取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

佐野洋子『シズコさん』

上記リンクより引用
四歳の頃、つなごうとした手をふりはらわれた時から、母と私のきつい関係がはじまった。終戦後、五人の子を抱えて中国から引き揚げ、その後三人の子を亡くした母。父の死後、女手一つで家を建て、子供を大学までやったたくましい母。それでも私は母が嫌いだった。やがて老いた母に呆けのきざしが──。


『100万回生きた猫』の著者であり谷川俊太郎の前妻としても知られる佐野洋子のエッセイ。母娘というのは自分がとりわけ心を惹かれる創作テーマであり、本作はその中でも良書だという評判を聞きつけ購入したが、確かに実際そこそこ良かった。先週末に実家に帰省した際に新幹線等々で読み、そのまま実家に置いてきてしまったのでもう手元に参照できず、あまり引用もできないが、衒わない蓮っ葉な、しかし非常に女性的な文章が気持ち良い。ざく切りでおおらか、時制も気まぐれに赴くままに入り乱れている。
 

 しかしそのような潔い文体とは裏腹に、終始かなりウェットでくどいエッセイである。母親への罪悪感と憎悪、恋しさが常に顔を覗かせ、同じようなされど複雑な感情表現が何度でも繰り返される。
 小説を読む限り佐野さんの母親(シズコさん)はかなり「ドぎつい人」であるようで、見栄っ張りで上昇志向、夫との間に7人の子どもを設けながら、うち3人を早くに失い、中でも特別に可愛がった佐野さんの兄が死んで以降は、その喪失感を佐野さんに当てこするように意地悪になったと言う。ふくよかだがいつも身ぎれいで化粧を欠かさず、鏡の前で頻繁に「ムッパッ」と口紅の調整を行っている。ただし家事能力は大変なプロフェッショナルだったそうだ。父親が早逝し佐野さんが家を出て後、シズコさんはどこからか貯めたお金で一人でに一軒家を購入し、息子夫婦とそこに住まうが、これまた強烈な息子の嫁と反りが合わず、最終的に嫁に自分の家から追い出され、転がり込むように佐野さんの家にやって来る。この頃から母親の「呆け」が急速に進行、大嫌いだった母親が、ただの可愛いぼけたお婆ちゃんになってしまった。


 呆けた母親をなおも愛せず、高級老人ホームに叩きこむことで処理したことを佐野さんは「金で母を捨てた」と表現し、1冊かけてその贖罪をしている。描かれる情景も感情も腫物みたいに生っぽく膿み、一部始終ずっと湿度が高い。
 佐野さんの母親は自分の母親とは似ても似つかないが、こういう人を母に持った人の心情というのは想像に余りあり、痛々しい共感もできる。読みながら自分の母親と照らさずにはいられなかった。娘にとっての母親は遺伝子的に最も身近な同性であり、過言で無しに自分の相似的な存在であるのに、それだからこそ、母親との違いが妙に目について仕方がない。娘の側からすれば自分を産んだ同性である母親に同質性を見出そうと働きかけるが、母親からすれば娘は生活の過程で後発的に得た付属物であり、それが他ならぬ自分の一部という感覚を急に呑みこめるとは限らない。そもそも女性というのは年下の女性を潜在的にうっすら嫌っている節があるので、自分の娘にすらもそれが適用されてしまうこともあるだろう。この認識の違いに母娘の複雑な不和の温床がある。肉離れのような関係と思う。
『シズコさん』の中で「フロイトが母-息子、あるいは父-娘の関係にしか着目せず、母-娘の濃厚さを見逃したのはフロイトが男だったからだ」という一節にはまさにその通りと膝を打った。女性ひいては「娘」の一人である我々からすれば、母娘ほど濃密で宇宙的な関係は無いと断定できる。母娘関係、もっと言うと母親を創作に昇華させようとする女性作家の作品は、どれも並々でない愛憎と寂しさで鬱蒼としており、そこだけ浮いたように少女的な感性を残している。我を忘れており、気が触れていて、客観的に見ると誇大妄想のような印象を受けるが、本人は大真面目なのである。
 佐野さんの母シズコさんも、果たして佐野さんが言うほど破壊的な人だったかどうかは疑問だ。能力的・人格的に極に振れている女性でも女性である限り家庭人に収まってしまう時代だっただろうから、「ヤバイ母親」というのはもしかしたら今よりも多かったのかもしれないが、そもそも完璧な人間はいない。4人の子どもを立派に育て上げ大学まで行かせたシングルマザーが果たして人格破綻者かどうかは、判断が分かれるところだろう。女性というのは愛するべき存在を愛せないことに苦しめられる難儀な生き物だ。罪悪の中に生き、常に後ろに足跡がつく。呆けた母との交わりの中で佐野さんが初めて母を真正直に慈しむことができ、長年の苦しみを解かせたことは他人事ながら良かったねと思った。でもこの人自身も相当ヤバい人なのは端々から伝わってくるしそんなに同情は出来ないな。


 感傷的であるがまずまず良いエッセイ。ただ本書に限らず多くの日本の現代文学というのは、やはり舞台も情景も心理も人も何もかも、理解でき過ぎて気持ち悪いというのが個人的に苦手なところだ。母語母語のまま出力されているがゆえに、文章も読みやすすぎる。わかりすぎるのだ。痛点を的確に押さえて来るし、幼稚さや愚かさもダイレクトに馴染んで消耗させられる。こんなにわかるものを読ませてくるなんてプライバシーの侵害です、と言いたくなる。あくまで私の趣味としては、わかりすぎるものよりは、基本的には何言ってるかわからないほど冗長だがたまに唐突にわかることがある、くらいの読み物の方が趣向に沿っている。
 また、この頃珍しく女性作家の小説やエッセイを続けて読んだのだが、やはり女性作家の書き物というのは「バカ女」が出てこないのが明確な良いところだ。いや、愚かで浅ましい女というのはたびたび出てくるのだけれども、そういう女性にも過程と葛藤があり、人生の味を知った所作を折々で滲み出すことがあるというのが、きちんと理解されて自然に描かれている。
 男性の物語はこのあたりが軒並み異常に弱く、極端なケースだと登場する女性が「理想化された女性」か「バカ女」の2パターンしかなかったりする。それがミソジニーかはともかく、単純にただ女性心理を全く理解できていないというだけの場合もあると思うが、それ以外の点は非常にレベルが高い男性作家ですら女性描写だけ急に型落ちするのはやはり気にかかる*1。男には奥行があるのに女には無いのだ。男性読者は多分それが気にならないし、男性作家好きの女性読者はそのへんを不問にしてしまうことが多いから、結果あまり指摘も共有もされなくなるのかもしれない。いや知りませんが。この『シズコさん』なんかも、男性が読んだらどう思うのだろうね。
 近頃は真の弱者は弱者男性だとか言われたりもするが、現実でも創作でもバカ女は常にどこまでも誰からもバカにされていて酷いもんだと私は思う。男の物語に登場する浅ましいバカ女、苔にされ通過点にされるためだけに登場する彼女達の生の軽さに耐えられない。彼女達の内面を誰も尊重しないだろうことが虚しい。

*1:面白いのはこの傾向が対称じゃないことだ。女性描写がちゃんとしてる女性作家は男性描写も巧みであることが多い。まあ、これは私が女性だからそう思うだけかもしれないが。