取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

読書家フォビア

 文学好きを声高らかに自称する人間ほど文章が下手でキモいのは世界七不思議のひとつに数えられている。要は鈍感な文学オタクが一定の割合で存在する不思議。
 思えば「ビブリオバトル」なる行事を初めて知った時はそこに乗り込んで血の海にしてやりたい激情に身を焦がしたものだ。まあそれは悪い冗談だが、上西小百合議員の名言「他人に自分の人生乗っけてんじゃねーよ」を新聞切り抜き怪文書にして会場にFAXで送りつけたり、参加者のクローゼットの服を根こそぎアフリカの子ども達に寄付したくなったりはした。絶対やらないけど。しかしとにかくそのような愉快犯と化する妄想をしてしまうくらいには嫌いなイベントだ。学生行事くらいのはかわいいもんだが、大人になってこんなことしている連中は始末に負えない。


 例えば太宰治好きの女がひらがなだらけのポエティック有料noteで小金稼ぎをしていたり、トマス=マン好きの男がビブリオバトルしていたりしたらそれを読書失敗と呼ばずにどう呼べるのか。こういう事象がのさばったまま捕縛されないのはまさにこういう人達が業界を支えているからというのが現実だが、やはり不合理感も残る。彼らのような気質ならきっと日常の何気ない会話の中でも文学好きを惜しげもなくアピールしているのだろうが、そういう仕草が普通の他人にどういう印象を与えるかについては既に折り込み済みなのだろうか。それともそういう視点自体が無いのだろうか。いずれにせよ逞しく無垢な人達だ。こんなに屈託がないのになぜ…。


 私はいわゆる文学作品含め人並みには本を読む…と思うし、そこで読んだ一節がずっと頭に焼き付くことも、考え方そのものに影響を受けることもたまにある。しかし好きな文学作品なんかの感想を口で誰かに詳細に喋るなんてのは、昔から大の苦手であり嫌いであった。そんなことする必要は感じないし、たとえ必要に迫られたとしても必要以上には喋りたくない。恥ずかしいからだ。


 日和ったことを言うと、私は自分を正当化するために彼ら外交読書人を憎んでいる節もある。だいたい私は好きなものとか自分の考えとかを人に喋るのが情けない程下手なのだ。人と場当たり的にだらだら与太話をするのは割かし好きだが、普段好んでいるものや丁度よく考えているテーマについて質問をされたりすると急に挙動が多動的になり何も伝えられなくなる傾向にある。そのせいかたびたび人に「馬鹿そう」(意訳)と言われ、最悪な気分になったりもしてきた。そういう話題に関しては余程前提を共有した大学の知人くらいにしか、口頭で落ち着いて伝えられない。


 自分の頭ではかねて一大テーマとして頻出している考え事の一部を人前で口に出して空に放つ時、生理的な嫌悪感に近いものを覚える。それが全く自分のものではなくなるような気持ち悪さ。持論だとか趣味だとかいうものは、人に話すために揉まれるものではなく自然に自分の一部に代っているものだ。そういうものを他人との会話という文脈の中でいきなり持ち札として部分的に曝さなければいけなくなった(と感じる)時、脳にねじれが発生して車輪が外れフリーズする。恋人の有無なんかより余程プライバシーに踏み込まれた感覚がして狼狽える。だが答弁はしなければ、という号令だけが乗り手のない頭を突き動かし、器官の接続不良の不快感で体が粟立つ。気づけばつまらない人間がそこにいる。こんなのは自分じゃない、とも思う一方、いやむしろこの吃りこそ自分の本体かもしれないという直観もあり不愉快だ。


 自分がどう見えるかを過剰に気にする小人にとって、会話は考えることが多すぎる。例えば最近面白かった本を雑談程度に訊かれた時に、うっかり「マルクス=アウレリウス=アントニヌスの『自省録』です」とか答えてスノビズムをまき散らすことを私は恐れる。そんなんされたら反応に困るしウザすぎるだろう。しかし嘘も吐きたくないので最近読んだ面白い本の中からできるだけ会話相手と話が弾みそうなものを思い出し選ぼうとする(漫画はそういう時にとても便利だ)が、相応しいものが何も発見できなかったりする。会話は止まり不出来の苦痛だけが残る。


 本当のことというのは複数あり優先順位がついている。一番先に頭に用意された本心をそのまま躊躇なく相手に伝えるためには、相手との関係性が必要だ。場合によっては別の本心(人によっては虚偽)を選ばざるを得なくもなる。会話におけるこうした手順は誰もが多かれ少なかれ踏んでいる手順だが、自分はこの過程のストレスに人よりちょっと敏感だと思う。関心を引くことを言いたいという矮小な意欲は旺盛のくせに、話術がそれに追いつかないので馬鹿を見る。改善しようと試せば試すほど下手になってる感じがする。


 しかし文学とかいうものは、こういう小人共が幅をきかせるフィールドなのではなかったか。というかこういう性分だから自分の望むタイミングで落ち着いて文を書きたくなるのだろうし。


 読書家を自称する人達の中には実際に毎日1冊本を読んでるとか、世界196カ国の小説制覇してるとか、そういう私とは比較にならない次元の読書家も大勢いる。単純にすごいし偉いと思うが、中には「なのにどうしてそれなの?」と言いたくなるような人もいる。結局は数ってあんま重要じゃないのかもしれない。どう考えてもめちゃくちゃに性格が悪いクズそのものの小説家達が書いためちゃくちゃに性格が悪い小説をありとあらゆるまでに読破しているはずなのに、どうしてそんなに無邪気にワクワクしてられるのか。それともその態度は仮のペルソナなのか? そうだとしたら怖すぎる。
 彼らの広い見聞をもってすれば世の中には私のような読書家嫌悪の人間が一定数いることくらい認知してる筈だが、私達についてはどう思うのか。蛆虫だと思うのか、それも面白いと思うのか。恐らく後者だ。少なくともポーズの上では。彼らには余裕がある。文化的余裕。それを見せつけるのが好きなんだろう。教養だとか文化だとか言いながら、それを持たない他人を憐れむのが好きなんだろう。あ~むかつく! やっぱり集会に怪文書を送り付けるしかないな。でもかく言う私も学部卒クソ文系だからなあ…。






 芸術の世界にまるで無関心な人間への憧れが昔からある。
 高校時代ほぼ毎朝一緒に通学していた理系でスポーツマンの友人は、頭は切れるが国語の教科書以外で小説というのを一切読んだことがなく、聴く音楽や好きな有名人なんかを尋ねても何とも卑近なものばかりぽわぽわ挙げる人だったが、そういう清々しさにたまらなく惹かれた。彼女が好きなもののうちに私が良いと思うものは一つもなく…彼女が可愛くて好きだと言う、いかにも大麻やってそうなアイドル女優なんかより彼女自身の方が余程魅力的だったが、彼女がその女優を好きだという事実を想う時どうしようもなく良さを感じた。


 頭から爪先まで1本の線でピンとつながってるみたいに簡潔でクリーン。昼寝してるライオンみたいにかっこよくてかわいい。ノイズだらけの自分とはまるで正反対で、だからこそ好きになったり深く知ってみたくなるけど、こういう興味は大概の場合叶わない。正反対だから理解できずに終わるのだ。本当の優先事項をいつまでも言えないだるさと寂しさで。彼女とももう2年連絡を取っていない。