取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

某へのぼやき

 このところ更新が減っていたのは、多忙だったと言うよりは単純に書くことがなかったせいだ。他人様の創作レビューばかりやるのも微妙だし、日記のようなものを書こうとしてもどうも手癖で冗長になりすぎるので気が乗らないしで、改めて考えると私のような何の専門家でもない人間が敢えてブログに書かねばならないことなど何も無い。連日のニュースやトピックに思うところがない訳ではないのだが、事件が極めて深刻であったり、もしくは既に語られ尽くされ手垢塗れの話題だったりすると、それについて自分がわざわざ何か書くのは軽率な便乗でしかないように思える。


 事実、某刺殺未遂事件後僅か3日間であらゆる視点からの意見が活発すぎるほど活発に提出されているが、中には事件とあまり関係の無い、普段の自分の主張を裏付けたいだけの発言が散見される。初報の供述が象徴的だからと言って、まだ捜査段階にある深刻な傷害事件をあまりセンセーショナルに騒ぎ立てて欲しくない。様々な背景を想像させる要素が揃った事件であるのは間違いないが、覚えたばかりの用語を何の留意もなしに濫用すべきではないし、事件への憤りが暴走して、女性への加虐心を煽る以外の効果を生まないであろう反射的なハッシュタグ運動を始めたりする一部の女性達には腹が立ったし、一方で、普段過激かつ幼稚なアンフェを展開し、いわゆる「弱者男性」*1達の女性憎悪を増長させるばかりか彼らから更に金まで搾り取っている教祖的なネット論客が、当該事件に対して「遂にここまで来てしまったか」などと無責任極まりない傍観者的感慨に浸っているのを見た時には煮えくり返る思いがした。自分一人で責任の取れない、取返しのつかないことを無闇やたらとするべきではない。自分の影響力の少なからぬことを予見しながら、ただそれを喜ぶだけで、自分の行動に他人を巻き込むことの罪悪をまるでわかっていない活動家、文筆家にはうんざりする。御託を述べるのも大概にした方がいい。


 なのでこの微小なブログと言えどもあまり余計なことは蒸し返したくないのだが、それでもやはり雑感を少し整理して残しておきたくなった。一連の報道や反応を見ていて改めて強く思い知らされたのが、他人の腹の底などわかりはしないという単純な事実を、我々はいとも容易く忘却すること、そしてその傾向はここ数年でますます滑り坂的に加速しているということである。


 「誰でもよかった」というのは無差別殺人犯の常套句だが、既に多くの人に指摘されておりまたこれも目新しさのない事象として、誰でもいいと言うわりには某事件は明らかに女子どもや障がい者のような殺しやすい身体的弱者を狙った傷害事件に数えられる。「幸せそうな女を殺したかった」という前文を加味すると、容疑者の文意はつまり「幸せそうな女を殺せるなら誰でもよかった」という言わば選択的無差別犯行だったことになるだろう。容疑者の思考の一端にミソジニー的な蠢きがあったことはここから十分に察せられるが、「幸せそう」とか「誰でもいい」とかいう言葉選びには極めて漠然とした不穏が漂っており、個人的な経験から端を発した憎悪の矛先が「女」そして「世間」という、より広い対象へ一般化されていった意識の流れを想像させる(実際どうなのかは当然わからない)。既に張り詰めていた女性への憎悪が、自分を注意してきた女性店員の存在によってトリガーを引かれ、そして更に別の見知らぬ「幸せそうな」女性および居合わせた複数の女性男性達への非道な犯行として発露したという二転三転の置換の流れは、もはや分別がつかなくなるほど肥大化した憎悪を象徴しているかもしれない。


