取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

虚構日記・空想編

 仕事帰り午後8時のくたびれた電車に強烈な香ばしいチキンの匂い。それも、揚げて香辛料をまぶした劇薬のチキンだ。考えるより先に刺激が鼻から舌に伝わり、よく知った脂っこい味が涎をだらっと分泌させる。目線は下ろしたままチラリ辺りを見渡すと向かいの長座席の右端に見慣れたファストフード店の紙袋を抱えた中肉中背の中年男性、略して3中が眠そうに座っている。縒れたスーツに疲労を感じさせるしかめた眉。それを見て「成る程」と合点しながら目線を戻し、もう一度鼻腔を広げると、香ばしい肉の匂いが今度こそ体の中の管をググッと通る。お腹が空いている時に嗅ぐと羨ましくて妬ましい。だがわたしはこういう時間が意外と好きだ。車内はジャムのように混んで湿っているが、見知った人間は誰もおらず、皆俯いて顔すらまともに見えやしない。それでもわたしにはこの人達の頭の中が今わかる。みんな俯きスマホを触っていても、頭の隅で実は密かにこの強烈なケンタッキーフライドチキンの匂いの発生源を探している。そしてわたしと同じようにこの中年男性を見つけ出し要領を得て、旨そうだなあとか臭いなあとか俺も帰りにローソンでからあげクンでも買おうかなとか思ってるのだ。
 これが好きだ。他人の、それも目の前の見知らぬ他人の考えていることを想像する時、そしてその想像に確定を与えることができる時、わたしはフフフとうれしくなる。この人達同じことを考えているなと思うと、彼らが無性にかわいく見えてくる。その一方で、他人が本当に生きていることに対するこの新鮮で摩訶不思議な驚きが、じんわりと胸に宿って肉迫する。その静かな浮遊感が好きだ。本当によく思うんだ。考えていることがわかるのに、なぜこの人達は他人なのか?……。


