取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

SNS批評への雑感②批評、かっこ悪い

 を書いた時から表題のテーマで②を書くつもりだったのに、結局書きかけのまま放置してしまった。お蔵になりかけていたところ、関連トピックが数日前に少し耳目を集めていたのを目にしたので、改めて書き残しておくことにする。

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 耳目を集めていたというのが上記の批評記事。私は寡聞にして著者も評者も存じ上げていなかったので、特に肩入れや偏見も無く読んだが、まずこの批評記事が「自分語りに終始し著書への敬意を著しく欠いた最悪の批評」といったような評価でtwitterで扱き下ろされており、それに同調する意見もあれば「こういう批評もあっていい」という穏当な意見も多数現れ、書評の倫理を問うちょっとした論争になっていたように思う。
 ご承知おきの通り極めて穏当なことしか言わない私としては、別にこの書評が特段優れた書評だとは思わないものの、勿論こういう批評もあって良いと考えている。公に出す批評としては確かに自分語りが多すぎるのが難点だし、著者に失礼というのもその通りだが、記事中の言明「かつての『在野』で自明のことであった人や領域や事象がアカデミズムにあたかも新しいことのように『発見』される傾向」というのは、指摘される価値のある一般性を持っている。土台、こんな字数制限のある記事内で行き届いた批評を成すというのがまず難しい。


 この一書評についてとやかく物申したいのではない。考えたいのはこの記事を手厳しく非難する人との間にある「批評行為」自体への認識のすれ違いである。
 私に言わせてみれば文芸批評や芸術批評なんてそもそもかっこ悪い営みであって、ゆえに批評が批評である以上、それは高潔になどなり得ない、例えば良い批評に与えられる最大の賛辞だって「鋭い」「面白い」が関の山、決して「激しく心を揺さぶられる」だとか「既存の思考を塗り変える」だとか、そういった創造性・革新性を有することは無く、むしろそんな広大無辺な価値を帯びてしまったらそれは批評を超えた何か別のものだ。批評では無い。それくらい、作品批評とはどこまでもコンパクトで皮相的な行為だと私は理解している。
 ところが、インターネットひいてはSNSの発展に伴い批評という営みがごく身近になり、批評人口が激増した筈の今、どういう訳か逆説的に「批評」のイメージは卑近になるどころか、高尚で清潔、略して高潔なものとして祀られ始めているように見える。


 根本的な美的感覚の溝を実感するところだ。
 なぜ美的感覚の話になるかと言うと、私が作品批評を卑近な営みと捉えているのが、専ら私個人の美学に依拠しているからである。いや、私個人と言いつつも、内心ではきっと一定程度まで一般化できる美学だと信じているのだが、そのあたりを分析美学的に追求できる程の気概も学識も無いので、その検討は脇に置いておく。とまれ、批評に関する道徳的美について、私なりの判断がある訳だ。つまり、批評家というのは本来嫌われ者であり、そしてそれこそが批評家の孤独な美学……というトラディショナルな価値観が私の中に確とあるのである。


 そもそも作品批評というのは人様が丹精込めて練り上げた作品に対し、特に創作実績もない有象無象がアレコレと文句をつけるという、本来的に出過ぎた営みだ。作り手側からすればたまったもんじゃない。それでもこの営みが「批評」と名付けられ立派に成立しているのは、批評能力と創作能力というのがある程度分離されたそれぞれの才能としてあるからだろう。
 よく言われることだけれども、優れた創作者は同時に優れた批評者でもあるが、優れた批評者は必ずしも優れた創作者とは限らない。創作の才がある人は往々にして批評の才も有しているが、批評の素質がある人については、大多数は創作に縁が無かったりする。
 そしてこうした包含関係がある一方で、更に批評と創作それぞれにパラメータが存在する。そのため、創作能力はからきしとは言え、代わりに抜きん出て受容・批評の才がある人が他のそれなりの良作を酷評したとしても、その批評家が直ちに分不相応と見なされるとは限らない。何の訓練もしていない一般大衆だって的を射た批評が出来ることは往々にあるし、特にその道や周辺領域への十二分な見識があり、類稀な洞察力や表現力を持った批評ができ、何よりそれを定期的に発表していく人は批評家として名を成していき、他人の創作を上から目線でああだこうだ言ってもなお体面が保たれる。


 しかし、どれだけ説得的な作品批評を成そうとも、他人が魂を込め、時間と労力をかけて制作し結実させた創作物を好き放題に評価して金を稼ぐまでなる人間が、高潔である筈が無い。要するにどこまでも他人の成果物で飯を食っている訳で、やっていること自体は卑賤と言われてやむを得ない営みである。
 だからこそその卑賤さを孤独に貫徹することに美学が見出される。本来的に他人の褌だからって、その褌を取る手を緩めてしまっては、中途半端で余計にダサい。臆したらそれが臆したとわかってしまう。批評という役割を全うしようとするならば、自分に蓄えられた見識や直観をフルに活かして的確な指摘を行うことが批評に公益性をもたらす。その時初めて批評という本来的にかっこ悪くて高潔じゃない営みに、かっこ良さや高潔さに似た輝きが付与される。


