取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』


 勉強として読んだのでメモ。
 ウィトゲンシュタイン、大学の頃に『論理哲学論考』を図書館で借りて数10ページ字面を追ってみたものの何もわからず返却したという苦い思い出があり、それ以来全く触れてこなかったが、この本はそういう自分でも最後まで挫折せずに読めた。語り口が明快かつ丁寧で、国語教師のように同じことを数回は噛み砕いて説明してくれる。また、ウィトゲンシュタインその人の人生に沿いながら前期・後期の思想を通時的に追っているので、一貫性もわかりやすかった。


前期
 前期ウィトゲンシュタインつまり『論理哲学論考』の目的は、「有意味に語りうること」と「有意味には語りえないこと=語ろうとしても無意味になってしまうこと」との間に境界線を引く、ということ(p.38)である。そして哲学上の問題というのは実はほとんど後者に属する疑似問題に過ぎないことを証明しようとする。
 ここで「語る」と言う時に用いる言語は、日本語とか英語とかの実際に各地で使用されている特定の言語を指すのではなく、「世界に起こりうる事態の一切を漏らさず表現できるだけの機能と構造を定義上備えた言語――言うなれば<究極の言語>(p.40)が想定されている。例えば「勿体ない」という日本語に相当する英語が無いように、日常言語には地域的な偏向や特質が避けられ難く存在するが、そのような言語的偏向によって語りえなくなってしまう事柄を全てカバーできる究極の言語を想定し、そのような究極の言語ですら語りえないことがあることを示そうとする。

 ウィトゲンシュタインが提示する「語りえないもの」の例は論理、存在、決定論、自由意志論、価値、幸福、死などがあるが、私としては独我論の例が一番面白かった。
 独我論とはおおよそ「世界=私の知覚しうる世界」と考える一種の観念論だ。世界はこの私に対して開かれており、他の人間や物体の知覚を私は私自身として感知せず、全て対象に過ぎない。このように世界の可能性は、私がこしらえる像に依存している。つまり世界とは「私の世界」なのである。――大雑把に言ってこういう論だ。
 ウィトゲンシュタイン独我論に対し、「独我論者の言わんとすることは全く正しい。ただし、それは語ることができず、示されるものなのだ」(pp.60-61)と言っているそうだ。独我論者は世界を「私」と「対象」に区分し、前者は決して対象化されえない形而上学的な主体であり、独我論者的に言えば「机の上にペンがある」という事象は「机の上にペンがあるのが私に見えている」ということ以外に何も含意しない。世界とは私の眼によって見えている世界に他ならないからだ。しかし、こうした主張をひとたび声に出した時、客観的に見ればそれは「『自分は他の人々とは違う特別な存在だ』と主張する単なる自己中心主義か、そうでなければ、意味を成さないうわごとを言っているのと変わらない」(p.63)。我々ひとりひとりが「私」という自己の世界を持ち、無数の「私」たちが同様にして存在するということが、彼らの主張には抜け落ちてしまうからだ。しかし独我論者の主張する世界の認識感覚自体は、生きている私たちなら実感を持って理解できるだろう。
 こうしたジレンマ、独我論の主張の変質は、どうすれば解消できるのか。ウィトゲンシュタインによればそれこそが「語らないこと」だ。より厳密に言えば、独我論を語るのではなく、「世界の在り方をあるがままに語ること」(p.64)こそが、そのまま独我論を徹底させることになると言う。私に開けている世界の在り方を具体的に語ることは、そもそもそれが私によって見られている世界なのだということを既に潜在的に意味している。独我論という認識方法などを表立って語られないからこそ、「世界の具体的なあり方を捉えているこの私が存在するという神秘が、自己中心主義などに変質されずに保存されることになる」(p.64)*1

 このようにしてウィトゲンシュタインは、哲学上の重要なテーマそれぞれについて、実はそれが語りえないことだと示していく。ただ、ここが実に面白いと思うのだが、それゆえに読者が『論考』の内容を理解した時、読者はそこで読んだ命題をただちに全て放逐しなければならない。なぜならそれがまさしく『論考』を真に理解したということだからだ(!)。
 世界に関して我々が語っていることは、蓋しほとんどが経験的な主張に過ぎず、そのような主張によって世界の神秘や奇跡は凡庸な手の平の中に収められてしまう。こうしたドグマを取っ払い、世界の可能性の一切を等しく排除して世界を神秘と捉える生き方を、ウィトゲンシュタインは「現在の生を生きる者」と呼ぶ。世界を無時間的に、等しく永遠の相のもとに全体として眺める者、それが恐らくウィトゲンシュタイン自身の、そして他者へも実践を願う――自らの著書を使い捨ての梯子にせよと奨励するほど――理想なのだろう。
 