 当該事件の容疑者の動機詳細は知るべくもなく、これ以上の軽率な推測は控えるが、一般的なことを述べると、今のインターネットにはこうした憎悪の肥大化を助長してしまう仕組みが整いすぎている。感情や経験が自己申告でしか表出されない世界が普及したことは、人間の活動の情報化をもたらしている。表に出す内容を取捨選択できるワンクッションがある以上、都合の悪いことや知られたくないこと、書くのも厭わしいことをわざわざSNSに書き込む人は少ない。スーパーで万引きしたとか、駅のホームで吐いてしまったとか、そういうことは積極的に語られない。皆できるだけ自分を綺麗に、魅力的に、あるいは共感されるように書こうとするのが当然だ。そうした心理が映えやマウンティングにダイレクトに繋がっている。
 そして情報を受け取る側ももちろん発された情報しか受け取れない。例えば女というだけで無限にちやほやされる女性と無限にちやほやする有象無象のような構図も、探し始めればやはり無限に現れてくる。実生活においては時間的制約から1日にそう何度も遭遇しない出来事を、ネットでは暴流のように浴びることが出来てしまう。こうした複数の現実を前に、人は何か大きな真実を理解したような気分になって、時に打ちひしがれる。持てる者と持たざる者の比較がぎゅんと身に迫って浮き彫りにされ、「持っていない自分」を強烈に意識させられる。その実は選択的に発信され、更にその中で自分が選択的に受信した、つまり上澄みの上澄みを見ただけに過ぎないのに、発信された情報の裏に隠された比較にならないほど厖大な情報、もとい感情や体験が視界に入らなくなり、妬み嫉みが自分の中で化膿して、都合の良い憎悪対象の安きに流れる。しかし幸せそうに見える人が幸せとは限らないし、全て張りぼてであることもある(ただ、男女問わず実際に生まれつきの属性によって人生イージーモードな人というのがまれに存在するのも一面の事実だろう)。呑気に見える人が抱えている孤独を他人は分かち合えないし、性根のひん曲がった最悪の人間が美しい絵を描くこともある。本当のことなど他人からは何もわからないのだ。だが一度そうした環境や状況に転落してしまった人がこのような事実や正論を直視するには大変な気力体力が必要で、自分一人で這い上がるのは難しい。
 また、SNSの仲間内で培った象牙の塔のような偏見や連帯をみるみる内在化させ、そのフィルターを通して社会をわかったような全能的錯覚に陥るものの、しかしSNSで幅を利かせる言説やライフハックは実生活においてはさして効力を持たない場合が多く、そのギャップに苦しんでしまう。結果、意識はインターネットに永住したまま、実社会での苦痛は永久に解決しないままとなり、分裂症状を来すことになりかねない。


 ただこうしたSNSの性質は弱者だけの膿を開く訳じゃない。ネットで過激なミソジニーを開示しているのは収入が低く容姿に恵まれず女性経験豊かではない等々の要素をこじらせた所謂「弱者男性」の一部というイメージがあるが、私の直観としてはその逆の強者男性にも極めて女性蔑視的な価値観を内面化させている人がウヨウヨといるのではなかろうか。彼らは物質的に満たされており、ヘマもしないので、それこそSNSで倦んだミソジニーを思い切り発露するような不用意な行動に出ることはまず無い。しかし外部からは見えないホモソーシャル的なオフラインの場所で狡猾に暴利を貪り、遊び感覚で実体的な被害を負わし、面の皮厚く暮らしている。有名実業家が20歳の女性にテキーラを一気飲みさせて死に至らしめた事件は記憶に新しいが、富の上層部では類似の出来事が日常茶飯事で起こっているのかもしれないと思うと、それらが秘匿されやすい現況には問題がある。