 電車は夜の燐光である。藍色に暗く沈んだ窓ガラスの夜景に、わたしたちが半透明の白い輪郭で朧に朧に浮かび上がる。つり革に手をかけデクの坊みたく立ち尽くしつつ、正面に立つ透けた自分の影をぼうっとぼうっと見つめていると、高校生物のとある1ページが開かれて、まるで電車は植物細胞、窓は液胞、我々はミトコンドリアであるかのように、そんな風に思えてくる。ばらばらの我々が電車という一つの生命単位を形作って、宵闇に発光しているように。
 時々わたしはわたし以外の何者かに交代することを考える。例えばケンタッキーの袋を持ったあの3中サラリーマンとわたしが突然にいま入れ替わること。道端を横切る猫を見て、自分が猫だったらと想像すること。母親を理解できない苦しみの中で、母親の人生を頭の中で経験すること。などなどだ。実際にこうしたことが出来たならわたし達はもっと上手くやれるんじゃないかとも思う。どれだけ生きても自分以外のものになれないのは何故なのか、とても不合理に思えてならない。
 男という漠然とした大きな対象に交代することも定期的に考える。女の肉体に産まれて良かったとわざわざ思ったことはあまり無い。いや、一度もない。だから自分が生物学的男性として誕生していたパターンの世界のこともよく考える。実はさっき、この電車に乗り換える前の電車で、空席に腰かけようと近づいたところ、後ろから突然腕を捕まれた。振り返ったら腰の曲がった醜悪な老女がこちらを見上げ、わたしを憎悪の限りに睨んでいた。ぎょっと狼狽え咄嗟に「すみませ――」と声を出したが、その時には老女はもはや目も合わせず耳もくれずに素早く席を奪い取り、それからずっと、席でうーうーうーうー唸っていた。眼を逸らしてその手前に立ちながら、地獄のように居心地悪い時間が流れ、やっと乗り換え駅に着いた時、ほっとしたと同時に汗がだらだら額を垂れた。なんて落ち着かぬ不快感か。そして今しがた出来事を分析してみれば、もしも私が男だったらああいう経験はしなくて済むかもしれないと思った。さっきのあれは、そういうタイプの出来事だった。
 ……こういうことは山ほどある。男だったら帰りの夜道をこうも哀れに怯えずに歩けているだろうなとか、家賃ももう1万くらい安く済んだろうなとか、体が風船みたいに膨らんで、子宮内膜がしきりに腹部を圧迫する日が月に1回来ることも無いとか。それは七面倒な荷物を一挙に捨て置く解放感に間違いない。空想は無益で、何の手立ても示してはくれない。しかし、諦められない仮想があるのだ。
 22歳を過ぎたあたりからたまに、一人の人間の人生への怒りと欲望がアンビバレンスに込められた重い眼差しを、赤の他人から突然差し向けられることがある。今日みたいに手を引くとか捕まれるとか肩をぶつけられるとか、身体的接触を伴って差し向けられると当然特にゾッとする。彼らは人間でいながらにして、死にかけの蛇のような双眸なのだ。固く冷たく、醜い……あまりにも!  あの眼を見ると突然わかる。自分という存在のどの点がどう恨まれているのか。それらが唐突に、しかし手に取るように立体的に理解でき、また自分もいずれその感覚に呑まれていくようになるという恐怖の直観が、ざぶんざぶんと背後で濁流みたく逆巻いてくる。
 恐らくあと5年くらいしたら、このような理不尽な経験は徐々に頻度・程度を減らしていくだろう。それはわたしがこの先の5年間で世の中の構成員としての貫禄を加齢によって帯びていき、社会構造的に軽んじられにくい存在へと変異していくからである。たとえ私自身が内面的に変わらなくとも、自動的にそうなるのだ。そうなった時わたしはやはり今の健気さ、公平さを失って、図々しく嫉妬深くなり、あの老女に近い存在へと漸近していってしまうのだろうか?……それは身の毛のよだつ想像だ。このようなことを考えると、人が存在することはやはり遍く罪かもしれないと思えてくる。わたしの想像は都合の良いことばかりだ。いろいろ交代はしたくても、自分自身が変わっていくのは嫌であり、自分がこの先の人生でなり得る可能性がある存在に、今すぐ変わるのは嫌なのだ。
 でもわたし、男だったらななんて思えど、この調子では男に産まれてもずっと違和感を感じているだろう。四六時中自分にしっくりきている人が一体全体どれくらいいるのか。わたしは時に自分の脳がもつれた毛糸玉のようになっている感じがするが、他の人もきっとそういう時がある。男も女も公共圏によって必要に迫られた区別に過ぎず、不可能なことを考えたって仕様がない。
 でも……ありえた筈だ。ケンタッキーの袋を抱えたくたびれたオジサンを横目に映して考える。母親の中で精子天文学的に競争する時、計り知れない程に凡庸な奇跡の一例としてわたしという女が生まれてきたのと同様、わたしがこの男性と同じ運命の下に生まれつく場合だって。お世辞にも美しいとは言われない存在、美しかった時間が人生を通してほとんど無いような存在として生まれつく可能性だって多分にあった。石が垂直に落下することと同じくらいの摂理としてさえ。それなのにわたしは彼と自分をまるきり違う生き物と捉え、彼らと入れ替わったら世界認識がどれだけ変わるか、てんで一向に測れずにいる。
 

