた。ボテロのドキュメンタリー映画と作品展である。
 こうなったらどちらも鑑賞するのが筋だ。ボテロは世界有数の知名度を誇る存命のコロンビア人具象画家*1だが、日本ではあまり馴染みが無く、私も「豊満な女性を描く画家」程度の認識だった。映画と作品展を見た上でもやはり自分の好みという作風では無いが、地に足のついたユーモラスな作家であり、その偉大さは十分理解できたと思う。


 まだ作風を確立しきれていなかった時代のある日、マンドリンをスケッチしていたボテロは、楽器中央にある比較的大きな穴(サウンドホール)を描く時にあえて小さく描いてみた。するとその時、突然マンドリンが爆発したように思え、自分にとって何か重要なことが起こったと確信した──というエピソードは面白い。
 ボテロの作風は人でも動物でも静物でもなんでもかんでも「ふくよかにする」というのが一貫しているが、なぜ自身がふくよかさに惹きつけられ、その形ばかり描きたくなるのか、という点については、ただひたすら描きながら後から理由を考えたという。その探求が芸術活動なのだと。それはそうだろうな。優れた芸術家にとっての創作は、自分とは何かを知ろうとし、貪欲に立ち向かう行為そのものだ。
 ボテロが映画の中で、自身がふくよかさ(ボリューム感)に執着する根源的な理由を「父性への焦がれ」だと結論付けていたのは意外だった。多くの人がふくよかさを父性よりも母性に結び付けるところを、逆に捉えている。しかし、言われてみれば太っている人というのは世間的にも女性よりむしろ男性の方に多い。肉感の強調は性的魅力として女性と結び付けられがちだが、確かに太った形そのものは女性特有のものなんかでは全く無い。実際、ボテロの絵は女性に限らず男性も花も洋梨も巨大な画面いっぱいに巨大に太っている。有名な青い花の絵はちょうど上の紫陽花の写真にそっくりだ。花瓶に生けられた花は紫陽花じゃないのに、紫陽花みたいにずんぶり太っているのである。太り方は写実的というよりは戯画的で、太っているから悲惨な絵でも悲惨に見え過ぎることが無い。「ふくよかな形は官能的で好きだ、しかし現実はドライだから、絵は誇張して描く」という説明は、わかったようなわからないような。
 作家自身のふくよかさと父性の結合は、作家が幼少期に父親を亡くしている事実によって形成されていることは客観的に見ても間違いないだろうが、失われた肉親のぼんやりとしたイメージが像を肥大させるのだろうか。一般に太っていることは醜さと表裏一体であり、ボテロの絵も私から見るとたびたび直観的に「醜いな」と感じたが、目を背けたくなる醜悪な醜さというよりは、単純に形としての醜さだ。現実の太った人間から感じる醜さのほとんどは、その人間のだらしない生活の臭気を想像させる情報過多性に起因していることがわかる。しかし絵画においての太った表現は純粋な画風・技法であるのでそれが無い。その代わり形としての醜さ──臭気が取り払われたそれはかなり「間抜け」寄りの醜さになっている──だけが浮かび上がり、ついでに面白さや可愛らしさの価値まで加わってくる。物体の肉の盛り上がり。なぜそれを醜いとか可愛いとか面白いとか感じるのか、作品の前に立っていると自分も何もわからなくなってくる。紫陽花だってずんぐりして見えるが、その実は小さな花が密集して丸い全体性を帯びているだけで、別に花びらが大きいとか膨らんでいるとかそんな固有の特質はない。しかし紫陽花を見る我々はそれを太った花だと認識して可愛いだとか感じる訳だ。具象画家の提起に取り込まれて崩壊していくような感覚。


 やはり絵画というものは面白い。ボテロだと巨匠のオマージュ作品と彫刻が愛嬌たっぷりで特に良かったな。ボテロの敬愛する画家として引用されていたピエロ=デラ=フランチェスカの絵ももっと見てみたく思った。
 それにしても、ボテロの子ども達は父親のことが心から誇りなのだろうな。ドキュメンタリー映像の中で父を語る雄弁な子ども達(と言っても皆50-60くらいの年齢だろうが)の姿が記憶に残った。特に娘さんは父への愛と尊敬が終始爆発していて、正直ちょっと鬱陶しかった。豊満な人生という副題もそうだが、ボテロは根本的に人生を肯定する方の芸術家でありそれが素晴らしいところなのだが、だからこそ自分の趣味とはそこまでマッチしなかった節もある。
 数年前クリムト展に行った時、クリムトに対しては100倍くらい尚更同じようなことを感じた。黄金を多用するだけあって(?)黄金の人生という人生観が作品の根底にあり、作品展の途中から「こいついい加減にしろ」という感想も芽生えてきたのである。子どもを17人も作ったがほぼ認知しなかった、みたいなことがさらっと書かれたパネルにまず「え!?」と思ったのに、その後そのうちの息子が1人幼くして死んだだめに「クリムトが深い悲しみの中で描いた亡き息子の絵」みたいなのが出てきた時は、作品そのものの感想よりも「でもお前認知してないじゃん」という感想がまず先に浮かんだ。そういうところがクリムトの魅力であり愛嬌だとは容易く理解できるが、どこか悔しい気持ちが湧いてくるのも事実だ。……まあこれは余談である。


 ボテロ展のおかげで何とか有給休暇を不意にせず充実させることが出来た。涙を呑んで諦めざるを得なかったリヒター展含め、近いうちに鑑賞してできるだけ感想も残しておきたいものがいろいろあり、発破掛けのためにメモしておく。


 あと良い本読んだらまた感想も…。今年はボエティウスの『哲学のなぐさめ』が京大出版から出るらしい! 今のところ今年一番楽しみな本だ。

*1:映画内では「世界一有名な存命の画家」と謳われており、それは流石に過言だ。名前の有名さで言うならばそれこそリヒターの方が知られているだろう。