取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

サイコパスの道徳的責任

PCの整理をしていたら大学時代(2015年)のゼミ原稿が出てきた。学部生が書いたもののため粗削りだし信頼性もゼロに等しいけど、自分としては結構面白い気がしたので折角だから綺麗な形で置いておく。こういう勉強はもう全然できていないしできないが、自分の興味の核みたいなものはあまり変わらないなと読んで思った。

可読性を高めるために申し訳程度に太字を入れ、あまりにも飛躍が過ぎると感じた数箇所については脚注を追加した。

 本発表では、サイコパスがなすあらゆる道徳的逸脱行為の責任を彼ら自身に帰属させることが可能であるかという問題についての倫理学的検討を行う。まず第1節ではサイコパスとはいかなる存在で、どのような倫理的問題を孕んでいるかということを説明する。第2節では道徳的知の概念からサイコパスの道徳的責任の帰属を不可能とするN.リーヴィとそれを可能とするW.グラーノンの論証をそれぞれ概観した後、サイコパスの道徳的責任の問題を道徳的知の観点から論証することの限界を指摘する。続く第3節ではエンゲルハートの人格概念を参照しつつ、サイコパスを社会的意味での人格として捉え直すことによって、サイコパスが道徳的責任を持つことを論証する。最後に第4節では、本発表の論旨をまとめた上で今後の課題を設定し、結論から導きたい実践の場における将来的な理想を考える。

第1節

第1項 サイコパスとはどのような存在か

おれがほかの人間のことを気にするかって? むずかしい質問だな。ああ、すると思うよ…でも自分の感情までは犠牲にしないな…つまり、おれだってふつうの男と同じように親切で思いやりもあるが、でも現実を見てみろよ、みんな鵜の目鷹の目で人を餌食にしようとしてるじゃないか…自分の面倒は自分で見なきゃな。自分の感情をだいじにしなきゃ。たとえばなにか必要なものがあったり、だれかが自分を妨害…つまり自分からなにかを奪おうとしたりしたら…それにはちゃんと対処しなくちゃならない…必要なことをなんでもやってやるさ…誰かを傷つけたら気分が悪いかって? ああ、ときにはな。でも、たいていは…その…(笑い)…あんたはこないだ虫を踏みつぶしたときどんな気分だった?
――誘拐、強姦、強奪で服役中のサイコパス *1


 サイコパスとは反社会的パーソナリティーの一種を指す心理学用語である。1941年にクレックレーが著書”The Mask of Sanity”でその存在を大きく取り上げて以後、R.D.ヘアやJ.ブレアらにより、主に心理学・精神医学の分野において本格的な研究が始められた。その存在の特異性から、近年はサイコパスを題材にしたフィクションも数多く制作されており、大衆もその存在を認知しているように思われるものの、そのサイコパス理解はいまだ極めて浅薄なものと言わざるを得ない。サイコパスはT.ハリス『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターのような猟奇的犯罪者のイメージで人口に膾炙されているように見受けられるが、実際のサイコパスの人物像はそのようなイメージとはしばしば食い違う。
 ヘアは、人物をサイコパスか否か診断するために、サイコパスに顕著な特徴を書き出したPsychopathy Checklist(PCL)を開発し、現在はその改訂版であるPsychopathy Checklist-Revised(PCL-R)の得点率が臨床の場におけるサイコパスの診断基準となっている。この形式的なツールは専門家が注意深い洞察のもとで扱ってこそ診断に信憑性が保たれるものであり、一般人が軽率に他者をPCL-Rに当てはめてサイコパス判断をしようとすることは極めて危険であるが、ここでは参考として記載する。

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Psychopathy Checklist-Revised の2因子モデル(Hare, 2003)