 ……というのが私の作品批評に関する美的判断だ。私自身もこうした考えの下に定期的にこのブログで作品批評みたいなことをやっている。恐らく半数程度の人間からは共鳴してもらえる感覚と思うが、残る半数の人々からは賛同されないのだろう。
 というのも、最近SNSで絶賛されるようなWeb掲載の批評記事というのは、内容の6-7割が批評対象の作品を丁寧な言葉遣いで解説することに注力しており、終わりに付け足される筆者の批評も制作者に対して非常に当たり障りなく好意的なことが多い。有り体に言うと読後感として、「何か高潔であたたかなものを目指して書かれたような文章を読んだ」心地になるのである。作者や読み手の感情を逆撫でせず、作品に対する柔らかで冷静な愛情を感じさせる文章という言い方も出来るが、作者や寄稿元への忖度が露骨で文芸サークル的閉塞があるのは否めない*1
 そしてそれ以上に、評者自身が読者に対してどう見られたいかという願望が背後に見える。要は評者が自分の読者評を意識しすぎており、この作品のレビューを通していかに自分が良い感じ――知性ある人格者、情熱に満ちた観察者、トリッキーな傍観者――に見えるかを計算ずくの道具的文章になってしまっている。勿論、文章に自己演出を施すのは売文家なら誰しもやることだが、Webライターの文章にはこの演出が文章に「滲む」形で表出していることが多い。それは筆者の力量不足以上に、読者が記事を通して自分に抱く好悪があまりにも次の仕事に直結してしまう、Web批評特有のマネタイズや炎上回避の心理に起因している。


 思うに、批評趣味の人間なんてみな例外なく性格が悪く傲慢な奴らばかりだ。それは先に述べた通り批評という行為自体が傲慢かつ不寛容な営みなのだから、そんなことを稼業にする人なんてのは一癖も二癖もあって選民思想が強く、どこかスカしているに決まっているという私の推論による。ゆえに私にとってはその人が批評家であるという時点でその人に変な夢を抱く余地が一切無くなるため、批評家が批評を通して明らかに自分を良い感じに見せようとしている記事を読むたびに、「なに意味不明な目論見してんだ」と欺瞞を看破してしまい、「そんなダサい嘘には騙されない!」と反駁心が爆発する。ほぼ発作のような一連の反応である。

 
 しかし、このような発作を起こさない人々がいま過半数なのかもしれない。私が発作を起こす批評記事が現実に支持を集めているというのもそうだが、このような記事を書いている批評家自身の批評認識にも、それが裏付けられている。高潔な批評を書こうとするのは、高潔な批評というのが成立すると考えているからだろう。私にとっての批評は回りまわって高潔さを帯びることはあるが、それは言わば「真面目に不真面目」のような「絶対に迂回を経由しなければ成立しない逆説的な美学」だ。基本はかっこ悪い。しかし、温和だったりセンチメンタルだったり冷笑的だったり、それそのもので芸術的になろうとしているような作品批評というのは、迂回無しのストレートで階段を登ろうとしている訳なので、その根底には批評行為の格式への真っすぐな信頼、詰まるところ「批評はかっこ良い」という前提が一定程度あると思われる。そこがまず我々と認識を異にしている根本なのだろう。


 この違いの元まで深堀りすると埒が明かないので、結局のところ美的感覚の違いですね、違いを認めて上手くやっていきましょうねという良識的な総括になるのだが、このように道徳が関わる美的感覚の溝というのは、冗談抜きでマリアナ海溝に負けず劣らず深く暗い。大衆のネットの論争も、道徳的是非の話をしているように見えてその実は個人の道徳的美の衝突になっているパターンが散見され……美的感覚の話になってしまうと議論はもうほぼ平行線、同じ目的地には収束できない。


 何はともあれ、いろんな批評があっていい。そういう意味では絶賛するのも批評のうちだし、毒にも薬にもならない柔和なレビューが栄えていても一向に構わないのだが、ただ、稼業としての批評家達がネット上で置きに行った批評ばかり書くようになると詰まらない。実際、作品を鑑賞するかしないか判断する時や、鑑賞した作品の他人の評価を探したい時、結果的に個人ブログの感想が一番直截で参考になる、という事態になってしまっている。まあ、これは私が匿名の意見を贔屓しがちな節もあるが。

*1:広告業界の人達にも通じる性質。広告のアイデアについて内部では「凄い」「面白い」と盛り上がるが、世間では広告は邪魔でしかない。