取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

林公一『家の中にストーカーがいます』

 Dr.林のこころと脳の相談室における主要コンテンツ「精神科Q&A」の電子書籍化。紙は無し。
 元々全てWebで無料で読める。私は1年程前にこのWebサイトを人に教えてもらって以来、時々訪問しているが、なにせ量が膨大なので掻い摘んで読むにしても取捨選択に困っていたため、本書のように著者によって厳選されたものをコンパクトに読めるのはありがたい。安いしね。書籍化に際して、Web掲載時点では無かった「あとからひとこと」が各Q&Aに書き下ろされており、読者の理解を助ける有意義な補助的内容になっている。


  サイト運営者であり精神科医の林先生の回答が明快で小気味よい。メールによる問い合わせを読んだだけでカウンセリングや診療を施すことは不可能のため、そうではなくただ単に「メールの質問に事実で回答する」という形式を一貫して採用している。うつ病の可能性が極めて高い人にはうつ病ですと告げ、そうではなくただ甘えているだけの人にはうつ病ではないと断ずる。もはや機械的に見えるほど、そうした態度が一貫している。臨床の場では受診者に及ぼし得る影響を考慮して曖昧な表現が施されるであろう内容が本書では直球で告げられるので、読者としても余計な憶測を働かせず楽に、しかし真剣に字面を追うことが出来た。
 質問者の問い合わせ文を読みながら読者視点で「これは……」と訝しむところがある時、百発百中で回答にて端的に指摘し追及されている。あまりに歯に衣着せぬ物言いに「そんなことまで言っちゃうのか」と驚く場面もあるが、靄が残らないのは爽快だ。


 が、生の声に勝るものは無い。つまり本書において最も重要なのは、林先生の適切な回答以上に、精神病を抱える当の本人、そして精神病患者と間近で接して彼らと関係していかなければならない周囲の人々の生きた声が、文字になって綴られていることである。この世とあの世の際にあるような、一触即発の緊張感。目の前のものが全て前兆に見える。胸騒ぎ。そこでは救い救われるという行為の意味すら不分明になる。首の皮一枚でこの世に繋がっている人、そしてその隣にいようとする、いなければならない人の生の苦しみ。我々が目を背けている彼岸世界の体験が、橋を渡る瀬戸際の人々によって生き生きと描き出されている。


以下に少しリンクを貼る。
【0814】まわりの様子がおかしくなり、奇妙なことが続けて起こる
【1883】夫は覚せい剤をやめたのに、他人からもらった普通の薬をのむと精神症状が出ます
【1541】皆と同じようにipodの手術を受けたい
【2356】性的虐待の過去と向き合うべきか



 ところで著者はうつ病と擬態うつ病を区別することを本書の中で幾度も強調している。勿論それは信念あってのことだし、著者がそう考えているなら信ずるところに殉ずるべきだ。が、素朴な市井の感覚としては、結構厳しいなと思う。
 擬態うつ病というのは著者の造語だ。うつ病を称しているが、本当はうつ病ではない。脳の慢性疾患であり歴とした精神病であるうつ病に対して、擬態うつ病はただ単に他人に甘えたい逃避気分が長くずっしり続いている自分の怠慢状態をうつ病と称することを指す。擬態でも「うつ病」を喧伝することで、周囲は当人を「うつ病の人」として扱い配慮せざるを得なくなる、そのことを期待した打算的詐称だ。著者はこの擬態うつ病うつ病の名を歪めること――具体的には、擬態うつ病によってうつ病患者への世間の理解が遠ざかってしまうこと、うつ病患者が自らの状態を余計に責め立てる悪循環に陥ってしまうことを、「悪貨が良貨を駆逐する」と厳しく問題視している。
 それはもっともであり異論は無い。ただ、Q&Aを見てると聊か厳しすぎるかなと思うこともあった。単なる甘ったれに対する冷ややかな態度は胸が梳くし、失恋の苦しみを精神科の問題と拡大解釈して質問してくる投稿者には「あなたは振られてるだけです」と常に一本槍で収めているのは笑えもする。うつ病オールマイティーカードのように利用して幅を利かせる擬態うつ病患者が現在益々世の中に溢れていることは、想像に易い。これはもちろん問題だ。本当のうつ病患者への誤解を広めるというマクロな問題のみならず、ミクロな視点でもそこかしこに修復不可能な溝を生む。彼らは周囲を振り回し疲弊させ、それなのに周囲の言葉を聞き入れない。集団を滅茶苦茶にすることもあるのに責任を問えない。非常に厄介な存在だ。


 …しかし、そういう厄介な存在を撲滅させるにはどうすればいいのか、それもまた簡単にはわからないのだ。そもそも撲滅させるという発想自体が罪深く圧し掛かる。撲滅させるのではなく、除け者にするのではなく、その人自身を成長させればいいのか? だが、成長させるって一体誰が? これまた「周囲」がやるというのか? 人は資源かもしれないが福祉ではない。人は福祉を施せるが、人自体は福祉ではないのだ。なぜそんなリソースを「周囲」であるというだけで人が割かなければいけないのか。存在してしまっているものを防ぐというのは原理的に無理だ。それに、それならば、彼らは社会のただのお荷物なのか? 彼らにも親がおり、愛し愛される人がいることもある。きっと悪いところばかりでも無く、秀でたところだってある。そもそも、誰だって自分だって、ちょっと気が沈んで使い物にならなくなる時期くらい、一度や二度はあったではないか……。
 擬態うつ病患者当人への対応というのは、あまりに多くの思考が一点に集中し、縺れ交錯する。どう扱えばいいのか正しくは誰もわかっておらず、著者のようなプロフェッショナルであっても本書の回答時点ではまだ自分の答えを見つけていないのではないだろうかという感触があって、だからこそ全面的には同意できないと思った。ただ事実のみを回答する平坦なスタンスの中、擬態うつ病というトピックに関してだけは非常にセンシティブな冷たい波があるように見える。
 しかし、信念ゆえの波である。Q&A以外の著書も拝読したい。

 悲しい出来事、つらい出来事、嫌な出来事、それに反応して気持ちが落ち込む。それは人間として健康な反応であって、病気ではない。だが一定以上に強く落ち込んだ時はどうなのか。それは病気と呼ぶべきなのか。この問いは難しいが、もう一つ、原因となる出来事のほうにも問いがある。どのくらいのインパクトがあるとき、それをトラウマと呼ぶのか。同じ出来事でも、そのインパクトは人によって大きく異なる。だからトラウマとは私的なものである。だがそうすると、PTSD、つまりトラウマによって発生した病気の範囲はどこまでも拡大していく。どこまでも範囲が拡大したら、それは病気とは呼べない。だからPTSDという病気を定義するためには、トラウマの範囲を限定しなければならない。その範囲は時代によっても変わるだろう。現代では、PTSDという診断名が下されるのは、命にかかわるレベルのトラウマがあった場合に限定されている。
 人が悩んでいる。人が苦しんでいる。それらをすべて医療の対象として救うことは、現実にはできないのだ。(【1934】あとからひとこと)