取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

パーマネント・インテンション

 2020年春頃からの未曾有のパンデミックにおいて、運の良いことに自分自身は現在まで大した実害を被っていない。無論、一刻も早く終息してほしいと心の底から哀切祈願しているが、とはいえ某ウイルスを契機に始まった多くの文化や風俗の中で、終息後もある程度は残存してほしいなと密かに思っているものがある。マスク文化だ。


 マスクで顔が隠れることには胎教さえも喚起させる摩訶不思議な安心感があるので、毎日マスクをつけていても無礼にならない世界線が思いがけず始まったことに関してだけ言えば、私個人の内観では寧ろ気楽で喜ばしくもあった。元々凝った化粧をする訳でもないけれど、マスクの日常化によって化粧の必要性が急激に薄まったこともこれ幸いだ。顔に粉が塗られることに起因する些細だがしかし恒常的、生理的な不快感が雲散霧消し、より野生に近い姿で生活を送って差し支えなくなったことで、自分のアニマルスピリット*1が喜んでいる感じがする。動物はマスクしてないけど。


 とはいえあんまり見た目に頓着しない生活が習慣づいてしまうのも難ありだ。良い服を買ったから外に出たい、化粧が上手くできたから人に会いたい…そういう素朴ながらも闘争的、目的論的なモチベーションが人の生活を健康にする。


 マスク生活が始まる少し前、もう1年近く前だが、コンタクトレンズを毎日つけることが何となく物臭になり、また多少レンズの節約も兼ねて、眼鏡で出勤していた時期が一瞬ある。そこそこの近眼なので、眼鏡をかけるとレンズを介した光の屈折により端から実際以上に目が小さく見えるようになり、早い話が顔がより野暮ったくなるのだが、まあそれでもいいやと思う程度には、意識がかなり低下していた時期だ。
 職場の女性にも「最近よく眼鏡してるよね」と指摘されたので、「なんかこの頃、どうでもよくなってきたんですよね」と正直に話した。するとその人が悪戯っぽく「成る程。まあ今後イケメンが職場に配属された時にまた眼鏡取ればいいしね」と言ってきて、思わず大笑いしてしまった。人生経験を感じさせるユーモラスな発想だ。職場に美男もしくは美女がやって来た途端に社内の人間が一斉に眼鏡外してキメ始める想像をすると、インド映画みたいに愉快で実に面白い。しかしロックオンがわかりやすい人というのは本当にいるよな。女性だと特に「本気」の出し方が身なりに顕れるので、客観的にわかりやすい。
 自分が眼鏡を外した時にそういう詮索を周囲にされるのは流石に恥ずかしいし、図らずもその後すぐくらいにマスク生活が始まったので(マスクと眼鏡を両方つけると眼鏡が曇るし色々と不利益が多すぎる。そして二者択一になった時、優先すべきは当然マスクだ)、眼鏡生活は一週間程度で光陰のごとき終焉を迎えたが、「自分の顔への心遣い」が象徴するものについて、コミカルな気付きがもたらされた良い機会(?)だった。


 ところで知人と会話を切り出す時に、私はよく「最近いいことあった?」という文句を使ってしまう。悪癖だ。こういう漠然とした質問をされると、芸能人でも何でもなく、エピソードトークを常に用意している訳ではない私達は必ず虚を衝かれてしまい、相手は大抵「うーん、何だろう、そっちはいいことあった?」と困ったように訊き返してくる。そして私が「いや何もない」とアホみたいに答えて会話が終了し、沈黙が漂うという訳だ。またやっちまった、と反省する。こういう会話を何百回と繰り返して学ばないのが自分の短所、孔子が言うところの『過ちて改めざる、是れ過ちと謂うなり』だが、いざ実際に人に会うとなぜかこの質問が伝家の宝刀みたいに毎回いの一番に頭に浮かんできて、同じ実りのない会話をまたしてしまう。「最近どう?」よりはマシかと思って長らく多用していたけれど、「いいこと」という中途半端な漠然性の方がかえってより答えに窮するかもしれない。
 反省としては、経験則を活かし予め質問の跳ね返りを予想して、まず自分のエピソードをきちんと用意してから相手にそれを訊くべきだというのがある。加えて本当は多分、「いいこと」ではなく「ムカついたこと」をも引き出せるような言い回しで尋ねた方が話に油が乗るのだろう。この間また懲りずに友人に「最近のいいこと」を尋ねた時も、絞り抜かれて提出してもらったのは結局「最近のムカついたこと」の話だった。


 なんでもその友人は、彼女の会社の同僚女性が近頃妙に浮き足立っている気配を肌に感じていたところ、埼玉在住だった筈のその同僚がつい最近都内に引っ越していたことが発覚し、更にその矢先12月24日クリスマスイブに会社を有休で休んだと言うのだ。「これらの事実が符号して導き出される結論は1つ」と、彼女は碇ゲンドウさながらの神妙な面持ちで話してくれた。
 工藤新一にも匹敵する推理力でたったひとつの真実を見抜いた彼女は、同僚女性がクリスマスイブに休みを取ったことに腹を立てている訳ではなく、自分とその人の状況を比較して妙齢の女性としての危機感を感じていた訳でもないと御膳を据えた上で、「でもクリスマスイブ休むって恥ずかしくない? 絶対周りに勘づかれるってわかるじゃん。私にはできないし、しょうもない匂わせやめてほしい」と、どうしても腑に落とせない痼を感じているようだった。
 よくわかる。恐らくその同僚の女性は、周囲に好奇の目でプライベートを確信される恥ずかしさなど軽く一蹴できる程の多幸感や超越的精神を持ってクリスマスイブに堂々仕事を休んだのだろうし、それだって本来は非難を買うようなことでも全くないが…我々はそういった他人の浮かれ心地や面の皮の厚さを心中で冷徹に嗜め続けるプライドによって自分を保ち、生かされている。当然ながら友人の気持ちの方が私はより親身に深く理解できた。


