取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

女性作家の母親描写

探してる訳じゃないのに妙に目について仕方ないのは、欠陥だからなんだと思う。母娘の確執ってのは昔からよくある定番テーマで、カタルシスを得るためかやはり女性作家が自身の経験を活かして取り扱ってることが多いけど、その一方で成功例は案外少ない気がしてる。


最近ほんとにコレが目につく。自分見つめ直し系のOL恋愛漫画だと思って読んでた『凪のお暇』が5巻あたりで突然お母さんとの関係修復を話のメインに持ち出してきて、しかもその描写が普通に失敗してるので「ん?」と思っていたのだが、まあそういうこともあるかと流していた。しかし最近人に借りて読んだ『トクサツガガガ』でも13巻付近を境として母親との喧嘩話に突如膨大なページが割かれ始め、しかもこれも『凪のお暇』と細部まで全く同じ仕方で盛大に失敗していたので、とうとう「ムムムッ⁉」と問題意識を感じ始めた(ガガガだけに)。これは何かおかしいぞ、何かあるぞと思ったのだ。
そしてこれを皮切りに今まで見聞きしたいろんなものをぼんやり思い返してみれば、女性作家の母親描写っておかしなとこがたくさんあった。


そもそも『凪のお暇』と『トクサツガガガ』で何が違和感だったかというと、作品の本来のテーマとはあんまり関係なさそうに思える「母親」という存在が唐突にねじ込まれ、しかもそれが超重要問題として大袈裟に扱われている点だ。


それぞれの簡単なあらすじは以下の通り。

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

U-NEXTポイントの余りで読んだ。いつも空気を読むのに必死の28歳OLの凪が、唯一の自慢で拠り所だったハイスペ彼氏のきつい一言をきっかけに彼氏と別れ会社も辞めて、人生見つめ直しに入る。元カレとの関係性の寛解が話の主軸。


トクサツガガガ (1) (ビッグコミックス)

トクサツガガガ (1) (ビッグコミックス)

  • 作者:丹羽 庭
  • 発売日: 2014/11/28
  • メディア: コミック

25歳OLで隠れ特撮オタクだった中村が、特撮中心に様々なジャンルのオタクと出会い交流する中で「コンテンツ」の楽しみ方を再確認していく。つまり趣味漫画。


どっちの漫画においても主人公の母親など明らかに主題の外にいる存在で、読者的には死ぬほどどうでもいい。なのに話の途中から、あたかも「この漫画を描くにあたって母親との確執は避けて通れないよね」みたいなノリで平然と対母親問題を話の主軸にすり替えてくるのである。
しかもその母親も大概めちゃくちゃ毒って訳じゃなく、娘が喜ぶだろうと思ってやることが逆に娘にプレッシャーを与えてしまう、ピュアネスタイプの母親なのだ。娘を自分の分身みたく思い込み、自分が好きなものは娘も好きだろうと考えている。こういう人はまあ結構いるだろうね、くらいのプチ支配ママ。


この唐突さとそれに似つかわしくないパンチの弱さに読者は当然うろたえるが、「ま、まあこれから納得させてくれるのかな」と読み進める。しかし読んでも読んでも全然大した話にならず、どうでもよさが募るばかりなのだ。


百歩譲って凪の方はまだ受け入れられる。自分見つめ直し漫画なので、苦手だった母親と向き合うことを通して自分を見つめ直すというロジック自体はまあわかる。でもガガガの方は本当にオタク趣味との関係浅いし、母親との確執とやらも正直言って「母と趣味が合わない」というだけの話。自分は特撮ライダー物が好きなのに母親にそれを良しとされず、ずっと母親が喜ぶピンクのスカートやぬいぐるみを仕方なく受け入れてきた。独り立ちしてからやっと本来の趣味を謳歌できるようになったが、母親には隠したまま。そんな時に母親に突然ライダーフィギュアだらけの自室に入られ、動揺のあまり一方的に絶縁を告げてしまう。この話題が4巻分くらい長引くのだ。


もう心の底から興味がなく、子供かよとしか思えない。わかりきったことだが凪もガガガも「超絶面白い」とか「深すぎ…」みたいな話ではなく、都内の会社勤め経験がある20代以上の女性にターゲットを絞ったあるあるエンタメ漫画。それゆえ普通の女性の日常的な共感をどれだけ数打って集められるかが重要ポイントになる筈だが、この「対母親ターン」に入ると決まって別漫画かのように視点が主観に狭められ、アラサー女性とは思えない幼稚な言動が次から次へと織り成されるので、読者は置いてけぼりどころではない。


