取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

徒然なるままに、引越し

 引っ越しするので粛々と準備している。暫く前から住環境を変えたいと思っていたのたが、いざ引っ越すとなると体が強張ってきた。物理的にも感情的にも、単純に引っ越しが面倒くさいのもある。
 感じること、考えることが多すぎるのは面倒くさい。AIに丸投げしたい。最適化エンジンみたいなのがあればいいけど、住まいにまつわる業者はみんな労働者としての自覚がガンギマッているために主張が激しく、最適化のさの字もないのでこちらもボーッとしていられないのが尚のこと面倒。ボーっとしていたら袋の鼠にされてしまう。


 差し当たり転居のために本の仕分け。

①新居に持っていく
積読本(積みすぎて罪になった)
・読了済だがなお手元に置きたい本

②実家に送る
・読了済で一定の愛着がある本
・読了済で実家の母も読みそうな本

③売却または処分
・1回読んで満足した本
・読む価値がなかった本

 ②③の間くらいの感想の本は一部知人に譲渡することにした。
 書籍購入のフットワークは軽くて良いと思っているので無計画な購買癖を改める気はないが、やはり引っ越しの時は結構大変だ。1冊1冊仕分け判断するのは楽しさもあるけど煩わしさのが当然勝つ。未読本が悪夢―Nightmare Before Christmas-のように溜まっていることを痛感させられるのも嫌になる。
 あと漫画はもう完全に電子に移行するべきだという決意も強固になった。一瞬で読めるのにかさばるのは割に合わない、特に長期連載漫画を紙で買い始めるのは利が薄すぎる。うっかり紙で買い始めて引っ込みがつかなくなっている漫画や電子化されていない漫画を除いては、もう紙で買うのを止めることにした。
 物への信仰心や愛着がかなり希薄な方ゆえ物は粗雑に扱ってしまいがちだが、一方で読んだ本を捨てたり売ったりするのだけはあまり趣味じゃないから(ここだけ見るとモラハラ彼氏みたいだが)今まさに苦渋を味わっており、実家を倉庫みたいに使って申し訳ないと思いつつせこせこと実家送り用の箱を作っている。この箱がもうすぐ、空になった実家の私室に置かれるようになる訳だ。その情景を想像することには橙色の安心感が伴う。これは過去と現在の繋がりに対するちょっとした確認、補強でもあるのだ。


 あまり引っ越しに忙殺されたくない。次に書きたい小説のネタをぼちぼち原稿に起こしていこうと思う。今はまだ構想段階で、だからまだ楽しい。なぜなら文を書くのは別に楽しくなく苦痛の方が勝るが、こうして頭の中にあるだけのうちは、イメージを文字という有限卑小の存在に落とし込まずにどれだけでも広大無辺に膨らますことが出来るからだ。頭の中では既に傑作が完成しているが、出力する時それは萎む。頭に描いた素晴らしく壮大で手に汗握るイメージが、自分の手によってぷしゅうと萎んでいくのがありありわかって仕方ない時、くそ、くそ! と思う。
 とはいえ外に出さないことには始まらないので、そろそろ具現化させていかねばならない。構想は程々にとりあえず書き出してみて、全体を見てから遊びを入れたり奥行を出したりバグを取ったりする方が多分効率も良いのだろうと、最近認めざるを得なくなった。先立つ構想としては、家族にまつわる小話集みたいなのをやりたい、のだが、どうなるかわからない。


 小説が一番と言えどまた絵も描きたいし積読本も悪夢―Nightmare Before Christmas-のように溜まっているし、他いろいろ手を出したいこともあって、私生活に限定しても意欲だけは並大抵じゃないくらいに旺盛なのだが。ここのとこみるみる体力が落ちており、夜更かしすると普通にしんどく翌日に響く上、生来の怠け癖もあるので、自分の気力体力との相談だ。
 ただここ数年で、自分は文筆さえ定期的にやれていれば心身の安定が保たれ、他のことはある程度流してやれるということが実感としてわかった。逆に言えばその柱を欠くと簡単に崩れる。思えば一番やりたい筈のことをだらだらと蔑ろにして、捌け口も無くその日その日を兵隊のように過ごしていた頃はすぐに鬱っぽくなったし、ほか色々と気がおかしくなっていた。
 自分を摩耗させるマゾヒスティックな快感に酔いしれようとしたところで、結局一番重要な柱を欠いてしまえば、良いことは一つも起こらない。というか起こらないどころか典型的なアイデンティティークライシスに陥り、周囲にも迷惑をかけた。まあ、それが骨身に染みてわかったというのが唯一の良いことだったと言える。自分の最優先事項だけは不可侵を死守して後は程々にやっていくのが、巡り巡って周囲にもプラスに働く、世の中はそういう仕組みになっていると、漸く一人称的に帰趨しつつある。周りを気にしない方が回り回って周りにも良いと。ダジャレみたいだが。
 そんな訳でとりあえず執筆の城だけは崩さないように気をつけよう。とりあえず上述の小話集にかからなければいけないし、追々は歴史長編やコメディなんかも挑戦したくて、やりたいことは色々ある。


思い出す言葉など。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでしょう。囚われちゃ駄目だ」

 『三四郎』にて広田先生が三四郎に電車の中で言う台詞だ。夏目漱石が「駄目だ」とか「馬鹿だ」とか断ずる時の響きには強い実直さがあり、シンプルながらも独特で頭に風が通るような心地がする。「向上心のない人間は馬鹿だ」、「囚われちゃ駄目だ」、「こだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ*1」……月並みの諫言だがどこまでも自律的だ。
 三四郎ではこの後、「いくら日本のためを思ったって、贔屓の引き倒しになるばかりだ」と台詞が続き、それを聞いた三四郎はハッとして、やっと本当の意味で自分が故郷の熊本を出たような心地になる。


 自分にとってのこうした精神的出立がいつだったのか、小さな出来事群はあれこれと蘇ってきたりもするが、これだという契機は絞れない。まあそういうものだろうと思いつつ、もしかしたらまだ出立できてないという可能性も大いにある。そう考えると自分はむしろ「囚われちゃ駄目だ」という言葉にまさに囚われている節が無くもない。
 そういえば実家の猫にそっくりな猫を以前YouTubeで見つけたので、いっそ実家の猫だと思うことにしてこの頃よくその猫の動画を見ている。見た目はおろか仕草や気性まで家の猫に瓜二つで、たまらなくかわいい。あまりにかわいいので見てると脳が錯乱してわたパチみたいに弾ける感覚がする。猫は飼いたいが諸々の都合により難しいから、こうしてYouTubeの実家猫オルタで満足感を誤魔化し誤魔化しやっているのだ。思えばそんなことばかりになってきているかもしれない。だからこそ絶対領域だけは守っとこうという話だが。
 三四郎の言葉は依然色褪せず、むしろ年を経れば経るほど、自分が価値を置くのはまさにこれ――人間ひとりの可能性を信用すること――だと感じているが……それでも、頭の中がどれだけ広かろうが、現実の他人、現実の生き物は決してそこに住んではくれないことを、やはり時々歯痒く思う。