 上記を見ればわかるように、サイコパスが持つ特徴はどれも道徳的に正当化しがたいものばかりである。彼らは表面上は人当たりがよく、一見健常者と何も変わらないように見え実際そのように振る舞うが、言葉の持つ感情的な側面を理解せず *2、薄っぺらな言葉を次から次へと並べ立てて他者を操作する。その場しのぎの矛盾した虚言や衝動的な行動が多く、自分の人生を長期的・計画的に俯瞰できず、刹那的にしか生きられない。利己的な傾向が非常に強く、自分に絶対的な自信を持つ一方、他者への思慮が決定的に欠けているため、何ら良心の呵責を感じることなく他者を欺いて苦痛に陥れる。時に強い情動を感じている振りをするが、その内実彼らにとって愛は性的興奮と、悲しみは欲求不満と、怒りは苛立ちと同じである。
 このような人間離れした破滅的な特徴ゆえに、彼らは時にカリスマ的人気を持つ。一部の大衆は彼らの破壊的な言動に、自分が胸の奥に隠している破壊衝動を重ね合わせて、彼らが自分の秘めた邪な願望を体現してくれる悪のヒーローであるかのように感じてしまうことがある。しかし、健常者の持つ破壊衝動とサイコパスのそれとは明らかにその構造が異なる。サイコパスの破壊的な行為は理由なき反抗であり、理解を受け付けない理不尽な攻撃である。実際にサイコパス接触した者は大概彼らの言動によって修復不可能な程甚大な物理的・精神的被害を受ける。犯罪行為に走ることなく日常に潜んでいる成功したサイコパス*3も多いものの、やはりサイコパスの犯罪率は非常に高く、平均してアメリカの刑務所にいる受刑者の20%以上がサイコパスと言われている。他の「正常な」犯罪者と比べ、サイコパスの犯罪者は自らの犯罪行為に関して反省が見られず、それゆえに再犯率が極めて高く、仮釈放の取り消しも多い。
 サイコパスの一般社会における有病率に関しては専門家の間で意見の不一致が見られる。ブレアらはアメリカの成人男性の0.75%がサイコパスだとしている*4が、スタウトはその数値を大幅に上回る、25人に1人のアメリカ人がサイコパスだと見積もっている*5。ただし東アジアの国々における有病率となると数値は極端に低くなり、0.1%にまで下がると言う。
 こうした統計には見解の不一致が見られるものの概してサイコパスが圧倒的マイノリティーであることを示しているが、彼ら一人一人が社会に与える被害の甚大さを鑑みれば、彼らへの対処の仕方を一考することには大きな社会的意義があるように思われる。15人以上の女性を殺害しその皮膚を身にまとっていたというエド・ゲインや、母親を殺害した後、仮釈放の初日から殺人を再開して自らの妻含む300人以上を手にかける殺人旅行をしていたヘンリー・リー・ルーカス、拷問と虐待によって被害者をマインドコントロールし、親族間の殺し合いをさせた北九州監禁殺人事件など、サイコパスによる猟奇的で悪逆非道な凶悪犯罪を挙げ始めたらきりがない。このような残虐でセンセーショナルな犯罪はそれ自体が多大な人的被害を引き起こす上に、社会を大きく動揺させる。中にはサイコパスに関する理解不足や軽率な自己投影ゆえに、その異常な人間性を「普通の人と違ってカッコイイ」などと考えて影響を受けてしまう者もいるだろう。また健常者と同じように生活を営んでいるように見える成功したサイコパスも、明るみに出ない部分ではやはり彼らの尊大で詐欺師的な言動によって周囲の人間を無惨に痛めつけていることは確かである。このように、サイコパスが我々の社会に無視できない悪影響を与えていることを考慮すれば、我々は彼らをどのように取り扱っていくべきかという問題と向き合わねばならないということがわかる。