社会人女性向けのあるある漫画というのは、基本的に当たり障りなく汎用的な内容が多いのだ。毎日イライラしたり悩んでるけど、理性を保ってしなやかに日々紡ぎます、でもたまに獣になりたい日もあって…みたいな感じの。22時台でドラマ化するのに最適で、批判をいちいち先回りで封じる点はweb漫画にも通ずるところがある。手堅いポリコレ的配慮も感じられ、「どう?」という作者のささやきが巻貝の中から聞こえてくるようだ。真っ当で頑張り屋な彼女達どうですか、人の心ある理性的な彼女達の苛立ち、多様な視点、どうですか、減点箇所とかありますか?


女性って男性よりも「ちゃんとしてる」ことに喜びを感じがちだ。生活能力や良識があるとか、小綺麗にしてるとか、時代の波感じ取れてるとか、でもちゃんと羽目は外せる幅の広さもありますよとか、そういう「弁えた」理性的動物である自分を歓迎する傾向がある。(それは性別的役割固定が生んだどこか卑屈な意識かもしれないし、そうではなく女性は元から理性的であることに快楽を感じる性質なのかもしれない。どちらが先んじてるのかなんて確認のしようもなく、そして恐らく互いを切り離せるようなものでもなさそうだ。)


なので凪もガガガもセオリー通りコレクトだ。いや、コレクトだった。それはもう小賢しいほどに。主張しすぎない穏当さもあるので読んでて心をかき乱されることもなく…小賢しさも鼻にはつくけど許容範囲で、「まあわかる」「わからんでもない」「確かにね」な保守的な茶番を延々見せられる感じだった。


なのに、母親が出てくると一気に共感を寄せ付けない近視眼展開になる。私は母親から真っ当な愛を受けて育った側の人間なので余計に、誇張でも何でもなく何ひとつ共感できない。私みたいに母との関係がずっと良好、という女性は結構な割合で存在していると思うのだが、そういう人からすれば明らかに著しく客観性を欠いているような自分勝手な言動を、さっきまでずっとまともだった登場人物達が怒濤のように無自覚に選び出すのだ。いい加減同じことの繰り返しだし。社交的で寛容な主人公の中村が母親にだけは攻撃的な言葉を浴びせ、そのたび後で「私は母親と同じことをしてるのでは?」という同じことをモノローグで繰り返して頭抱えてるだけ。いや母親よりあなたの方がヤバいと思うよって…。
これには違和感しか起こらない。母親に「母親らしさ」を求めまくってる。求めすぎ求めすぎ! あのコレクトはどこに行ったの!?


そして更に違和感で畳みかけてくることとして、こういう母親への過度に鬱屈とした感情について周囲の人間もみな異常なまでに理解を示して応援し、「私が間に入ろうか?」と自ら申し出たりするのだ。凪もガガガもそうだったし、他の毒親物でも親の顔ほど見た描写。


シンプルにリアリティーがない。まともな人間なら他人の家族の問題なんかにそうそう立ち入ろうとしない筈だし、第一「オタク趣味が親にバレた」ってだけの話など他人からすりゃどうでもいいし。しかも女の特撮趣味なんて別に言うほど恥ずかしくもないものだから、ゴシップとしての面白さすらない。そんな些事に親身になってあれこれ骨を折るなど、ありがた迷惑通り越して狂人と言ってもいいくらい。こんな不自然なものを当たり前のように描くのは、明らかに作者の投影と願望が滲み出ているんだと思う。


恐らく現実の母親との関係にしこりがある女性作家って、創作上ですら母親が絡むと我を忘れるきらいがある。母親というのが作家本人の内面性をかなり大きく揺るがすらしく、途端に千鳥足になって登場人物が狂い出す。ガガガを貸してくれた女性に「母親とのケンカ話が理解できないんですが…」とおずおず言ってみたところ、「私も。お母さん可哀相だよね」という返答を得たので、この違和感は私に限った感覚じゃない。そしてこういう描写をする女性作家とそれに違和感を覚える私達の間にまたがる違いは、母親に愛されたという肯定感の有無ただそれだけなんじゃないかと思う。


私は母親と趣味や性格をほとんど共有できていないけれども、私の母は私達子供を公平にあたたかく愛してくれた、くれていると思うし、よく出来た人間だと思う。彼女の頭の中を想像しようとしても一度として理解できたことはなく、つくづく私とは全く別種の人間のように感じられるが…しかしそんな不一致など些末なことと思えるほどに、言葉にしがたい特別な感謝と厚意が母親にある(ネット上で身内について詳しく書くのは好きじゃないので、話が漠然としてしまうが)。


