取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

SNS批評への雑感①ファシズムはダメ!

国連UNHCR協会 少し寄付

やらなきゃいけないことがあるのに自堕落な日々が続いている。
明日から本気出す。


 1つ前の記事で「アニメファシズム」についてほんの少しだけ言及したが、そもそも近頃よく、単純批評のコミュニケーションについて考えている。言うなればそれはサブカル仕草の一種なのだろうが、ファンダムともオタク文化ともまた違い、コミュニケーションのためのシグナリングとして作品批評をする人が近年目に見えて急増している。


 批評がコミュニケーションの潤滑油としての側面を持つことは誰も否定しない。私もつい先日、職場の後輩が怒りを滲ませながら「『偶然と想像』ゴミでした」と打ち明けてきたので「『フレンチ・ディスパッチ』もゴミ寄りだったよ」というゴミ映画話でひとしきり会話が弾んだ。作品の感想を自分で言語化できたら楽しいし、それを他人と共有することで親睦が深まったり新たな発見に繋がったりすることがある。会話のネタとして場を持たせてくれる効用もあれば、人となりを推し量る目安として、共同体結成のきっかけにもなってくれる。現代の批評世界は時に「一億総評論家時代」などとも言われるが、一般大衆レベルの批評というのはSNSが登場する遥か以前から日常会話の端々に存在した筈で、ただかつてはそれが公に顕在化することはなく、ましてや作家や愛好家のクラスターにまで届くなんてことはあり得なかったというだけだ。
 とはいえ、「一億総評論家時代」という語の本質は、字義通り「全人口が作品批評をするようになった」ということではなくて、「評論家気取りの人間が爆発的に増加した」という厭世的な意味にあるだろう。土台「一億総~時代」などという十把一絡げの表現を人が使いたがる時は、大抵が嘲弄の意図である。しかし、現代においてSNSで盛んに作品批評をしている人がみな評論家気取りかというと、それもまた違和感のある形容だ。


 現在の大衆批評の問題としてよく指摘されるのは、人々がSNS上での批評コミュニケーションを前提とした作品鑑賞に陥ってしまっている、という点だろう。「あの人がこの作品を○○だと言っていた」という先入観や、「これについてこういう風に言ったらウケるかな」というSNS大喜利を前提にした作品鑑賞が常態化し、純粋な自分の感想が埋没する。結果、ネット上でのレビューが礼賛か罵倒に二極化して、人々の感受性がアルファアカウントの薄い批評に掠め取られていく。
 これは一個人としてはすこぶる不愉快な風潮であるが、このことについては既にあらゆる人から指摘し尽くされているところだし、そもそも世間というのはそういうものだと納得する部分もあるので、私はさほど問題視していない。自分が抱えた疑問や感覚を的確にもしくは面白おかしく代弁してくれている人を見つけたら、喜ばしく感じて当然だ。それに、SNSは馬鹿がテキトーなことを言っても論陣を張れる世界ではあるが、反面で現実同様、頭の良い人もそれなりにいるので、たとえある作品に対する主流の独占的な批評が浅はかで見当違いの場合でも、常にどこかに反対勢力みたいなものが潜在しており、最低限のバランスは保たれていくように思う。


 それよりも由々しき問題は、ファストな消費に適したメディアしか最初から批評の場に登場できないことだ。これは表現メディアのファシズム問題とも通じている。
 思うにセンセーションを誘引する作品の要素というのはアクセシビリティーと進行性*1の2つに大別できる。わかりやすく言い換えればその作品への入手難易度の低さ(価格や流通、作品が要求する知的レベル)と、現在進行形で追いかけられる断続的な発表形式だ。
 例えば「面白い」と評判の漫画があったとして、それが10年前に完結した全30巻の青年漫画であるか、まだ5話までしか公開されていない無料のWEB漫画であるかは、その漫画を読んでみようとなるハードルに天と地ほどの差がある。完結済の長編漫画がどれだけ面白かろうと、その鑑賞体験と引き換えに自分は単行本30巻分の金額(新刊なら1万5千円)を失う訳で、しかもそれだけ金をつぎ込んで読んだところで、自分の興奮をいま同じだけの熱量で分かち合ってくれる人などそうそういない。余程その漫画への関心があり、趣味を一人で楽しめる軸がある人でなければ、そんな条件は呑めやしないだろう。しかし、もしそれが連載が始まったばかりの無料WEB漫画だと言うならば、何の覚悟も代償も無しに流れるようにURLをクリックし、ものの数分で一通り読めてしまう。それだけでネット上の流行に参入でき、皆と感想やら意見やらをシェアする高揚感まで得られるのだから何ともお手頃極まりない。しかもそれが現在進行形で週一で更新されなどしたら、毎週その漫画をチェックして展開への一喜一憂や人それぞれの考察を共有できるし、「うわー、この最新話、あの人が読んだらなんて言うかな。早く読んでほしい!」といったようなチェックポイントも、回を増すごとにどんどん増えていくだろう。


