取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

General Positioning System

 一部の若者の間で、仲が良い友達とGPSを共有するのが流行っているらしい。あるジャニーズの人と人気若手俳優GPSを共有しているらしく、そのことでネットの女性ファンが喜んでいた。何から何まで理解不能という、ここ最近の衝撃新事実である。
SNSネイティブ世代って、危機意識が無いとかミーハーとかそういう次元を既にとっくに通り越し、そもそもの自然状態が私達とまるで違うのだなということを痛感する。他人が見えすぎることへの気持ち悪さがまるでない。年齢は10も離れていないし、まれに2つ3つ年上くらいの人までこういうことをやっていたりするから驚くが、彼らの考え付くことは際限が無く、どこまで行くのか見てみたいような傍観者的好奇心が駆り立てられる。


「っていうのが、流行ってるらしいですよ」
「気持ち悪ッ!!」


 少し年上の職場の男性も、このように嫌悪感を隠さない反応を返してきた。


「たぶん、友達が近くにいたら『今から合流して遊ぼう』とか声をかけたりできるから、そのためなんでしょうね」


 自分でこう話しながら思ったのだが、こういう実利的なメリットも勿論大きな理由なのだろうけど、それは建前に過ぎず、彼らは恐らく自分達の関係性が特別であることの裏付けとしてGPS共有をしているのだろう。自分の位置が他人にバレてしまうのだったら変な場所も行けないし、嘘もつけないじゃん、と私達は思うが、そうしたリスクや面倒くささもある程度承知の上で、友達認証を優先する。親密性を高めるための秘密の共有や儀礼って女性に顕著だと思っていたが、遡れば桃園の誓いとかも極論同じこと(覚悟の次元が違うが)だし、男も案外約束好きな人は多いのだろうな。オンラインサロンなんかも男の方が参加者多いみたいだし。
 ただ、付き合い上こういうことを迫られて断れずに仕方なくやらされている人もさぞかし大勢いるのかと思うと、暗澹たる気分に沈む一方、自分の中高生時代にSNSが今ほど発達していなくて本当に良かったと九死に一生を得る思いだ。まあでも、私の時代も体育祭にクラスの女子全員分のお揃いシュシュを作ってきて、競技中に身に着けることを強要してきた女子とかいたし、表出の仕方が変わるだけでいつの時代も厄介な学生的交際儀礼は発生するのかもしれない。


カップルとかでもいるらしいですよ。GPS共有。そうやって人が病んでいく、いや、元々病んでる人がこの仕組みによって炙り出されるのかもしれないですけど」
「あー、でも、友達よりは恋人の方がGPSの本来の用途に沿ってますね。そもそも親が子どもにGPS持たせるのも、監視じゃないですけど、似たような発想だし」
「恋人がGPSで自分の位置確認してると思ったらおちおち外出できないですね」


 世の中の不安な人間達が、自分の恋人のGPSを10分に1回いそいそ確認している姿を想像する。夜ベッドに横たわりながらスマホを開いて、恋人を表す地図上の点が彼/彼女の家でずっと停止して動かずにいるのをじいっと眺める人間を想像する。それは恐ろしく病的なことのように直観的に感じるが、恋人のTwitterFacebookをチェックすることと本質的にどう違うのかと問われれば、なかなか難しい。我々は既に似たようなことを日常的にしてしまっているが、各々の裁量でここまでは普通、こここからは異常、そして自分はまだ異常じゃない…と独断で線引きしているだけに過ぎない。恋人とSNSで繋がること自体ろくなことにならない気がするが、成り行き上繋がってしまうという実情だって理解に容易い。身に覚えもある。


 ところで昨今のSNSカルチャーを見ていてぼんやり感じていたことだが、SNSの楽しさというのは統計の楽しさと合流している。GPS共有の楽しさも最初「理解できないな」と腐していたが、自分ならそれによってどういう時に楽しさが発生するだろうかと考えてみると、例えば友達の位置をふとGPSで確認してみた時、たまたま友達が新幹線に乗っていて、時速300kmのトップギアで友達の点が移動していたりしたら、確かになんか面白いなと空想した。「めちゃめちゃ速いじゃん笑」みたいな。思い返せば数学によく出てくる「動く点P」の問題にも、点が自律的に流動することに対する原始的な面白さを感じたものだし、別に友達のGPSではなくても、見知らぬ他人の点が地図上を四方八方にそれぞれの速度で動き回る画面を頭に浮かべてみると、何だか景気が良く活発なイメージが湧いて心が躍る。


 少し前に流行った他人と通話できるアプリ『斎藤さん』や、以前このブログで少し言及もした、道端ですれ違った人と本を紹介し合える『taknal』も、知った当初は嫌悪感が先行して一笑に伏してしまったし今もその嫌悪感は続いているのだが、改めて考えるとそれらの楽しさも構造としては「統計を取る楽しさ」が大きく内訳を占めているのでは、と思ったりする。他者の存在を実感とデータ両方の仕方で掬い上げる楽しさとでも言ったらいいか。発信することや自己顕示欲を満たすことはともかく、そういう統計を取る第三者としての楽しさというのは(ちょっと悪趣味だけど)静かで健全かつ動物的な好印象を私なんかは抱くけれども、でもそれだけじゃ発展が無いから、やっぱりインタラクティブにしたくなるものなんだろうな。
人々を繋げすぎるのは良くない。子どもが内輪でGPS共有してキャッキャしてるうちは問題ないし、子どもの方が余程ソーシャルメディアの特性を理解して使いこなしていることが多いように思うが、問題は大人で、大人同士のネットの内輪の繋がりが内輪のまま外に向かって暴走している事案が多々ある。ああいう暴走列車は在来線爆弾としてゴジラ的なやつに衝突してほしいなと最近よく思うけれども、ゴジラ的なやつって具体的に何だろうなと考えてあまり良い発想が見つかっていない。とはいえ自分のように苦言を呈しつつ「どこまで行くか見てみたい」なんて思ってるコスい奴がいる限り、止まらないだろう。自分を客観的だと信じこむのも危険信号のうちだな。