第2項 サイコパスの根本的原因とそれが内包する倫理的問題

 重要なのは、我々に直観的な嫌悪感を抱かせる、まるで悪そのもののような彼らの諸特徴の原因は何なのかということである。サイコパスの原因に関しては諸説あり、様々な素因が複雑に絡み合っていると思われるが、一つには情動反応の処理を担う脳の偏桃体の機能障害に基づく仮説*6があり、実際に偏桃体の損傷患者にはサイコパスの傾向が見られる。また進化心理学の観点から、社会的逸脱行為と対応した遺伝子型が存在するという見方もあり*7、古代の環境においてはサイコパスの欺瞞的方略が生存率を向上させる適応的方略であったがために現代にまでその遺伝子が生き残っているのだと説明している*8。その他様々な理論モデルが提唱されているが、全てにおいて共通しているのは、サイコパスのパーソナリティー形成には出生後の養育方法やトラウマといった社会的要因が全く無関係であり、この点で精神病や他のパーソナリティー障害と区別される。つまり彼らの反社会的パーソナリティーは完全に先天的なものであり、サイコパスは社会化や更生が不可能な生まれながらの背徳者ということになる。現に彼らの反社会的行動は物心ついた7歳頃から既に見られ、その後どのような教育やセラピーによっても改善されることはなく、加齢による言動の落ち着きもほとんど見られない。だとすれば彼らは自身のコントロールの及ばない生まれつきの脳構造あるいは遺伝子によって道徳的逸脱行為をするよう生物学的にプログラムされており、道徳を内面化する能力がそもそも欠如しているため、自らの行為に対する道徳的責任を持たないのではないかと考えることもできるだろう。
 法的には、犯罪の行為者が精神病や精神障害を抱えている場合、行為者はその行為に対して責任がないとされ、刑罰が免除あるいは緩和されることがある。例えば米国法律協会ALIの規定によれば、「精神病や精神障害の結果としての行為の際に、彼がその行為の犯罪性(不正性)を認識する能力や自らの行為を法の要求に沿わせる能力のいずれかを欠いている場合」には、彼はその行為に責任を持たない。ではサイコパスはどうだろうか。サイコパスは精神病質と訳されるが、これは病気とはみなされない。というのも、彼らは何ら医学的治療や社会福祉的補助を必要とせず日常生活を送ることができるからである。このことは彼らが健常者と変わらないほど知能が発達していて、高度な推論能力を持ち、自らの意思で行動しているように見えることからも明らかだ。つまりサイコパスは精神病や精神障害ではないのである*9。しかし前述したように彼らは道徳を内面化する能力を生まれつき持たないため、行為の犯罪性を認識する能力や自らの行為を法の要求に沿わせる能力のいずれかも欠いていると言うことが可能かもしれない。この場合、サイコパスの犯罪者はその犯罪に対して法的責任を持たず、彼らは刑務所ではなく精神病棟に送られるのが妥当であるとされるだろう。しかし彼らの犯罪は多くの場合その残虐性や罪悪感のなさから健常者のそれよりも凶悪に感じられるため、彼らの犯罪を許容することは我々の直観に反するし、またサイコパスの犯罪行為の責任を免除してしまえば、サイコパスの犯罪行為の正当化に繋がり、更なる被害を助長してしまう恐れがある。
 サイコパスが自らの道徳的逸脱行為に対して道徳的責任を持つかという問題に取り掛かるには、道徳的責任とはどのような場合に発生するのかということを考える必要がある。次節では道徳的知の概念からサイコパスの道徳的責任について論じた2人の論者の説を取り上げる。
先に注意しておきたいのは、本発表における道徳的逸脱行為とは、それが法に触れるか否かに関わらず、つまり犯罪行為に限定することなく、他者を不当に害する不道徳な行為全てを指している。というのも、本発表の目的はサイコパスに道徳的責任を帰属させることであり、道徳的責任は犯罪行為の場合に限らず、行為者が自律的に行っている全ての行為に発生すると考えられるからである。