 「語り得ないことについては沈黙しなければならない」という命題自体はわりにポピュラーに膾炙されているが、その意図するところを理解している人は自分含め少ない。これは上述の前期ウィトゲンシュタイン(30歳ごろ)の主題であり、彼が発した形而上学の終焉宣言でもある訳で、実際に彼はその後哲学ひいてはアカデミックの世界を去り、周囲の反対を押し切って小学校教師の道へ進む。自身がその才を持って遺憾なく活躍できるに違いない哲学界を捨ててまで向かった小学校教師という職は、まさしくウィトゲンシュタイン本人の夢や志向に最も近い職であったのだろうが、教師職でも問題を抱え行き詰まった*2彼はまたもや失意に沈み、建築家として数年間泳いだ後に40歳ごろ再び大学に復帰する。自らで終焉宣言を告げた筈の哲学界に舞い戻り、再び腰を据えて力闘するのである。そういう意味で、「語り得ないことについては沈黙しなければならない」という命題は、他ならぬウィトゲンシュタイン自身によって覆されている。


後期
 前期ウィトゲンシュタインは壮大かつ断定的な思想なのでわかりやすく、それ自体で完結している印象を受けたが、後期の方はもっと丁寧で晦渋、ゆえに道半ばなのかと思う。この本でも後期の説明によりページが割かれているが、それでも後期の方が難しく飲み下しにくい感じ。しかし後期の方が誠実さと苦悩の乱流がそこかしこに伺えて、窒息するほど思考が深い。
 キーワードになるのは「像(Bild)」という概念。像とは、人が何らかのイメージで物事を捉える時に利用するそのイメージのことを指す。時間を川の流れになぞらえて表現する時、我々は川の流れという「像」を媒介して時間をより具体的に接近させる、生き生きとした表現をしようとしている訳だ。こういう表現をする時、必ずしも我々は実際の川の水の流れを頭の中に思い浮かべるとは限らない。しかし「川の流れ」と言われただけで、実際にその川の絵や映像を念頭に浮かばせずとも、川の流れの流動性・不可逆性をイメージし、そこに時間との類似を見出すように促されているのだということを我々は容易く理解する。像とはこのように何かになぞらえて物事を把握する時の「何か」なのである。
 後期ウィトゲンシュタインは、像による理解がもたらす恩恵を十分に理解しつつ、一方でそれによる精神的痙攣に警鐘を鳴らす。例えば時間を川の流れで表現するというのは既に修辞としてある程度の権威性みたいなものを帯びており、実際我々はそれを聞いて「成程確かに時間は川の流れのように滔々と過ぎ去り、一方向にしか流れ出ない、取返しのつかないものだ」と連想することができるが、川床を水が流れることと時間が流れることが類似しているとして、川床とは時間の場合どこを表わしているのか、それを答えるのは簡単じゃない。それに我々は時間を流れるものとして捉える以外に、時間を「費やしたり、潰したり、置いたり、忘れたり、あるいは、時間と戦ったり、相談したりする。『時間』という言葉のこれらの使い方は、<川の流れ>の像とは全く結びつかない」(p.148)。つまり時間を川の流れと例えるのは多様な文脈における多様な像のうちの1つの像、1つの比喩に過ぎず、現実の時間はそんなものには収まらない厖大な顔を持っているのだ。

 人は像によるわかりやすいイメージによって目くらましされ、世界のことをわかったような気になっている。「決定論者は『人間の行動は石の落下や天体の運行のようなものだ』といった類いの記号列が喚起する意味ありげな像にいわば幻惑され、自分が少なくとも有意味な命題を発している気になっている。しかし、これは混乱しており、実際には、ぼんやりとした見方のもとで人間の行動を捉えようとしているに過ぎない」(p.136)。
 前期では「哲学上の問題は実は語りえず無意味なものだ」という主張だったが、前期との違いとしては、そうした諸問題は「無意味なのではなく今のところ意味不明」とする点だ。ある種の恩赦というか、年の功による優しさみたいなものがここに見える気がして私は少々ほっこりしたが、要はどんな記号列にせよ哲学的主張にせよ、無限に可能性が開かれたこの現実において「いかなる文脈とも独立に、その記号列だけを眺めてアプリオリに無意味という判定を下すことは不可能」(p.138)だが、一方でそれが有意味であるという判定をアプリオリに下すことも不可能なのだ。我々がのたまうことは像による幻惑によって偏り、現実を把握しきれていないという可能性(というか蓋然性)が常に存在するからである。前期が「有意味と無意味」の線引きへの挑戦であったとすれば、後期では全てを「今のところ意味不明」という闇鍋に放り込むような発想かと私は理解した。前期で辿り着いた「哲学上の主題は本当は語り得ない」という自身の結論すら、今にしてみれば一つの世界の見方に過ぎないと言う。
 ソクラテス無知の知と通じるところがある。物事に見出される類似性や閃きは、理解の像を喚起する。ウィトゲンシュタインはそのようにして物事を理解しようとする人間の努力に惜しみなく敬意を表しつつも、一方でそこで踏み留まり、残る可能性を蔑ろにしてしまう人間の傾向性は忌み嫌い、凝り固まった思考から人々が自らの治癒力をもって回復していくことを切に願っている、らしい。前期の方が体系的でわかりやすいが、後期の複雑さ、慎重さはより現代に求められるべき思考だと感じた。