 鞄のスマホの振動が、空腹と眠気で揺らぐ頭を刺激する。取り出して見ればマッチングアプリの男からの通知だ。
『今週の日曜会いませんか?』
 タップすらせず見ない振りして鞄に戻す。2週間前のアポ相手だが、この人にはもう会わないと決めていた。というか、やはりもう誰にも会うのはよそうかとも考えている。
 アプリを始めた理由は焦燥感のほかにない。即物的な出会いに抵抗はあるがどうせ独り身、数回くらいならやってみるのも良いと思った。しかし何人かと文面でやり取りし、そのうち数人とは食事を共にしてみたものの、寄ってくる男性の誰も彼もコミュニケーションが上手くいかず、卑屈なくせに上から目線の節があって難しい。噂には聞いていたが、女がこういうアプリをやると「いいね」こそ無尽蔵に来はすれど、気色の悪い提案や迂遠な侮蔑もひっきりなしに飛んで来て気分が塞ぐ。彼らは自分達がモテないのを顔や稼ぎのせいだと思ってるかもしれない――実際そういう面もいくらかあるのだろう――が、彼らがモテない最大の理由は、言動ひとつひとつに女からの見返りを求める自分本位な態度にあると改めてわかった。彼らが優しさだと思って女性に与えているものは、優しさというよりも自己満足的な欲求の先回りの見せつけに過ぎない。君のためにこれだけのことを俺はやってあげたから、わかってるだろうね、という恩着せがましい賢しらな態度。与えられたのだから返さねばならないというお返しの義務感や罪悪感を生じさせ、相手を道徳的に繋ぎ止めようとする小狡い思惑が、全くもって隠せていない。
 この小狡さが本当に嫌いだ。窓を閉めても入ってくる虫みたく鬱陶しい。というのも、このような態度は優しさというものへの極めて表層的で実体を伴わない浅薄な理解と、「女にはこうしておけばいい」と言わんばかりの舐めきった"スマートな"女性観、その2つの地雷を同時に踏んでしまっている。優しさどころか、こちらを個別の存在として見るつもりはないという宣言に近いくらいだ。そっちがそう来るならばわたしも相手を個別の存在として特別に捉える義理は無くなるので、関係の発展を避けるため、けしかけられたお返しの義務を無視して放置する。すると向こうは大概逆上してくる訳だ。
 原因は視座のレベルが違うこと。相手はお返しの義務を仕掛けようと物をくれたり食事を奢ったりとアクションするが、わたしはそれを頼んでおらず必要とだってしていない、しかもお返しの義務にも同意してないからアクションに対してお返ししない。ところが相手はお返しのキャンセルに同意してないからここぞとばかりにキレてくる。俺がこれだけしてやってるのに何も返さないなんて人間としてどうなんだと。……言いたいことはわかるけど、対話するのも面倒でリスキー。キレる男に歯向かえば相手を余計刺激して、下手すれば暴力やストーキングに走られかねない。キレる男かそうでないかを見極める審美眼にも絶対は無い。ゆえにフェードアウトが消極的な最適解だ。時々連絡の催促が来る。無視してフェードアウト。もっと時々、「何が駄目ですか?」と確認が来る。これには婉曲表現で回答する。「駄目というか、話していて合わないかなと思いました」。この時点で不貞腐れてキレてくる相手にはフェードアウト。しかし後学のためと更に具体性を求めてくる人もいる。極力答えるが、どこまでの率直さなら穏便に済むかはわからない。だんだん答えるのも面倒になる。これもフェードアウト。だんだん。フェードアウト、フェードアウト、フェードアウト。
 噛み合わないと見え透いているやり取りばかりで苛々する。だがしかし、……ここまでわかっておきながら、互いを擦り合わせ歩み寄ろうと思えない自分への、この情けなさも何なのか。思えばなんたる不誠実、いったい何様のつもりだろう。なぜ自分を選ぼうとしている者の中から選ぶことが出来ないのか。この年になってまだなお自分のことを棚に上げ、お高く留まっていたいのか。説明を求め知りたがっている相手に対し、リスクを取って説明を放棄する自分で居続ける、それは罪悪ではないか。いや、これもお返しの罠、相手の術中に嵌められている? そうはさせるか! こんな特殊で限定的な規範空間で、わたしがそこまでやる義理はない。いやしかし、これは空間ではなくわたし自身の内面的な問題だろうか? まさに矯正が必要な核心? しかし譲ってはならないものもあるだろう………。


 最寄り駅まであと1駅だ。
 つり革を握った手を緩め、ガラスの中の薄らぼやけた自分を見つめる。密室にごった返して人が居るのに、誰も彼もが言葉を発さず俯いている。チキンの臭いと汗の臭いが、清涼な夜気と混ざることなく密封されて運ばれていく。しかし目を瞑ったらそれも溶暗、夢も現実も大差ない。夜陰も眼前暗黒と同じ仕方で現れる。
 例えばさあ。このまま眼を瞑っていたら、この電車がわたしをどこか別の世界へ連れて行ってくれやしないか。そういうこともたまに思ったりする訳。わたしが眼を閉じてる間に同乗者はみんな死んじゃって、生きているのはわたしだけ、そしてわたし以外に誰もいない大いなる七色の宇宙銀河、打ち捨てられた宗教都市、最初に産まれた乳の川、そんな場所をゆらゆら一人で泳げたらなんてね。
 宵闇と他人は人をチープな気分に誘い、わたしもまた例外でなくチープになる。どこの馬の骨とも知らぬ男のアポを断るだけで、高価になれる筈もない。電車を降りたらセブンに寄ってななからを買おう。もう随分とさっきから、そういう口になっていた。他人がわたしに影響を及ぼし、わたしが他人に影響を及ぼすことがある、それだけで十分壮大なことだと、結論づけるまでである。