 アクセスのしやすさ、熱狂を都度共有できる断続性。この2つの要素が、現在のSNS批評世界で作品が取り上げられるための重要なキーになっている。そしてそれで行くと、バズりやすい表現メディアは必然的に絞り込める。中でも最も隆盛しやすい媒体こそが、アニメとWEB漫画だ。これが現代日本SNS批評対象の二大巨頭だと私は考えている。どちらも無料であり、どちらも定期進行だからである。そして事もあろうに、どちらも日本の大得意分野だ。
(3/9追記 自分の中でオワコン化しすぎて忘れていたが、テレビドラマも当てはまる。オワコンと思っていたら意外とまだ見てる人もいるようである。ただテレビドラマ界隈の現況はちょうど漫画やアニメの今度の行く末を映し出しているかもしれない。)

 小説・映画はターゲットが絞られている上、しばしば鑑賞者に平均以上の洞察力や知性を求め、基本的に単発。通常漫画は連載形式が多く文化的にも柔らかいが、長期化しがちで参入ハードルは高まる一方。ゲームも比較的さわりが良く、とりわけ定期的なアップデートを前提とするオンラインRPGなんかはかなり条件に沿っているが、ゲームセンスや費やした時間と金がものを言う側面も強い。絵や音楽は享受することこそ簡単だが、評価・解釈しようとすると高度な素養を必要とする(≒作品価値への接近が試練的)し、作品間の連続性も低く1点単位で独立している。無料と定期進行という2点を完璧に満たすのは、案外アニメとWEB漫画くらいしか無いのだ。『鬼滅の刃』しかり『東京リベンジャーズ』しかり、漫画がアニメ化することで人気に火がつき爆発するケースが枚挙に暇がないことは、アニメがどれほど人々の情動を操作しているかを如実に物語っており、WEB漫画についてはもはや説明不要だろう。
 特に「無料」というのは極めて根の深い部分であるように思う。タダより高いものは無いと言う。サービス業でも、良かれと思って無償でサービスを施すと客の質が一気にどん底まで低下すると言う。無形商品における金銭的対価というのは言わばリテラシーを図る入港許可証であって、それが取り払われた途端、枷も責任も無くなった人々がぶわっと大挙し、下手すりゃ根こそぎ搾り取られる。表現メディアについても同じことで、無料になった瞬間にインプレッションが激増し、熱狂的なれど軽薄な*2批評の餌になるのだ。

 
 しかしここに大きな落とし穴がある。アクセシビリティーと進行性というのは、作品の構造上生じる実利的な魅力であって、作品の純粋な内在的価値とはほとんど関係がないのだ。
 ここで言う進行性というのは「週刊連載」などの発表形式のことを指しているので、これは文字通り形式・つまり発表のために作品に割り当てられた枠の部分である。作品の見せ方には影響するが、週刊連載の漫画を後から単行本で一気読みしたって、作品そのものの芸術的価値に致命的な影響を与えることは考えづらい。価値が形式に依存しているような作品ならば、そもそもその程度の内在的価値しかない作品と言えそうである。


