男の書く小説は大きく二つに分けることができる。一つはハードボイルド鋼鉄系、もう一つは夜中に付き合ってない女がいきなり家に訪ねてくる系である。前者は私の最も好きな様式、後者は最も苦手かつ嫌いな様式であるが、不可解なことに特に日本においては後者もなかなか人気があるようだ。
ブログ滞ってごめんなさいね。最近(でもないが)小説を読んで思ったことなど。
戦闘妖精・雪風
あとやっぱり章のはじめのポエムがたまらんね。この後に出す『闘争領域の拡大』もそうだが、欧米の小説や哲学書なんかはよく章のはじめに聖書の一節や仏陀の教えとかユゴーの格言を引用して箔をつけたりするし、我々はまんまとそれに「かっこいい~」と痺れたりする訳だが、考え直してみればあれは自分で創作したポエムを載せる度胸が無いということではないか? そこで行くと『戦闘妖精』の章頭ポエムは(「涙はただの体液に過ぎない」…)吹っ切れてて尚のことむず痒さがたまらない。続編もとりあえず『グッドラック』を買ってまだ未読だが、こちらでは章頭ポエムが廃止されているようなのが残念だ。
初秋
地面師たち
相変わらず新庄耕は使い捨てされる男を書くのが抜群に上手い。真面目に生きても上手くいかない男が、真面目に生きてるうちにくいっと足を踏み外し、そのまま突き進むしかなくなってしまう悲哀。ただ、私としては拓海とかよりも騙された側の人達の方が可哀相で読んでられない感覚になった。
極夜行
大衆というのは生で味わわなければ真価がわからない本物の感覚を、快適な環境内でそれっぽく疑似体験させてくれるメディアを好む。私もそうだ。雪山に行かなければ雪山の壮絶さは真にわからないことなどわかっているが、それでも雪山探検の小説を読んでわかった気になりたがる。苦痛を伴わない追体験という極上の享楽。そして私は特に専ら「リアル」より「ジェニュイン」志向であるからにして、再現性の娯楽にしてもより原始的なものに惹かれる傾向にあるな。渋谷のリアルより古代エジプトのジェニュインが良いし、大学生のリアルよりは小学生のジェニュインが良いのだ。良くも悪くもそういう自分の癖を改めて痛感したりした。
来年、角幡氏の小説をもっといろいろ読んでみる。
デッドライン
ただ、異常に性欲が強いゲイ達が当然のように描写されていくシュールさと、最終的に「ぼく自身がデッドラインにならなければならない」という謎の結論に達するところは面白かった。脱構築、生成過程の小説というのはよくわかったが…なんか男ってかなり独特な個人の美学を当たり前のようにいきなり語り始めることがあり、男の小説にもやはりそういう性質が端々に染み込んでいるとしばしば感じる。
この小説にも例によって「夜中に付き合ってない女がいきなり家に訪ねてくる」シーンがあり、出た出た! と気がはやいだが、この女は主人公の家にいる別の男を目当てに家にやって来たようなので、「そういうパターンもあるのか」と思った。いずれにしても打倒すべき世界観。
闘争領域の拡大
男の闘争が描かれる物語は古来からあるが、その深層部分に入り込んで分析し尽くしたものはそう多くないしその傑作の1つなんだろうなという感想。一方でウェルベック自身は相当なモテ男だろうなと感じるが。…卑近な例だが相席居酒屋なんかも女は無料だったりするだろう。それは市場価値が違うから妥当ではあるのだが、そうなると女の方は0次会の気分でひょいと来ていたりする訳だから、そこに男は爪痕を残さなければならないとなるとそれは大変な闘いだ。男っていつも勝手に闘ってるな、というのは私からもよく思うことではある。男女の諍いでは男のその「いつも勝手に闘ってる感」が鬱陶しく立ちはだかるのだが。
とはいえ、一番面白かったのは学生時代に出会ったどうしようもないブス女の悲惨な人生を主人公が永遠に妄想しているくだり。あれはよくわかるなあ。私が女性だからかもしれないが、半生で出会った「忘れられない女」っていうのは確かに、とんでもない美人ではなくとんでもないブスなのだ。しこりのように記憶に残り、勝手にその後の人生の哀切を反芻し続けてしまう。闘争に参加することも叶わず、トロフィーになることもできない。読者の皆さんの心にも忘れられないブスがいるんじゃなかろうか?
最近こんなのも出たらしい。
ハードボイルド鋼鉄系、夜中に付き合ってない女がいきなり家に訪ねてくる系、と書いたが、この恣意的分類は簡潔に思想系と自意識系と言い換えることもできると私は考える。自意識系というのは貶めるような響きを持たせてしまう形容なので良くないと思うが、今のところ他に適切な表現が思い浮かばない。それこそ前者がジェニュインで後者がリアルとも言えるかもしれないが、いくらなんでも主観的すぎる気がする。
この思想系と自意識系の区別は、特に日本だと明確に二極化しているな、という印象がここ最近強まりつつある。一方で、欧米小説なんかはこの二極が極とならずに一作の中で綯い交ぜになっている。『闘争領域の拡大』がまさにそれな訳だが。欧米が罪の文化、日本が恥の文化とはよく言ったもので、日本の場合は作家が恥の感覚をものともせずすっぱり吹っ切れられるか、逆にそこを突き詰めていくかで二極化するのかもしれない。そもそも私が翻訳小説に良さを感じやすいのは、翻訳というフェーズが間に入ることによって、小説全体がどこか読者に無関心な感じを帯び、その無関心さ――自意識の無さ――に惹かれるというのもあるだろう。
個人的にはやはり、自意識系は好きじゃない。というのもコレ系というのは作家の自意識が凄すぎて「自意識凄いオレ」に関する自意識まで凄いから、必然的に自意識描写への書き込みが過剰になり、そこまで自意識描写に興味が無い読者(私)としては単にピント外れで鬱陶しいだけになってしまうのである。お前の自意識がすごいのはもういいよ、わかったよ、と面倒くさいのだ。
とはいえ小説を読む人間などある程度自意識が強い人間ばかりだし、それは男女共通の感覚だから、コレ系にも根強い支持があるのだろうが…。なんかちょっとゾワッとしてしまうな。
全く関係ないが、やはり創作なんだから言ってはいけないことをどんどん言わなきゃいけないし、もっと他人を傷つけないといけないなと今一度信頼し始めた。それは単なる憂さ晴らしではなくて、それがその舞台においてどのように扱われているかどうかが読者心理に影響するからだ。他人を悩ませたいし葛藤させたいという思いが自分にとって一番重要なところだと改めて思うそんな次第。