第2節

第1項 リーヴィによるサイコパスの責任免除論

 サイコパスの道徳的責任についての議論の多くは、サイコパスが道徳的知を持ちうるかということに焦点を当ててきた。リーヴィはなぜ道徳的責任を帰属するために行為者の道徳的知の認識能力が不可欠となるのかを説明した上で、サイコパスは道徳的知を持ち得ず、それゆえに道徳的責任がないと結論づける。
 リーヴィが責任の帰属に道徳的知を認識する能力が必要だと考えるのは、理由応答性Reasons-Responsiveness*10の理論に基づいている。これによれば、行為者は、ある行為に賛成・反対する道徳的理由を認識する能力(受容性receptivity)とその理由を選択や行為に変換する能力(反応性reactivity)をどちらも有する場合にのみ、その選択や行為に対して責任を持つ。リーヴィはこれを、行為に関する道徳的理由を正しく理解し反応できる道徳的行為者のみ行為に道徳的責任があり、この道徳的理由こそが道徳的知である*11と言い換えている。ここでサイコパスが道徳的知を理解する能力を持つかどうかが問題となるが、リーヴィは以下のような理由で彼らがその能力を持たないということを論証している。まず、罪は因習的罪と道徳的罪とに分けることができる。因習的罪とは文化的権威や規則によって規定される罪だが、道徳的罪は我々の道徳的知によって判断される罪である。例えば小学生に「男の子が学校に女の子の服を着て来ることは間違っているか」と尋ねたら彼らは「間違っているが、先生が良いと言ったら許される」と答えるが、「人を殺すことは間違っているか」と尋ねたら「誰が何と言おうと間違っている」と答える*12。この時彼らは因習的罪と道徳的罪を区別しており、このような能力は彼らが成長の過程で道徳的知を身につけることで必然的に獲得していくものであるが、サイコパスはこの能力を持たない。サイコパスにとっての罪は全て因習的罪であり、彼らはある行為が不正である理由として、それが権威や規則によって禁止されている以外の理由を見出すことができない。そしてこれこそが彼らの性格を特徴づける、サイコパスに先天的に備わっていない道徳的知の認識能力なのである。したがってサイコパスは道徳的知を正しく理解する能力(受容性)もそれに反応する能力(反応性)も持たないと言うことができるため、彼らは自らの行為に対して道徳的責任を持たない。
 リーヴィに対する批判として、行為の道徳的責任を帰属する際に道徳的知は必要なく、行為者が行為に対して反省的でさえあれば行為者には責任が伴うため、サイコパスには道徳的責任があるとする帰属論者の意見がある。意図的に他者を害するサイコパスの行為には明らかに他者への軽視という悪しき意思が表れており、そのこと自体が十分に責めを負う理由になり得る。つまり問題なのは行為の時点において行為者が悪であるということであり、どのように悪になったかではない、ということだ。
 帰属論者のこうした批判に対してリーヴィは、彼らが悪badと非難されるべきblameworthyを区別していないことを指摘して退けている。彼は次のような例を挙げることで行為と性格characterの責任の相関を説明する。売れない芸術家が2人いて、Aは芸術の才能のなさゆえに、Bは怠惰ゆえにそれぞれ成功できずにいる。この時我々はAが非難されるのは不公平だがBが非難されるのは尤もなことと考えるだろう。更に、Aが良い作品を生み出せないことも我々は非難しないが、Bが良い作品を生み出せないことに関しては非難すると考えられる。この例は性格に責任がない者はその行為にも責任がなく、性格に責任がある者はその行為にも責任があるということを示しており、このように行為者の性格が行為の責任を左右している以上、行為と性格を切り離してしまっている帰属論者の考えは誤りであるとリーヴィは主張する。性格という彼の言葉が、その者に先天的に決定づけられている、本人の努力による矯正が不可能な性質のことを指していると好意的に解釈するならば、この論は確かに説得的である。サイコパスは才能のない芸術家と同じように、生まれつき道徳的知を理解する能力に欠けており、そのため悪しき性格を持っているが、それは非難されるべきではない*13彼らの性格には責任はなく、それゆえに彼らの行為にも責任はない。


第2項 グラーノンによるサイコパスの責任免除反対論

 グラーノンはサイコパスに道徳的推論能力が欠如していることは認めながらも、そのことは彼らが道徳的知を認識してそれに従う能力がないことの決定的な証拠ではないと主張し、サイコパスの道徳的責任を免除することに反対する。
 彼もリーヴィと同様にサイコパスを理由応答性の理論に照らし合わせているが、彼の結論はリーヴィのものとは異なる。まず行為の道徳的理由を認識する能力である受容性に関して、サイコパスは確かに健常者と比べるとその受容性が弱いと言えるが欠けている訳ではないとしている。というのも、サイコパスは道徳を内面化して自らの判断基準にすることはできないが、道徳とはいかなるものなのか、つまり、道徳が我々の行為の善悪を規定するものであり、具体的にどのような行為を禁止しているかという理論的認識をする能力は有しているからである。事実として、彼らは他者を欺き操作する際に相手の道徳感情を利用するし、自分の行為が道徳的に逸脱しているということも自覚している。このようなことは道徳への理解なしにはあり得ない。したがって、大きな困難は伴っているもののサイコパスには受容性が備わっていると考えられる。また道徳的理由を選択や行為に変換する能力である反応性も、サイコパスは有していると考えられる。彼らは本能に従って衝動的な行動を取ることが多いが、行動をコントロールできないのではない。彼らには自分の意思を持ち、行動の別の選択肢を考える能力がある。例えば、攻撃的行動は外部からの刺激に対して何らかの感情を伴って行われる反応的攻撃と、感情を伴わず単にある目的を達成する手段として攻撃を行う道具的攻撃に分けられるが、サイコパスは反応的攻撃だけでなく道具的攻撃も頻繁に行う*14。これはサイコパスに意図を形成し実行する能力、行動を取捨選択する能力があることを示しており、だとすれば彼らが認識した道徳に反しないよう自らの行為をコントロールすることも可能であるはずだ。ゆえに、サイコパスも反応性を持ち得る。以上によってサイコパスはその能力に困難は伴うものの受容性も反応性も有していることが論証されたため、彼らの道徳的逸脱行為に対する責任は、緩和されることはあっても免除されることはない。
 しかしグラーノンの論には論駁の余地がある。まず受容性に関して、確かにサイコパスが道徳の理論的認識をすることは可能であるが、それが内面化されることがないならば、そのような認識は道徳的知の正しい理解とは言えないだろう*15。リーヴィの指摘するように、サイコパスは道徳的規範を因習的規範と同様の仕方で理解しており、これは彼らが道徳を誤った方法で捉えているということを裏付けている。また反応性に関しても、彼らが道徳的知を内面化できない以上、選択や行為を自らの道徳意識と照合させて変換することはあり得ない。彼らが逸脱行為を避けるという選択をすることがあるのは自らの道徳意識に行為を照らし合わせたから結果ではなく、単に「逮捕されたくないから」といったような自己利益にしか基づいていない。したがって、サイコパスは受容性も反応性も持たないと発表者は考える。