 
 ……細かな部分は理解が及ばないところが多々あったが、この1冊で屋台骨はおぼろげながら掴めたかなという満足感が得られる非常に良い本(こういうにわか理解が一番ウィトゲンシュタインの嫌うところなのだろうが)。奇人変人という世間のイメージが先行してしまっている哲学者だが、この本を読むと非常に不器用でストイック、思考に沈潜して藻掻き苦しむ人間の姿が浮かび上がってくる。前期と後期で大きな変遷はあれど、彼の哲学は常に世界に対する畏敬や驚きに源流があることが想像できた。哲学者というのはわりと皆そういうところがあるんじゃないかと思うが、ウィトゲンシュタインの場合は本人の顔まで常に驚いているような顔をしているのが実に迫力がある。眼窩の激しい窪みというのは人種的な特徴でもあるが、その奥の大きく見開いた眼球とその不審な輝きは、彼が世界を芯から「驚くべきもの」と捉えていることをまさに眼で物語っている。
 著者によればウィトゲンシュタイン本人の著作だと『青色本』が比較的入りやすいようなので、ゆくゆくは挑戦したい。ゆくゆくは。思想ではないがマルコムによる伝記も伝記文学としての完成度が非常に高いらしい。



 世界への驚きと言うとイノセントで深遠な響きが伴われるが、現に私達は大人になっても現在進行形でたびたび世界に驚かされているはずだ。私も気づいたら自分がアラサーになっていることに本当に驚いている。驚きすぎて時々訳もなく笑う程である。それに今でも、例えばまれに徹夜した日、朝5時くらいに窓に太陽の光が差し始めるのを見て夜と朝が繋がっていることを摩訶不思議に思ったり、身長180cm弱の兄と身長155cmの母が並んで立っているのを眺めて、ふと母が兄を産んでいることに驚愕したりする。それは時間や生命、宇宙に対する驚きだ。存分に知っている筈の知識でさえいわくありげな神秘性を纏って立ち現れてくる時があり、そういう時その不可思議さに、自分には決して到達できない世界の全てが詰まっているという全知の確信に逆説的に突き動かされる。しかしその確信すら次の瞬間には崩れてしまい、私はいつも通り明日の予定を確認し、10時にどこどこに行って誰誰とこの話をつけなければならない…などと考えている。そしてそれもまた私達の現実なのだ。


最後にウィトゲンシュタインが友人マルコムに宛てて書いた手紙の文を引用する。

もしも哲学が、論理学などの難問についてもっともらしい理屈がこねられるようになるくらいしか君の役に立たないのだとしたら、また、もしも哲学が日常生活の重要な問題について君の考える力を向上させないのだとしたら、そして、もしも哲学が、「国民性」というような危険極まりない常套句を自分の目的のために使うジャーナリスト程度の良心くらいしか君に与えないのだとしたら、哲学を学ぶことに何の意味があるだろう。君も知っての通り、「確実性」とか「蓋然性」とか「知覚」といったことについてよく考えることが難しいのは当然だ。でも、(可能だとして)それよりもっと難しいのは、自分の生活や他者の生活について本当に誠実に考えること、あるいは考えようと努力することなんだ。そのうえ、困ったことに、これらについて考えるのはスリリングではないし、往々にして全然愉快ではない。けれど、その愉快でないときが、最も重要なことを考えているときなんだ。(p.300)

*1:しかし、だとすれば独我論的なものの見方はどこにも虎の巻を残せない、残してはいけないのか? それは1つの思想が不当に追いやられているようにも私には思える。独我論に限ったことではないが。

*2:ウィトゲンシュタインは意欲溢れる教師だったが、優秀な子どもをあからさまに贔屓したり、難しい子どもへの感情を抑えられず体罰に及んだりして、保護者や学校側で問題視されたらしい。