 そしてアクセシビリティー、もっと言うと入手不可能性(availableness)については、金額で考えるのが一番わかりやすいだろう。
 チケット1枚25万円のオペラ公演があるとする。私のような一般庶民には到底手が出せない価格設定であり、私にはこのオペラを聴きに行くことは実質的に不可能だ。しかし、私や他の大多数の人間がそのオペラを聴きに行けないことは、そのオペラに価値がないということを意味しない。ただ私がそれを聴けないだけで、そのオペラは卓越した芸術的価値を有しているかもしれないし、むしろそれだけの値打ちが見込まれているからこそ高額な価格設定をされていると考える方が自然である。
 一方、遠藤周作の『海と毒薬』は新潮文庫版を税込407円で購入することができる。しかしだからといって『海と毒薬』が先のオペラ公演と比べて圧倒的に価値が無いかと言うと、そうとも限らない。それは生のオペラとコピー小説1冊の間には芸術表現としての形式に深い隔たりがあり、価格による単純比較ができないからだ。また、『呪術廻戦』1巻は税込484円であり『海と毒薬』より77円高いが、ゆえに『呪術廻戦』1巻の方が『海と毒薬』より価値が高いかと言えばそうは言えないし、逆も言い切ることはできない。言えるのは「今のところ不明」ということだけだ。そして更に、現在著作権切れにより青空文庫で無料で全文読むことができる夏名漱石『門』が、いくら無料だからと言って『海と毒薬』より格下の作品ということも言えそうにない。なぜ言えないのか。そこに内在的価値がある。
 

 芸術物の価格というのは単に作品についた数字の札でもなければ、作品価値を正確に示したパラメータでもない。作品価値以外に、製作コスト、表現形式、複製可否、ほか諸々の都合などが全て複合的に加味された結果として算出された現時点での市場価格である。よって、ある作品の純粋に内在的な価値だけに着目しようとした時には、本来は極力無視されてしかるべき要素のはずだ*3
 しかし現在のSNS批評では、価格の安さという1つのアクセシビリティーを選別のキーにして批評世界のメインが形成されてしまうため、その段階でまず特定のメディア──単価の高いハイカルチャー──が振るい落とされてしまう。結果、日本のSNS(というかTwitter)の人々はいつもアニメかWEB漫画ばかりに毀誉褒貶を唱えまくっていて、ハイとサブの文化の断絶およびハイカルチャーの疎外が増進されていってしまう。


 価格が高いからと言って文化的に高尚であるなんてのも、全くもって間違っている。『タコピーの原罪』の最新話が毎週twitterのトレンド入りして皆でわいわい大喜利対象にされている中、かたやNFTの世界では、8歳の少女が作ったNFTアートが総額3800万円で取引されている訳だ。一見広いが狭い世界と、一見狭いが広い世界、それぞれの世界が融合する必要は勿論ない。優劣をつけ始めても仕方がない。ただ、作品価値の本質的なところ*4とあまり関係のない要素によって批評世界全体が引き裂かれていくのは虚しいことではなかろうか。
 高いものは目も当てられなくなっていき、安いものは更に安く酷使されていく。アイキャッチばかりが世に並ぶ。今までもずっとそうだったとも言えるだろうし、無闇に厭世的になるべきじゃないが、軽薄な批評がもたらす末路くらいは考えたっていいだろう。

*1:上手く言語化できなかったので、暫定的な言葉を使う。

*2:軽薄というのも味噌だ。

*3:一方、これもあまり言及されない気がするが、個人の日常レベルの鑑賞では作品の価格が露骨に評価に影響する。飲食店のメニューに対し「500円でこの味ならすごい」「3000円したのにさほど美味しくない」と感想を抱くように、値段によって人の許容レベルは明らかに変動し、表現メディアにおいても同じだ。同一メディア内ならばある程度の相場や固定価格が決まっているのであまり大差ないかもしれないが、別メディア間ーー例えば同じアニメーション作品でも、テレビアニメとアニメ映画なら、一般的に映画の方が審美眼が厳しくなる。従ってアニメの感想というのは「手加減された」鑑賞から出る感想となり、ゆえに甘口でテキトーかつ自分本位。だからこそそういった批評が跋扈するアニメファシズムが私は心底嫌いなのだ。

*4:本質という言葉を避けてここまで書いたが、しかしやっぱり本質としか言いようがない