取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

聖バレンタイン

 結論から述べるとバレンタインの日に特別なことは何一つとして起こっておらず、至って平生通りの1日――こんな普通の日過去にあった? と自らの記憶に問いかけてしまうくらいには変哲の無い1日だった。ただしかし、私はこう見えて楽観人間の節があり、バレンタインやらクリスマスやら正月やらが近づくと、自分自身には何の予定も無くとも、浮足立つ街並みと連動して自身の心も自動的に浮足立ってしまうクチなのである。


 催事自体は好きじゃなく、積極的に参加したいとは豪も思わない。それでも、色づく世間をただ眺める分には悪くない。いつもは地味で閑静な駅前が市民の血税と企業努力によって突如艶やかに彩られる様は清々しくて気持ち良いし、そこまで派手なことをしなくても、木々にちょっと電飾が巻かれたりキャラクター看板が置かれたりするだけでも場の見栄えが変わり、心のひもじさから寸分の距離を置いて視覚的な楽しさを得ることが出来る。
 クリスマスには帰りにスパークリングワインとケーキを買い、バレンタインにはちょっと良いチョコレートを物色してモソモソ食べる。昨年のバレンタインは今思えば多少人恋しかったのかなんなのか、以前から通勤時に目に入っていたリンツの店舗にふらふら入り、6粒入りくらいのチョコレートセットを2箱買って、1箱を関西の友人に郵送した。我ながら洒落たことをした! と郵便局からの帰り道にほくほく一人で悦に浸ったりしたものだが、一週間後、当該の友人から「なんか荷物送ってくれたみたいだけど、ポスト見てなくて受け取れなかった。何だった?」と連絡が入り、送ったチョコレートが受取人不在と保管期限切れで関西から舞い戻り私の郵便受けに突き返されていた。慣れないことをしても格好がつかないだけだな、と苦笑しつつも、その後改めて説明の上で再送し、私の方も友人からお返しのチョコを貰った。こうした後日談含めて良い思い出である。――今年も同じことしようかなと頭に過ったが、あぐねているうちにいつのまにやら当日になり後の祭りだ。


 女に生まれた以上、「もし自分が男に生まれていたら」を時々夢想する。この「もしも夢物語」のうち、最も安易な引き出しの一つとして空想されるのがバレンタインだろう。
 バレンタインに勇気を振り絞って意中の人に想いを明かす女性など、今時どころか10年前の私の高校時代にすら都市伝説となり果てており、バレンタインチョコなんてものは女子同士のコミュニケーションや既に出来上がった恋人達の戯れに利用されているだけ、というのが公然の事実だったが、そうした現実社会を十分理解してもなお、その文化の起源や象徴するものの甘酸っぱい味わいは失われていなかった。今も失われていないだろう。高校のバレンタイン当日は、心なしか教室の男子達が皆コミカルに、そわそわしているように邪推されてならなかった。クラスの女子全員に手作りチョコレートを配って回る学級委員の女の子と、その奥で平静を装い無言で席に座っている彼らを遠目からぼんやり交互に眺めながら、「もしも自分が男だったら女子にチョコレートを貰える男たりえるかな」という多角的検討を私は膨らませた。いや、当時に限らず何歳になっても、バレンタインが近づくと同じ検討が毎年一瞬は脳裏を掠める。果たして私は男に生まれていたら女子からチョコレートを貰えるのか。そして毎回結論として、「貰えるかどうかはともかく、男に生まれたなら絶対に女子からチョコを貰いたい」と、何度でも気持ちを新たにする訳なのである。
 バレンタインに意中の女性からアプローチをかけられるなどという夢物語シチュエーションは流石に現実味が薄いので、現在は想像上でも心に響かないが、例えば仕事上の付き合いがあるだけの女性からビジネスライクなチョコレートを貰い、
「すみません、気を遣って頂いて。ありがとうございます」
 と遠慮がちに、しかし二枚目な声で言いながら軽く頭を下げる、なんてことを男に生まれてやってみたいのだ。そういう願望は相変わらずある。馬鹿げているが馬鹿げた空想くらい誰だってする。男性の生を想像する時に「お楽しみ」として浮かばれるのは、結局女性関係だ。


 さて話を2022年現在の女性の自分に立ち戻らせると、今年は最終的に自分にも他人にも誰にもチョコレート1つも買わず、頂き物さえ当日ではなくなぜかその前後の日に受け取ったため、先に述べた通りバレンタイン当日は何一つ日常と変わらぬところが無かった。敢えて言えばバレンタイン終了の夜に数ヶ月に一度の悪夢に魘されたくらいだ。チョコレートはそもそも好物なので、機に乗じて1個くらい自分用にも買えば良かったと後から思うが。
 クリスマスやらバレンタインやらハロウィンやらというのは元祖が舶来のものなので日本においては祝日でも何でもないのに、因習ってのは不思議なものだ、今や国民の祝日以上に固有の意味を膾炙され、代えがたい魔力を以て日本国民に意識されている。祝日でないからこそ過ごし方の差異が微細に観察されやすく、個人のグラデーションを浮き彫りにするからだろう。催事の人々の姿とは画一的でミーハーなようでいて、実際は夥しい点なのだ。


 サッカーワールドカップが始まると、普段スポーツ趣味などほんの片鱗も見せなかった人々が突如挙って前日のサウジアラビア戦の話をし始め、恐怖することがある。まるで口裏でも合わせたかのようだ。『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』で街の大人達が急に三輪車で遊び始めるシーンや、『モモ』の円形劇場の人達がいきなり別人のように振舞い出し灰色の男に時間を奪われていくシーンを思い出す。同じだ。そしてこれはファシズムだ。皆がそれに興味を持っていることが突然明らかになるのだから。
「皆サッカーに興味があったのか? そんなこと今日まで誰も一言も言わなかったではないか」
 狼狽えずにはいられない。他人のプライベートの前に吊るされていた幕がいきなり剥がされ、しかも大勢の他者のプライペートの同質性が即座に見て取れてしまう。その時、自分という個と自分以外の他者との隔絶はどうしようもなく露見され、動揺と不安が強制的に煽られる。
 同時性や享楽性が強いイベント・コンテンツはなべてファシズム的で、そういう意味で言えば私の中ではアニメもファシズム、オリンピックもファシズム、ステイホームもファシズム、流行り物は全部ファシズム、そして言うまでもなくバレンタインもファシズムだ。周囲の私生活に対し、通常以上に激しく興味を持つよう誘導させる完璧な外在侵略的仕掛けを有している。


 とはいえ、ファシズムだろうが何だろうが、大きなイベントや流行には乗っかった方が一般的に楽しいのは間違いない。ましてや、ライドするにしても常に疑問を持ちながらライドすべき、などと道学者みたいなことが言いたい訳でもない。第一、私自身クリスマスやバレンタインの類のファシズム、つまり自分の志向と合致するファシズムには心躍るタチで、恐らくは大半の人間もそうだろう。この程度の酔狂にいちいちファシズムだの何だの指摘して回る人間こそ厄介みがあるというもので、私も友人未満の関係の人々との会話で自分のこのような考えを開陳する気にはならない。それこそファシスト的だからだ。
 昨夜は1日遅れでチョコケーキを買った。物事には良識の範囲内という便利な言葉があり、ファシズムにさえ良識の範囲というものがある。結構なことだ。商魂もたくましい。来年はもう少し緩急のある1日にする。



www.youtube.com