 憎悪や蔑視に端を発する思想だろうと、1つの思想であることに変わりはない。例え因数分解すれば全て防衛機制で説明がついてしまうような脆弱な思想でさえも、思想は思想として存在を許されるし、そこに1つの真実が隠されていることもあるだろう。とはいえ留意すべきなのは、憎むことは快楽であり、快楽は金儲けになるということだ。憎悪の甘い蜜を吸うために金銭まで支払ってしまう人もいる。しかし不特定の人間の憎悪で結びついた思想は、実害が出た時に誰も責任を取れない。仮に凶悪犯罪者がインターネットで隆盛する過激思想に影響されて殺人に及んだとして、本人以外のその思想の提唱者・推進者にどこまで責任を問うべきかは難しい。しかし明らかに片棒を担いでいる以上、その者達に責任を問いたい市民感情は発生する。


 女性や男性のような特定の属性への憎悪を甘受し肯定する言説は薬物のような一時の慰めにはなるだろうが、持続的な幸福には繋がらない。本人も混乱し、理不尽に対象の属性の人間を傷害したいと燻り始める。とはいえ例えばある男性が女性一般を酷く欲望し酷く恨んでそういう状態にまで陥ったとして、そういう男性を女性が救済する義理も無い。まただからと言って、そういう男性を排除すべきかと言えばそれもまた極端だ。
 ただぼんやりと思うのは、SNS以外のリアルな場所で、肯定も否定もしない相手に安心して自分の憎悪を語ったり、また他人のそれを聞いたりする経験が必要とされている。誰しも楽に生きている訳ではなく、自分もその一人に過ぎないのと認識すること。少なくとももし身内がそのような状態に陥ったら話を聞いて更正に促すべきで、またもし自分が今後そうなれば、怖くても誰かに話してみるという選択をした方がいい。近年はそのような目的を掲げた自助グループとか、加害者側のフリーダイヤル(犯罪お悩みなんでも相談)も作られているようだが、そもそも自分への問題意識が一定程度ある人でないとそういう場所には赴かず、拾いきれない層は絶対に存在するし、世の中が変わるというのは全く地道で難しい。


 個人的な願望としては、インターネットで憎悪思想に傾倒している人達の質的調査とかどんどんやってほしいなと思っている。ジェンダーギャップ指数とか未婚率とかパートナーに求める年収の男女比較とかそんな数字で測れる調査じゃなくて、もっと潜在連合テストみたいな人間の潜在意識を掬い取る調査をインターネットの人間に対して実施してほしい。そうすれば因子や相関を特定できて介入できるかもしれないし、印象だけで進めている議論や策を再構築できるし、大衆側としても他人というのは自分が思うより複雑だったり気持ち悪かったり優しかったりというような発見を多少なりはできるかもしれないじゃないですか。
 ただ先日知人が話していたことだが、それでも結果とその共有のされ方次第ではやはり偏見を助長したり差別構造を温存したりしてしまう危険性はあるので、全てをクリアするというのは難しい。あまり自然主義になりすぎるのも考えものだし。調査結果が出たからと言って他人はあくまで他人であって、心の内は不可侵だし、もちろん体の方も本人の同意がない限りは不可侵が保たれなければならない。


 他人の痛みを理解することなど不可能であり、事実自分は誰ひとりのことも理解できていないという感覚、しかし一方で誰かについて理解したいとか、理解できるような気がするとか、そうした未知の引力に動かされる自分も同時に存在しているという感覚。そういう相反する直観の間で揺れ動かされるという自分達の性質を前提として認識しておくことが個々人に求められている。
 SNSに生きてしまうとこうした認識が培われるような体験を自然に通ることが難しくなり、上質な創作を読むとか、自分の言葉で誰かに自分の話をするとかの自発的なアクションをしなければいけないというハードルの上昇はあると思う。結局は自分の胸に手を当てて反省、ってやつをやらなきゃいけないのだが、そういうことって全然楽しくはないしな。楽しくないからやらなきゃいけないのだが。ただ、事情も知らない他人の苦しみを全て自己責任で突き放す社会も望ましくないので、自分のように元気のある人間だけでもちゃんとしときたいということだな。

*1:私は未だにこの言葉にしっくり来ないのだが、便宜的に使用する。