そういう人間からしてみれば、ガガガの中村みたいに「母親と趣味が合わない」なんてことで25歳までくさくさしているのは理解不能だ。なんでそんなに母親にわかってもらいたがるんだろう。
漫画読む限り母親に愛されてない訳では決してないと思うのに、幼児期に趣味を奪われた憎悪が尾を引きすぎて、肯定感が邪魔されている。プチ毒親を持つ女の人がよく語ってるこの感覚がずっとピンと来なくて、一時期その道の大家と思われる田房永子さんのエッセイをちょっと読んでみたりもしたのだが、感じるものはある一方でやはりそれも物珍しさの範疇を出なかった。お母さんにお母さんしてもらえなかったという怒りがあるようだが、その怒りってアラサーになっても咀嚼できないもんなのかなあと不思議に思う。


しかしできないもんなんだろうな。確かに生理的に無理なレベルの人間が自分の母親だったらと考えると、私も気が遠くなる。母親観というのは壮絶に根深い問題で、共感性高い女性同士でさえそう簡単に分かち合えない。上のような私の意見も、母親と確執がある人からしてみればブッ殺したくなるくらい何もわかってない能天気発言なんだろう。確かに私が何を言おうと、お母さんにお母さんしてもらえた恵まれた者の戯言でしかないが。でも作家ならそうゆう人の視点だって意識して作ってほしい、そう求めることは読者の我儘でも何でもない筈。関係ない話に無理やりねじこんでくる程に表現したいテーマというなら、余計にそれを求めたくなる。


西村賢太も言ってたが、客観に至ってない生煮えのことって作品に起こすべきじゃない。経験を持たない人を視野から外した未熟なものになるからだ。こう考えると母との確執を持たぬ自分にも共感を覚えさせた萩尾望都の『イグアナの娘』はやはり金字塔だな。

イグアナの娘 (小学館文庫)

イグアナの娘 (小学館文庫)



ただ母親をイメージする時のこの客観性の欠如って作品としては欠陥だけど、当然ながら別に性向としてはダメじゃなくーーというかダメとか言ったところで排除できるものでもないしーー倒錯してて面白い、どこか反芻したくなる不思議な癖だなと思う。世の中にいる数えきれないほどの娘たち各々に、母親に対してそれだけ得体の知れない執着があるってことじゃないですか、それってなんか面白いよね。こういう面白さは尊重されるべきとも思う。私も今後こういう母親描写を見かけたら、遭遇のたびに楽天カードマンばりにやはり「ムムムッ」と喜んでしまうだろう。


余談だがちょっと前に大学時代の先輩(女性)が「女性作家は出産を機に作風が激変することがあるから信用できない」と言っていて面白いなと思ったのだった。
その先輩は私から見ても普通の人より女性好きな人(そもそも出産時期とその前後の作風を把握している程に好きな女性作家が複数いたのだ)だし、蔑視みたいな意味はなくただ考察から辿り着いた事実を述べているだけだと思う。実際私も同意する。男性作家って良くも悪くも変化が少ない気がするが、女性作家はわかりやすく変遷がある。この、メタモルフォーゼ感。女性作家に関しては作品の是非だけでなく作家自身の観察もしたくなってしまうところは確かにあるかも。


要は女性にとっての母親という存在の巨大さを、最近いろんなものから知らしめられているという話。
ブログでもついこないだ同じ話題に触れたばかりで、そこでは「自分を産んだ人ってやっぱ特別だよね」みたいな普通の話をしただけだが、それに付随して「顔が似てる」ってのもこの母親への数奇な感情の要因として大きそうだね。今日イグアナの娘のこと思い出しててしみじみ再認識した。同性だと顔の似具合もより際立つし、女にとっての顔ってどうしても重要すぎる人生の一大テーマにならざるを得ない。「同じ顔」って言葉じゃなく絵で表現されると流石迫力あって痛感する。


8/4 追記
偏見だが幼児期に親からのプチ支配を感じていた人って、物事を他責的に捉えがちな人が多いような。他責的というのは悪いことばかりでもないし、ずっと消えないセンセーショナルな幼児期の外傷があること自体は勿論配慮されるべきだと思うが、人生に言い訳できていいよな、と妬ましくなる時もある。まあたまに。


ところでここ数か月くらいブログをよく更新していたが、その反動でちょっと疲れた。ここにおける自分の文にうんざりしてきた感じもある。今後ブログはいくらか省エネ化したい。