取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

近況

 なまじ平均的な日本人程度の勤労意欲があるだけに、9月に続いて10月も、仕事だけでそこそこ忙しくなってしまった。
 残業も月50時間を超えてくると自分ごときは健康を保つのに精一杯で、余暇の時間も取れない。22時過ぎには駅中風景も随分殺伐とした重い空気が漂い始める。改札前では声の大きい泥酔状態の狂会社員達が空間を広く使って解散前の無益な時間を惜しんでいるし、ホームでは肌艶の良い大学生集団が不必要にカチャカチャ動いて目障りだ。前者は見ているだけで不愉快で、後者は見ているだけで疲れてしまう。そのようなごく一部の悪例を除いては、遅い時間の駅の人々の方が全体的に亡霊のように歩くのが遅く所在なさげで、混ざっていても落ち着くのだが。


 労働に時間を割いてだらだら残業してしまうのは、仕事が終わらないからというのもあるが、働くことが体感として苦じゃなくなっているからだ。数年前までは明確に苦痛だったが、ある程度年次も重ねてコントロール可能な業務が自然に増えて行った結果、間違っても仕事が出来るとまでは行かないが、普通にしていれば致命的な過失は回避できる程度にはなったので、かつてのように日々苦痛に心を掻き乱されるなんてことはなくなった。
 それは良いことで成長したとも言えるが、代わりの問題として、だんだんと他人の過失が許せなくなってきている。そればかりか、他人に期待しないことを前提に動くようになってきている気がする。
 例えば他人に何か頼む時はこちらの意図とズレが生じないようにできるだけ詳細に指示を出すが、人間だからそれでも間違って受け取られることがある。それはこちらの指示が悪い場合もあるから、そういう時は取り違えの元をお互いに確認し、次からはそれを取り除いて依頼しなければならない。そうやって物事は改善されていく。しかし、こうしたボタンの掛け違いが何回か続くと、指示メールを打っている時点から「恐らくここで間違えられるだろう」「ここは見落とされるだろう」という直観がピコンと立つのだ。
 でも脳裏で別の声がする。「説明するの面倒くさいし、十分伝わるかもしれない」。結果、とりあえずそのまま出してみる。するとやはり最初の直観通りの箇所が間違ったり見落とされた状態で戻ってくるのである。答え合わせのような感覚だ。この時私はハッキリ言って苛々している──自分にも落ち度があると自覚しているからこそ苛々するのだ。顔に出してはならないが、恐らく顔に出てしまっている。そして同じことが何度か繰り返されると、もう全て面倒くさくて全て自分でやれば良いという気になる。コミュニケーション途絶。それで自分一人で完璧にこなせるなら世話ないけれども、自分だけで回したせいで出す書類全部どこか間違ってるみたいなケースを発生させたこともあり、決して快調な訳じゃない。現に自分の残業時間にそれが丸ごと反映させている。


 それに、一番辛いのは期待されないことだ。目的を持った集団の中で何か役割を担っている筈の人間が、同じ集団の他人から少しも期待されないというのは、最も自尊心が傷つけられる状況に他ならない。少なくとも自分自身の経験上思うことだ。健全な環境において、人は人に期待しなければならないし、そうあることで信頼関係が育まれる。当たり前だが好循環とは積み重ねだ。人は丸きり相手を信頼しないことで逆にどこまでも相手に優しくなれたりするが、自分がそうなっていると気づいた時ゾッとしたのだ。それは相手をどこまでも低く見ている証でしかない。自分がそれをされた時の悲しさを思えば、本当はそんなことできない筈だった。とりわけ非正規というのはそういう状況に置かれやすい立場なのだから、正規の側は常にその構造的不正義を認識している必要がある。
 まあだから私もちゃんと人に頼ってちゃんと早く帰るようにしまーす、というだけの話なのだが…。苦じゃないとは言え、好きで残業している訳では全くなく、自分にとって仕事以上に重要なことは沢山ある。というかそろそろコロナ罹患歴のない独身独居に給付金が欲しいところだ。
 ……そう言えばこの前同僚がコロナ罹患して10日くらい仕事を休んでいたが、10日振りにWeb会議に現れたその同僚がなんかコロナ前より元気ってかツヤツヤたまご肌になっていて、「いや、何たまご肌になってくれちゃってんの?」とムカつくやら爆笑するやらで非常にambivalentな感情になった。
 ブログも休んですいませんね。ブログに関しては期待されてるかどうかわかんないけど、期待してほしいからちゃんと書く。また読んでください。