取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

新庄耕『狭小邸宅』

 勧められて拝読。暫く、人から勧められたものを愚直に読んだり見たりすることの意義を再確認している。この小説も良かった。


 名門大学を卒業し、目標もなく漂流するように入った不動産会社。数字だけがものを言う苛酷な業務体制、上司達の脂ぎった暴言、課されたノルマのプレッシャー。家も売れずに辞めろ辞めろと激を飛ばされ、泥に沈んで這いずり回るような抑鬱的日々を送りながら、それでも松尾は仕事を辞めようと考えない。


 不動産営業とは業界も苛酷さも比較にならないとは思うが、自分も一応は営業職を経てきた身で、しかも丁度引っ越しのため不動産とやり取りをしている最中だったので、並々ならぬ共感を持って読むことが出来た。サラッと読めるがそこには克明に真実が描かれており、染み渡るような苦しさがする。『狭小邸宅』は主人公の松尾がメインに売っているペンシルハウスのことだが、そのまま松尾の人間性をぴたりと言い表している見事なタイトル。

「おい、お前、今人生考えてたろ。何でこんなことしてんだろって思ってたろ、なあ。何人生考えてんだよ。てめえ、人生考えてる暇あったら客見つけてこいよ」(p.20)

「どうでしたかじゃねぇよ、この野郎。てめぇ旦那の仕事訊いたのかよ。あっ。自営業じゃねぇかよ。自営は客じゃねぇ。だから明王出た奴は使えねぇんだよ」(p.34)


 どんなに疲弊し擦り切れても松尾が不動産営業を止めないのは、彼がまだ仕事に一縷の望みを見出しているからではなく、未来を考えることが出来ないからだ。未来を考えることが出来ない程に消耗していると言うよりは、彼の内観は元々そういう風に出来ている。仕事に対する向上心がない訳では無いし、売れない自分への負い目と腹立ちも悲痛な程に感じているが、どこかで空言のように自分で自分を傍観し、その視界には薄霧のようなモヤがかかっている。

「自意識が強く、観念的で、理想や言い訳ばかり並べ立てる。それでいて肝心の目の前にある現実をなめる。一見それらしい顔をしておいて、腹の中では拝金主義だ何だといって不動産屋を見下している。家ひとつまともに売れないくせに、不動産屋のことをわかったような気になってそれらしい顔をする。客の顔色を窺い、媚びへつらって客に安い優しさを見せることが仕事だと思ってる。」(p.97)


 豊川課長による松尾へのこの指摘は、そのまま自分に言われたようにぐさっときた。貪婪で即物的な会社の体質を軽蔑する優等生人格を頭の中に宿していれば、そうした組織で上手くやれない、売れない自分を正当化できる。組織に根源悪があり、それゆえに自分は真面目に健気にやっていても結果が出せないのだと、そういう物語を作ることが出来る。

「いえ、思ってません」
「いや、お前は思ってる、自分は特別な存在だと思ってる。自分には大きな可能性が残されていて、いつかは自分は何者かになるとどこかで思ってる。俺はお前のことが嫌いでも憎いわけでもない。事実を事実として言う。お前は特別でもなんでもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」(p.98)


 豊川課長は秀逸な登場人物で、私にも重なる人がいた。恐らく新庄耕の上司にも豊川課長のような人がいたのだろう、そうでなければ書けない臨場感だ。他の上司のように怒鳴ったり感情を露わにしたりせず、体の線も細くて冷淡な印象。しかし営業としては超優秀で、客を囲い込むクロージングが特に巧みだという。
 この課長からの指摘が物語のショックとなり、この後松尾は起死回生の受注をもぎ取り、そのまま営業街道に走っていく訳だが、逆転優勝したところで話が終わるのではなくきちんとその後の犠牲も描いているのは誠実だと思った。大型受注を取った後、豊川課長との数週間の同行営業を通して松尾に「顕」が訪れる。今まで見ていたのに見えていなかったものが、急に見えるようになる感覚。矢庭に視界が開けて目の前の景色が血肉になっていくような感覚。以降松尾はめきめきと優秀な営業に進化を遂げ、課のエースにまで昇り詰める。


 男が優秀になっていく時、それは組織としてはとても望ましいことではあるのだが、何か頑なで鬱陶しいものを感じる。不遇の時期に知り合い、泥沼のような日々を癒してくれた恋人の真智子も、躍進するにつれ自分の料理を食べなくなりそっけなくなる松尾に次第に心を閉ざしてしまう。
 「男の物差しはどんどん大きくなるが女の物差しは変わらない」と向田邦子が『花の名前』で書いていた。自分にもよくわかる。若い頃はすぐに足をすくわれ、ただそれでも懸命に仕事に取り組んでいた健気な男性が、優秀になっていくにつれ、どんどん表情が険しく画一的になり、言葉に逐一重みを持たせ始めて……「男性としては嫌な感じ」になっていく、そういうことが多い。私も前半の松尾には共感も好感も強く覚えたが、終盤、営業として階段を登り続ける松尾には他を省みない面倒な強情さとギラつきが漂っていて、それをどことなく空虚にさえ思ったし、そう描かれている。視界の雲が晴れたからって、そこが晴天とは限らない。階段があれば登ってしまい、登ったら降りられない。そういう男性の悲哀を描いた作品でもあるだろう。


 カジュアルなのにどっしり響く良い小説だった。写実性が高く泥臭いが臭みもなく硬質。ただ多くの人が指摘しているように最後は少々尻切れトンボだし、もう少し真智子の人物像に背景を持たせたり、序盤に出てきた女性の上客である佐伯さんを再登場させたりしても良かったかもしれない。豊川課長の人物造形も良いのでもう少し掘り下げて欲しかった。


 それにしてもつくづく思うのだが、不動産や引っ越しの業者と話していると、人間と話している感じがしなくて居心地が悪い。しかもそれだけに留まらず、自分まで人間じゃなくなる心地がする。なぜこのような悲惨なまでに機械的で他人行儀の、そして正真正銘赤の他人に、自分がこれから毎日暮らす家の相談をしているのか、自分の私室を隈なく曝け出しているのか……おかしい。どうも健全な距離感と逸脱しすぎている。
 賃貸ならまだしも戸建てを買うというのは多くの人にとって人生で最も大きな額の買い物だ。そのような人生の節目の買い物に毎日居合わせ売りつけていく仕事など私は絶対にやりたくないと思っていたし思っているが、この小説を読んで不動産営業のインセンティブ、悪く言えば中毒性や病質がいくらか理解できた気がする。人間心理の特にエゴイスティックな部分のパターンに日々相対して処理(時には操作)していく仕事であるから、遣り甲斐もあれば薬物性もあり、地盤がしっかりしてないと松尾のように歯車が壊れていく。傍からは機械的に見える人々の奥にある膿。次は『ニューカルマ』。