第3項 道徳的知は本当に必要なのか

 上記において、サイコパスが道徳的知を持ち得るかという問題を軸として彼らの道徳的責任の説明を試みた2人の論を概観した。発表者は前述した通りの理由からサイコパスが道徳的知を正しく理解する能力を生まれつき有していないというリーヴィの見解に賛成するが、このことはサイコパスがあらゆる責任を持たないことを直ちに意味する訳ではないと考える。ただし、リーヴィが論敵とした帰属論者のように行為と性格が切り離せるとも考えない。確かにサイコパスは生物学的異常によって道徳を内面化する能力が先天的に欠落しており、こうした性格を持って生まれてしまった以上、彼らの道徳逸脱行為すら彼ら自身のコントロールの及ばない生物学的要因に端を発していると言えるため、彼らを道徳的行為者と認めることはできないだろう。すなわち、彼らの生まれつきの生物学的特徴が、彼らが真に自律的・反省的に行動することを初めから不可能にしてしまっている限り、サイコパスは道徳的行為者ではあり得ない。しかし、行為者が道徳的行為者ではないということは、彼らの行為に道徳的責任がないということを直ちに意味する訳ではないのではないか。
 例えば、自然災害や動物被害の場合を考えてみたい。我々は普通、それらがどんなに大きな被害を引き起こしたとしても、その被害を嘆きこそすれ、被害の原因である自然や動物に責任を帰属したりはせず、「仕方のないこと」「どうしようもなかったこと」として受け入れる。しかし同じような規模の被害をサイコパスという人間が引き起こしたとしたら、見方は変わり、おそらく我々の多くは彼らに責任を求めようとするだろう。サイコパスの道徳的責任を免除するというリーヴィらの意見は、サイコパスのもたらす被害を自然災害や動物被害と同じ類のものだと考えることを我々に要求していると見ることができる。つまり、彼らの道徳的逸脱行為の被害を受けることは、自然的秩序の中で生きる我々にとって不可避的な「仕方のないこと」だと認めねばならないというのである。しかし我々はサイコパスによる被害を自然災害や動物被害と同じレベルで考えることはできない。この態度の差はいったいどこから生じているのだろうか。このように考えた時、道徳的知の認識能力の有無が道徳的責任の有無を左右するという理論の限界が見える。というのも、その能力に関して言うならば、自然も動物も、サイコパスと同じように持っていないが、自然や動物による被害とサイコパスによる被害では、害を与えるものが持つ責任に対する我々の態度が明らかに異なってくるように思われるからである。
 発表者は、この2種の被害の受け取り方の差は、被害を与えるものが道徳的知を正しく理解する能力を持っている道徳的行為者であるかではなく、被害を与えるものが人間であるか否かという事実認識に基づいていると考える。そしてこの時、人間であるという事実はその生物学的意味だけでなく、社会的意味をも含んでいるように思われる。次節では、この意味での「人間である」とはどういうことかという問題をエンゲルハートの人格概念に寄り添いながら確認し、社会的な意味での人格としてのサイコパスを描き出すことで、彼らの道徳的責任を新たな視点から捉えることを試みる。

