取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

人のブログも1015日

 超絶怒涛の秋めきによりもう9月も半ばになった。過ごしやすくて良い。雨さえ降らなければ今の時期が1年の中で最も生活に適していて好みだが、雨が多いのがマイナス要素として大きすぎるのが難点だ。今日も今日とて雨が降っているけれども、つくづく雨の日の外出ほど不快なこともそうそうない。「雨好き♡」とか言ってる人の頭上にだけ永遠に雨が降っていればいいと思う。


 さて私のGmailアカウントの過疎受信フォルダ「ソーシャル」に、月に1回はてなからメールが届く。「ソーシャル」フォルダというのはその名の通り、各種SNSのメール通知設定をオンにしていると該当メールがここに振り分けられるそうなのだが、果たしてそんなものをオンにしている人がどれだけいるのか疑わしいものだ。私ははてなからしか来ない。そしてはてなからどんなメールが届くのかというと、月に1度「1年前のブログ記事を振り返りませんか?」というお節介メールが届くのである。どうやらこれは「ふりかえりメール」と名付けられているらしい。要らない世話と言えばその通りだが、たまに「あれ、これ書いたのまだ1年前か」とか、逆に「もう1年も前なのか」と意外に思わされることがある。
 そして気づけばこのブログも始めて3年が経っていたらしい。ちゃんと数をこなそうと書き始めたのは1年半前からなので、実質的にはまだ2年も続いていない気がするが、ともかく開設という発端から遡ると早3年が過ぎていた訳だ。


 相変わらず過疎ブログであるものの、たまには多少なり振り返ってもいいかもしれない。このブログの最近のアクセス数ランキングはサイドバーに常に表示されているが、正直言ってこのランキングははどんぐりの背比べに他ならない。はてなの管理者ページのアクセス解析では記事ごとのアクセス数が出ないという雑魚仕様なので確認のしようもないのだけれども、本ブログのアクセス総数自体が極めて僅少なので、恐らくどの記事も「大差なく」読まれていないと推測されるという訳だ。多くの人に読まれることが目的のブログではないので、それは良い。検索に乗りやすい固有名詞が頻出する記事が自動的に上位に入ってきているのだろうし、その記事のアクセスすら関の山なので、記事の質の指標としてはあまり当てにしないでほしいというだけだ。
 それとは別に、個人的に気に入っている記事というのも勿論ある。批評記事なんかは除外した上で、今のところ私がよく読み返して「良い記事だな」と自薦できるのは以下4つくらい。
 

cotton100percent.hatenablog.com
未熟さが生々しいが、興味や主張の核心が浮き上がった文章であるように思う。


cotton100percent.hatenablog.com
自分のカスな部分を再確認したい時にたまに読み返す。


cotton100percent.hatenablog.com
当然ながら他の記事より意義がある。


cotton100percent.hatenablog.com
今のところ1番気に入っているが、誰にも何も言われなかった。


 始めて1年くらいは初期設定のままコメント欄やソーシャルパーツ、はてなスターを解放していたので、ごくまれにコメントやスターがついて、見知らぬ方からありがたいお言葉を頂いたこともあったのだが、あまり反応を気にしすぎるのも考えものなので今はそうしたメディアパーツは一掃し、時々検索除け設定もしている。結果とても気楽な気持ちで続けられているが、一方で記事の主張内容に反して、ブログ自体が批判を寄せ付けない過度に秘匿した保身の設定になっている節もあり、どこか後ろめたくもある………諸々の理由で恐らくこのまま変えないと思うが。


 3年前ブログを始めるにあたり、私はほとんど比較検討なく直観的にはてなブログを選んだ。そしてブログをやっている私の少数の知人も、どういう訳か皆noteではなくはてなばかり利用している。noteの方が数段読まれやすくマネタイズに向いてるだろうに、自分の周囲の人間はそういう消費的で相対評価のプラットフォームより、内に内に閉じこもって強度を(良くも悪くも)高めたがる傾向にある。読みにくいもの、読むのに骨が折れるものを求め、自らもそういうものを作り上げたがる。
 私もそうだ。わかりやすさや触りの良さの価値も大事だが、毒にも薬にもならないものを書いたって仕方がないではないか、という思いがそれ以上に強くある。読みやすさを重要視する書き方は、他人のために文を書く人ならばそれで良いだろうけど、趣味であれ仕事であれとかくライフワークとして文章を書いている人というのは、結局は自分の満足のために書いているよう人が大多数に見える。蓋し自己の追及のために。それであれば、書いてはならないことを書き、考えてはならないことを考える、その時の自分の反応にこそ着目すべきで、鑑賞者に少しの痛みをももたらさない表現物にさしたる内在的価値は無い、と私は考えている。まあ、飽くまで私がそう考えており、私はその考えに殉じるというだけで、誰もが自分の信じるところに殉じれば良いとも同時に思うが。


 ブログを書いていると私は畢竟、物語よりも内容の方に興味があるのだというのを痛感する。美的価値より認識的価値に重きを置きがち、かつ、空想力に欠けている。しかし長けている部分もある程度わかってきたので、なけなしの良いところを伸ばす、葦のような成長方法でやりくりしていく他ない。