取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

遠藤周作『悲しみの歌』

小説の感想・書評ってずっと苦手で、良い悪いか好き嫌いくらいしか言うこと無いと思っているが、久しぶりに遠藤周作を読んだので…。

『海と毒薬』の続編。なぜか未読だったため、『海と毒薬』を読んでから10年近く経った今、遅まきながら読んだ。続編扱いではあるがこれだけでも読める作りになっている。
『海と毒薬』が問題提起を含んだ誰にでも伝わりやすい社会的な作品であるのに対して、『悲しみの歌』は地味でくたびれた澱のような作品だった。米軍捕虜の生体実験から30年後、新宿の片隅で小さな医院を経営する勝呂が、正義感の強い新聞記者の目に留まりかつての実験を糾弾される。人間が言う正義というものがいかに空虚であり、人が人を裁くことがいかに傲慢で装飾的かということを、荒涼とした新宿の街と共に力なく項垂れた筆致で描く。自身の過去ゆえにまたしても白眼視され、それでもなお自身が医者であること、人を苦しみから解放する職の人間であることの矛盾に倦み、ありとあらゆる悲しみの果てに勝呂は自殺する。


安楽死と妊娠中絶にも触れているが、そこに社会的な提起はなく、作中に浮かび上がるのはただそれを実際の選択として前にしている人の気だるさだけだ。助からない癌患者に「殺してくれ」と嘆願され、勝呂が惨めに葛藤しながら殺すための注射を患者に打っているその時に、彼を弾劾する新聞記者は美人のCAとボクシング鑑賞のデートをしている。


数多い登場人物達の中で、遠藤周作が感情移入しているのは明らかに勝呂とガストンの二人であり、特にガストンは新宿に来臨したイエス=キリストとして比喩的に描かれている。愛することしか能のない粗末なフランス人(作中ではよく毛唐と呼ばれている。差別用語だが人々が外国人に対して当時抱いた印象が屈託なく直截に込められており、私達はまさにそこを不快に思うが、同時に楽しんでいる)であるガストンは、あるタイプの作家が頻出させる「底抜けに善良で愚直な聖人」の典型だ。遠藤周作の場合はそこにキリストを重ねている。ガストンが日当を得るためボクシングの負け役というアルバイトに向かう時、痛いのは嫌だ、行きたくない、と縮こまる彼の脳裏に「痛いから、行くんだよ」と『その人』が言う。



自分はあまり作家には執心しないタイプだが、それでも遠藤周作はかなり好きな作家だ。弱く卑劣でみすぼらしい人間への視線が素晴らしい。共感しながら軽蔑し、冷徹にしかし同じ円から出て行かない。愛情ではなく情がある(遠藤周作の書くそれは愛情なんて間延びしたものじゃない)。


『沈黙』は傑作と思う*1し『海と毒薬』も『深い河』も、それこそ『悲しみの歌』も良いのだが、遠藤周作作品で一番好きなのは何と言っても『イエスの生涯』。小説ではなく評伝なので本来は小説家のベストとして挙げるべきではないのだろうけど、半生を通して狂おしく好きな作品の一つだ。一人の作家が自身にとって最も重要な問題と意を決して相対し、それを慎重に正確に言語化せんとする真摯な姿がここに結実している。

書かれている内容も胸を打つ。遠藤周作が描いている「母性的な同伴者イエス」という肖像は、原理主義者からすればかなり異端で許すべからざる思想と思うが、教徒でも何でもない一読者としては非常に心揺さぶられる臨場感のある実像だ。聖書の文章やその行間と照らしてみても人格的な一貫性があるし、最後の最後でこの人を見捨てることができない弟子達の思いも自分のことのように生き生きと悲痛に感じられてくる。


遠藤周作の小説の登場人物のことを考えると、息が詰まるような苦しさを覚える。他の作家では経験できず、何かが違う苦しさだ。自分にとって代えなく重要な苦しさの気がする。

*1:ちなみにスコセッシ監督の映画版は、悪いとまでは言わないが私の中では無かったことになっている。