第3節

第1項 人格の社会的な意味

 エンゲルハートは、人間の生命がバクテリアの生命より尊いとか、植物は下等動物より価値が低いとかいうように、生命には価値の序列があり、人間の生命に関しても同じように区別が設けられるとしている。自己意識を持ち自らの行動を自らの意思によって決定することができる人間と脳死状態に陥っている人間は、持ち得る能力が明らかに異なるため、我々はこのような生命の在り方の違いを区別する必要がある。エンゲルハートは人間の生命を生物学的生命と人格的生命に二分し*16、前者は生物学的価値を、後者は人格の尊厳を持つとしている。生物学的生命と人格的生命の相違は、その者が道徳的行為者であるという点にある。人格personとは道徳的行為者と同義であり、「道徳的行為者として尊敬されるということは、非難や賞賛を受ける能力があり、自らの行為に対して責任があると見なされ得る、自由な自己意識を有する存在者として尊敬されることに他ならない*17」とされる。胎児や脳死状態の人間は道徳的行為者ではないため責任や義務を免除されるが、それゆえに人格としての尊厳を持たず、生物学的な価値しか有していない。
 更に人格は2つの概念がある。第1の概念は上記で述べた通りの道徳行為者としての人格であるが、彼はこれを第2の概念と区別するために「厳密な意味での人格」と呼んでいる。というのも、第2の人格概念というのは「人格の社会的概念ないしは社会的役割」であり、これは人間の生物学的生命が実際にはそうではないのにあたかも「厳密な意味での人格」のように扱われる場合を指しているからである。エンゲルハートはその例として幼児を挙げている。幼児は人格が持つ自由な自己意識を持たない生物学的生命に過ぎないにも関わらず、彼らが泣いたら何か不満や要求があると汲み取られるし、家族の中の子供として社会的地位を持つといったように、さも厳密な意味での人格のように扱われる。エンゲルハートによればこのような生命の意義の移行は、幼児が人間であり、母―子といったような最小限の社会的相互作用に参加できるという前提に基づいている。社会的相互作用の中に身を投じることができる者を、その存在者が実際には生物学的生命に過ぎないという事実に関係なく厳密な意味での人格のように扱うことは、人格的生命や、ある程度は人格であるかのように見える人間の生物学的生命の価値を強化するための一個の社会的実践である。また、人間がどの時点で厳密な意味での人格となるのかという判断は難しい場合が多く、判断を誤って厳密な意味での人格が不当な処遇を受けてしまう恐れもあるが、最小限の社会的相互作用に関わる者を厳密な意味での人格として広く扱うことでそのような恐れをも回避できるとしている。
 ただし人格の社会的な意味は飽くまで「社会的実践によって」厳密な意味での人格のように尊敬されているのであって、それゆえに道徳行為者としての義務は負わず、権利だけを持つとされている。したがって人格の社会的な意味は、行為に対して道徳的責任を持たないと言えるだろう。

