取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

澁澤龍彦(1928-1987)は別に好きって訳ではなく、澁澤龍彦に限らずフランス文学好きとは馬が合わない自信があるが、馬が合わないなりにも面白いと思う部分はある。これも何となくで買って読んだが結構面白かった。小説家の書くものなので哲学の名を冠しながらもその実はエッセイというか人生論みたいなものだが、前半では学問っぽくエピクロス派やフロイトを多分に引用しながら自身の立ち位置を説明している。


澁澤龍彦によれば幸福と快楽は別のものであり、幸福とは現実に拘束された上での満足であって、それゆえに持続的ではあるが激しさに欠け主観的。一方で快楽というのは主観的限界を超えた普遍的な輝きを持つものだと言う。政治に唾を吐き退屈を疎んで、欲望の赴くまま無軌道に生きること、それこそが人間的かつ動物的でかくも素晴らしき快楽主義というものだそうだ。


ソクラテスはじめ名だたる賢者達を「けちくさいタヌキじじい」と軽妙洒脱に扱き下ろすくだりは痛快だし、快楽主義の実践者として紹介された好事家達のエピソードの数々は、澁澤龍彦の尋常でない博識ぶりと老獪な語りぶりも発揮されてて面白かった。ルネサンス期の毒舌家アレティノって人は存在すら知らなかったので「へー」と思った。澁澤龍彦にしてはすれっからしというか格調低めの文章*1なので読みやすいし、読み物としてはエネルギッシュで面白いと思う。


ただこの本で述べられている快楽主義ってのに共感・賛同するかと言われれば全然そんなことはなかった。快楽主義を「フケツ!」とか「いかがわしい」と敬遠する人々のことを澁澤龍彦は「上品ぶったうるさい人々」と矮小化して斥けているが、この本で勧められているような(と言うとちょっと語弊はあるが)開放的で酒池肉林の性道楽に対して人が不潔という感情を抱く時って、別に「ぶって」いる訳ではなく本当に生理的に不快だからだと思う。私も澁澤龍彦訳のサド『悪徳の栄え』を読んだ時は間断も緩急も無くひたすら繰り広げられる倒錯と非道にオエ~と不快な思いがしたし、作品として面白いというのは頭ではわかるが正の感動はほとんど起こらなかった。不快になるのは快楽という自らの本能的欲求を刺激された背理的証拠! と言われればそうかもしれないけど…本能的な感覚を直ちに全て裏返しに解釈するのは理不尽だ。それに自分にあの類の欲望が眠れる獅子のごとく潜在しているのかと考えるとそうでもない気がするし、ずっと眠らせたままで何らストレスも感じていない、ような気もする。そこそこ欲深い人間の自覚はあるが、私は報復欲とか名誉欲とかの、まさに現実世界に拘束された欲望に執着するタイプだ。


要するに澁澤龍彦が賛美する色欲的な快楽っていうのはそんなに至上で普遍的なものではなくて、人によって時々によってウェイトがかなり変わるものではないか。当たり前だが。快楽の醜悪な部分についてもあまりに言及がなさすぎる上に、快楽がほぼ性愛とか愛慾に終始してるのも違和感。油汚れみたいな快楽もあるし、澁澤龍彦の死後を生きる現代人の快楽は拡大と分化を極めていて、性愛なんかでは到底収まらない。ゲーム世界に没入している時の快楽というのは代えがたく巨大だし、Twitterで自分の作ったハッシュタグがトレンド入りしたらそれだけで自分が主人公であると実感できて快楽はドバドバ発生するだろうし、花を花瓶に生けて白壁で写真を撮ったり岩波の青を読んでることをこれ見よがしに知らしめたりすることでも「あ~、こういうことしてる自分良い~」みたいな快楽をGETすることができる。そういう快楽は澁澤龍彦にとってはお話にもならない小手先の低品質なレジャー快楽なのだろうが、性欲がそれらの圧倒的上位に普遍的に君臨するという理由はあまり説明されない。結局あなたの趣味じゃんと思うし、快楽なんてゴミみたいに簡単に得られたりするんだから、そういう易きに流されず自らの内にこもって深刻に鬱屈になっている人達を馬鹿にするのはやめてほしい。


…まあ解説によれば澁澤龍彦自身も後年この本の内容に恥ずかしさを感じていた節があるのではないかと示唆されている。なんでも自分の全集にこの本を入れるのを拒んだりしていたそうだ。若き日に明日の金のために通俗的な啓蒙書を書くことを求められた、その結果がこの本なのかもしれない…と思うと哀愁がある。非難はこのへんにしておく。


とはいえ、それにしても、澁澤龍彦の文は全く挫折を感じない。薔薇色の人生…かどうかは知らないけど、挫折をしていないのか、挫折を挫折と思わないのか、あるいはその両方なのか…。そもそも裁判でも「訴えられたよHAHAHA」のスタンスが出来る人だもんな。澁澤龍彦とかそのマブダチの三島由紀夫みたいな喋りが上手い文学者というのは、作品よりも実生活の充実を第一義にしているような感じが共通している。自分らしく開放的に生きているように見える人、つまり澁澤龍彦の言う快楽主義の人というのは、多分実験とか検証が好きなのだろうな。「これをしたらどういうことが起こるのだろう?」と興味を持ったら、自分の体で実践せずにはいられない。想像や観念なんかじゃ満足できず、身一つで飽くなき探求を繰り返す。


私は家で一人でじっとしているのが好きで、澁澤龍彦的な快楽主義には相変わらず憧れも無いが、私のような人生のスピード遅めの人間にとっては他人の実践例にあやかって初めて思考可能/認識可能になる事柄がたくさんあるし、そうやって生まれたものを読んだり見たり聞いたりして楽しませてもらっている訳だから、快楽主義者もとい実践者達には感謝してもしたりないくらい恩恵を受けているかもしれない。実際に感謝するかは別の話だが。
高い橋の上に立って眼下に広がる大きな川をぼんやり見下ろしていると、今すぐここを飛び降りずにはいられないような衝動が私にも湧いてくることがある。死にたい訳ではないので当然実行はしない。ただ快楽主義の人というのはあの危うい浮遊感を恒常的にくすぶらせていて、死なない範囲で実行に移しているのだろうか。

*1:解説曰く、この本は口述筆記ではないらしいが当初は口述筆記という設定で出版された?らしい