 この話が面白かったので、ちょうど話す機会があった別の友人にも意見を聞いてみた。この友人はゲーム実況の視聴が趣味の男性だが、彼もまた面白いことを言っていた。
「わかるよ。毎日投稿が1つのハードルになってる実況者なんかは、クリスマスやイブ当日*2にはここぞとばかりに生配信して、自分が寂しい独り身の男性実況者であることを見せつけて視聴者の共感や支持を得ようとするけど、奴らは多分26日とかに本当のクリスマスをやってる。彼女には『ごめん、こういう人気商売だから』とか詫びを入れて、彼女も『うん、視聴者が第一だもんね』って理解を示す、そういうやり取りを絶対してる。俺はそこまで妄想している」。
 成る程、こうなってくると虚実の判断がつかないネバーエンディングの疑心暗鬼だ。彼の妄想にも妄想と切り捨てるに躊躇う凄みがあって妙に納得させられた。というか、何割か、ともすれば過半数の人々の紛うことなき真実と思う。



 他人の行為についての認識を自分の頭で組み立てる時、私達は意図によってその行為を同定することが多い。例えばある人がスーパーでジャガイモを買う。にんじんを買う。豚肉も切れていたのでカートに入れる。ルーは既に半分開けたものが家にあるから今回は買わない。これで良しと会計に向かおうとしたところ、粋な隠し味にこの前テレビで見たアレも入れてみようとふと思い立ち、売り場に戻ってクミンを手に取る。…この時、動作としては食材それぞれを買う買わないかの決断が5回ある訳だが、私達は普通わざわざ上記のように一個一個の動作を律儀に描写したりはせずに、これら一連の行為をひとまとめにして「カレーの材料を買う」と表現する。つまり、行為の本質が意図にあると考え、意図を基準に5つの動作を1つの行為と判断しているのだ。


 ダブル・エフェクト(二重結果論)という言葉がある。ある行為がもたらす帰結というのは「意図された帰結」と「予見された帰結」に区別することができるが、行為の主体が責任を持つのは「意図された帰結」のみであり、「予見された帰結」…つまり「それをしたらこういう結果になるというのは理性的には想像できるが、わざとやったのではない」ことに関しては、行為者の責任を追及できないとする論だ。要するに過失なら仕方ないよね、誰にでもミスはあるよね、次に活かしてくれればいいよ、という仕事の怒られでよくあるやつだ。現実の世界だとやはり先述の孔子の言葉のように1回目は放免されても2回目やらかしたらブッ殺されたりするが、哲学の世界はイデアにあるのでそういうことはない*3。臨床においては安楽死や妊娠中絶の議論なんかでよくこのダブル・エフェクトが応用される。患者が苦痛で死にそうになっている時、例えそれが長期的には死を早める作用を持つとしても、一時的に痛みを和らげるために医者が鎮痛剤を投与したとする。この場合医者は患者の死期を削っているという点で責任があるように見えるが、医者の投薬の意図は「痛みの緩和」という救助にあるので、この医者は正当な医療行為をしたと言える(少なくとも悪いことはしていない)、みたいなことだ。


 説得力のある話だが、しかし他人の行為の「意図」と「予見」を冷静に的確に区別するというのは、実際は途方もなく難しい。イケメンが配属してきた途端に同僚が眼鏡を外し出したら、私達はその同僚の行為に十中八九、意図を見出す。クリスマスに会社を休まれても意図を見出す。しかしクリスマスにYouTubeで生配信され、生活のため視聴者のためにきびきび働いている本人の姿をこの目でしかと見たとしたって、結局その背後に隠された意図を見出す。それはただ下世話な娯楽的勘繰りと片付けるには足らない程の、我々の体の一番深いところからうねうねと伸びる、不可抗力的で不気味なとこしえの運動だ。人と人との間で伸び縮みを繰り返しとぐろを巻く。他人の行為を「単なる無意味な過失の結果」と簡単に処理することを頭が拒み、何とかそこに意図――本質的な理由――を見出そうと、あれこれといつまでも画策する。そして本当にそれが存在しているように信じ始める。


 だからこそ私達は他人のその魔の手から逃れるため、自らの意図を他人に察させないため、何する時でも素知らぬ顔して何でもいいって風を装い、クールを維持する努力を行う。マスクというのはそういう意味でも最高だ。表情という意図類推の最大因子を、衛生的な口実の下で不織布の中に隠すことが出来る。
 マスク文化よ永遠なれ。いや嘘です、夏とか不快極まりないから永遠になったら嫌だけど……どうにかこうにか、緩やかに残存してくれないものか。

*1:こういう文脈での「アニマルスピリット」は恐らく誤用だが、語感が良いので使用した。ご容赦されたし。

*2:「イブ当日」というのも妙な話だ。

*3:盛りました。またご容赦ください。