第2項 人格の社会的意味としてのサイコパス

 エンゲルハートの人格概念に照らし合わせると、サイコパスは生物学的生命である。これまでの議論で確認したように発表者はサイコパスを道徳的行為者とは考えないため、厳密な意味での人格が道徳的行為者と同義である限り彼らはそれに当てはまらない。つまり、彼らは「厳密な意味で」自らの行為に対して責任がない、尊厳を持たない存在である。しかし彼らを社会的な意味での人格に移行させることは可能だろうか、また可能であるなら、その移行の際にどのような注意が必要となるだろうか。
 エンゲルハートは社会的な意味での人格という概念を導入することで道徳的行為者ではない者の権利を保護することができると主張している。つまり老衰者や重度の精神障害者、精神病患者らについて、生物学的欠陥に起因した彼らのパーソナリティーを厳密な意味での人格とは見なせないが、彼らが最小限の社会的相互作用に加わることができるという事実を考慮してあたかも厳密な意味での人格のように扱うことによって、彼らの権利を救い上げ、且つ行為の道徳的責任を免除することができるとしているのである*18
 社会的相互作用に参加できるかという条件については、サイコパスは最小限どころか十分すぎる程満たしている。そしてこの事実のために彼らを生物学的生命から社会的な意味での人格に移行させることは、サイコパスを尊厳を持たない生命から、尊敬を持って扱われる、権利は持つが行為に対する道徳的責任を持たない存在へと移行させることを意味する。しかしサイコパスは道徳的責任を免除されるにはあまりにも社会的相互作用の中に参加し過ぎているとは考えられないだろうか。彼らの先天的な能力の欠如は、彼らが日常生活を送ることを困難にする種のものではなく、実際に彼らは一見健常者と全く同じように[障なく社会で生活を営むことができるため、彼らが他者と築く社会的関係の多様性や重層性は健常者のそれと比べて少ないということはない。
 社会的な意味での人格の概念が、ある程度は人格であるかのように見える人間の生物学的生命の価値を強化することを一つの目的としているならば、その程度に応じて「生物学的生命を厳密な意味での人格として扱う度合い」を拡張することは問題がないかもしれない。つまり、特定の生物学的生命と厳密な意味での人格との近似の程度によっては、厳密な意味での人格が有している権利だけでなく、権利と義務の両方を生物学的生命に与えることが可能なのではないかと考えるのである。そしてその近似の程度はやはり生命の社会的参加の程度に求められるだろう。このような移行の拡張が可能であるならば、厳密な意味での人格と同程度に社会的相互作用に参加しているサイコパスに権利だけではなく義務が課せられることは十分に考えられる。この場合彼らは実際には人格、すなわち道徳的行為者ではなく、原理的には行為に対する道徳的責任を持たないが、人間社会の一員として社会的相互作用に深く関わっている以上、実践の場においては道徳的行為者と同じように自らの行為にも道徳的責任を持つと結論付けることができるのではないか。
 社会的相互作用への参加の程度がどのくらい大きければ権利だけでなく義務をも生物学的生命に与えることができるのかということに関しては線引きが難しく、発表者も判断を保留している。また、原理的にはサイコパスは道徳的責任を持たないが、実践の場においては道徳的責任を持つとした時、この移行後の道徳的責任はもはや道徳的責任ではなく、社会的要請によって仮想された社会的責任に過ぎないのでないかという疑問も残る。しかし仮にそれを認めるとしても、サイコパスのような特殊な生物学的生命が社会的な実践の場において道徳的行為者と同程度の責任を持ち得るということ自体に重要な意義があると考える。

結論と展望

 本発表では、まずサイコパスのパーソナリティーを描き出しその存在の社会的影響力の大きさを説明した上で、彼らの生物学的特徴に起因すると考えられるあらゆる逸脱行為の道徳的責任の帰属が可能であるかという問題を浮かび上がらせた。続いて道徳的知の観点からこの責任帰属を不可能であるとしたとしたリーヴィとその論敵のグラーノンの説を通してサイコパスが道徳的行為者ではないということを認めたが、サイコパスの責任帰属の問題を道徳的知の概念のみによって判断することにも限界があると指摘した。そこで新たにエンゲルハートの人格概念を参照し、その中の「人格の社会的な意味」の概念に着目して、サイコパスがその社会的相互作用への十分な参加によって生物学的生命から厳密な意味での人格に移行し、その結果として道徳的責任を与えられることもありうるのではないかという説を提唱した。
 しかし前節の終りに述べたように、社会的相互作用への参加の程度に応じて移行の度合いを拡張することが本当に可能なのか、もし可能だとするとどの程度から生物学的生命に義務を与えられるようになるのかという問題については、やはり説得的な論証が必要となるし、またそもそも社会的相互作用への参加の程度に応じた人格の移行という操作を行った後にサイコパスに与えられる責任はもはや道徳的責任ではなく社会的責任であるという指摘に対する反論も未だ見つかっておらず、こうした問題点を解決することが今後の課題である。
 ただし本発表において取り組んだ、サイコパスを人格ではないとみなした上で彼らの行為の責任を彼ら自身に帰属させようという試みには一定の意義があると考える。第1節にて述べたように、サイコパスの責任を免除するならば彼らの道徳的逸脱行為を許容しなければならなくなり、サイコパスの悪事を助長してしまう恐れがあるが、サイコパスの責任が彼ら自身にあるということが証明されればこのような事態は回避できる。またサイコパスを人格ではないとみなすことは、今後サイコパスの生物学的メカニズムが解明され、彼らの医学的治療が可能になった時に、彼らを早い時期から「治療」することが人格の不当な侵害であり、人格改造であるとして非難されることを免れる見込みをもたらす。人格の社会的な意味としては彼らは確かに権利を持ち得るが、彼らが厳密な意味での人格でない限り、彼らを治療して道徳的行為者にすることは彼らの生命を生物学的生命から厳密な意味での生命へ移行させることであり、このような操作は彼らの生命の価値を高めこそすれ、侵害はしていない。彼らへの「治療」は彼らの生命を尊重するための処置として正当化できるようになる*19のである。
 現実社会においてサイコパスとの平和的共存が困難であり、彼らが他者に多大な被害を与え続ける以上、我々は彼らによる被害を少しでも減らすために策を講じる必要がある。サイコパスに道徳的責任を課すことの正当化はこの一助となり得ると発表者は考える。


参考文献

・ロバート・D・ヘア[2003]『診断名サイコパス小林宏明訳, 早川書房

・ジェームズ・ブレア, デレク・ミッチェル, カリーナ・ブレア[2009]『サイコパス―冷淡な脳―』福井裕輝訳、星和書店

・有光興記・藤澤文『モラルの心理学』[2015], 北大路書房

・Neil Levy[2007] The Responsibility of the Psychopath Revisited, Philosophy, Psychiatry, &Psychology, 巻14, 号2, pp.129-138

・Walter Glannon[2008] Moral Responsibility and the Psychopath, Neuroethics, 巻1, 号3, pp.158-166

・Gwen Adshead[2003] Measuring Moral Identities: Psychopaths and Responsibility, Philosophy, Psychiatry, &Psychology, 巻10, 号2, pp.185-187

・Ralph Slovenko[1999] Responsibility of the Psychopath, Philosophy, Psychiatry, &Psychology, 巻6, 号1, pp.53-55

加藤尚武・飯田亘之[1988]『バイオエシックスの基礎』, 東海大学出版 より
 H・トリストラム・エンゲルハート『医学における人格の概念』
 ローランド・プチェッティ『<ひと>のいのち』
 ジョエル・ファインバーグ『人格性の基準』

*1:Hare[1993] p78-79

*2:中立的な言葉(「紙」「ペン」のような、辞書に書いてある以上の意味を持たない言葉)より感情的な言葉(「死」「癌」のような、感情に訴える暗示的意味を持つ言葉)の方が脳に大きな反応を引き起こし、情報を伝えやすいという一般的な事実があるが、サイコパスは感情的な言葉がまるで中立的な言葉であるかのような反応を見せるという学術結果がある。ヘアはサイコパスの言語感覚について「コートのポケットから出てくる言葉」と形容している。

*3:PCL-Rの因子2の傾向が比較的弱いサイコパスは犯罪に手を染めず、むしろ自分本位で因習的なものの考え方を躊躇いなく超えていく性質を上手く利用して社会で成功する場合があり、このようなサイコパスを成功したサイコパスと呼ぶ。しかしヘアは、彼らは犯罪に手を出してこそいないものの、法律の陽が当たらないところで伝統的な倫理の基準を大きく逸脱しているとして彼らを「隠れ有罪サイコパス」と呼ぶことを提案する。

*4:Blair et al. [2006]

*5:Staut[2012]

*6:Blair et al. [2006]

*7:Rowe [2002]

*8:Beck&Freeman [1990]

*9:日本においては、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律の第5条に「この法律で『精神障害者』とは、統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者をいう」と規定されているが、実際の事例においてはサイコパスは必ずしも他の精神障害者のよように保護の対象とはされず、その基準は未だ曖昧である。

*10:Fischer&Ravizza[1998]

*11:Levy[2007]

*12:Levy[2007]

*13:2020追加脚注: これはかなり怪しい議論と思う。「才能がないのに芸術家であること」それ自体が芸術家としては非難されるべきだ、という反論は十分理にかなっている。

*14:Glannon[2008]

*15:2020追加脚注: この「正しい」という言い方は非常にまずい気がするし、ここで言う「正しさ」が果たしてそれほど重要なのか疑問が残る。

*16:人間の中にも人格でない者が存在し、また人間以外にも自己意識を有する生命が存在するかもしれないため、全ての人格が人間であるとは限らない。

*17:加藤・飯田[1988]p22

*18:加藤・飯田[1988]p27-28

*19:2020追加脚注:これは暴論