取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

シオラン『絶望のきわみで』『生誕の災厄』

久しぶりの読書記録。


シオラン(1911-1995)はルーマニアの思想家でアフォリズム作家。ペシミスティックで反出生的なその思想からニーチェキルケゴールあたりの大陸哲学の一派として位置づけられるが、著作を読めばわかる通りシオラン自身には哲学というほど体系的なものはなく、それどころか常に矛盾している。本人も言っているが体系よりも瞬間の真実を重要視していて、哲学畑の人が文学をやっている、という印象。


私はもう長いことTwitterシオランbotを読んで楽しませてもらっていたのだが(botアフォリズムは相性が良い)、著作自体は昔に図書館でパラ読みしたくらいに留まっていたので、今回やっと2冊買って一気読みした。買ってから気づいたけど『絶望のきわみで』はシオランが弱冠22歳の頃に著したものなのに対し、『生誕の災厄』はその遥か40年後、62歳のシオランが書いているので、2冊の間にはかなり趣にギャップがある。しかし生誕を災厄、生きることを責め苦と捉える信念に関しては一切の揺らぎがなく、人格の一貫性もこれでもかというほどに保たれていた。

絶望のきわみで

絶望のきわみで〈新装版〉

絶望のきわみで〈新装版〉

22歳の頃に書いただけあり、観念的で針小棒大、しかし自らを苦しめるものを突き止めようと必死に筆を執っている。「22歳でこんな難解なものが書けるのか」と読者として愕然とする自分もいるが、まあよく考えれば10代後半から20代前半というのはなべて作家気質の人間が一番暗く落ち込む時期であり、感覚的に研ぎ澄まされている時期でもあるので、そう驚くことでもないかもしれない。徹頭徹尾悩み多き自分を癒すために書かれており、良くも悪くも人に理解されようという気概は感じられない。
厳重に施錠された窓のない部屋で一人の青年が爆発寸前になっている、そういう本。

人間は確信のないときでさえ、自分がそのまっただなかに生き、かつ一役買ったことのある価値の世界を救うために苦しい努力をするが、これは普遍的なものを実現するために、時間の次元の虚無を克服する試みである。(p.46『死について』)

人間という私の資格は、心底、私を退屈させる。できればこんなものはすぐにでも断念したいところだが、しかし断念したら私はどうなるのか。一匹の獣か。後退は不可能だ。のみならず、私は哲学の歴史に通じた獣になるおそれがある。(p.73『完全な不満足』)

賢者は格言のかたちで自分の考えをのべ、そして忠告を与える。彼は何も見ず、何も感じず、何も望まず、何も期待しない。生の多様な内容の地ならしに満足し、そしてそのすべての結果を引きうける。こういう地ならしにもかかわらず、いぜんとして苦しみつづけている人間、こういう者のほうが私にははるかに複雑な者であるように思われる。賢者の実存は、矛盾と絶望とを欠いているがゆえに空虚で不毛だ。しかし、乗り越えがたいさまざまの矛盾に責めさいなまれる実存は、賢者の実存よりはるかに豊かだ。賢者の断念は、内部の火からではなく空虚から生まれる。空虚と断念で死ぬよりは、この火で死にたい、これが私の切望だ。(p.141『知恵の貧しさ』)

人間とはそういうものだ。つまり人間が君を信じるためには、君は君のもてるすべてのものを、さらには君自身をも放棄しなければならないのである。人間は、君の信仰の真実性の保障として君の死を要求する。なぜ彼らは、血をもって書かれた作品を賞賛するのか。それが彼らに苦悩を取り除いてくれるからであり、あるいはそのような錯覚を彼らに与えるからである。彼らは君の言葉の背後に、血と涙を見出したいと思っている。群衆の礼賛はサディズムからできている。(pp.149-150『キリストの変節』)

もしこの世に幸福な人間がいるならば、なぜ彼らは絶叫しないのか。(p.166『苦悩の悪魔的原理』)

生誕の災厄

生誕の災厄

生誕の災厄

老齢に達したこちらでは打って変わって経験的でテクニカル。老人らしい意地の悪さも加わっている一方で、自分の思考を他人に膾炙するために工夫を凝らす親切心が感じられる。文のまとまりもかなり短くなってまさにアフォリズムという感じ。書く内容が生活に根付いているしわかりやすく最悪なことも言うので、その性根の曲がり振りにニヤニヤと共感できるのはこっちだが、若い時の文章ほどの精彩さには欠けているととも言える。もう完全に人間をウイルスと捉え切っており、生半可な反論ではビクともしない頑固さだ。

自分よりも苦しむことの少なかった者に、判断を下されるなどということをどうして受諾できようか。しかも私たち各人が、いかばかり、自分こそ真価を知られぬヨブだと思っていることであろう。……(p.20)

私は他人たちの欠陥を一つ残らず備えている。にもかかわらず、私には彼らのすることが一つ残らず、とんでもないことと映っている。(p.45)

私には、ニーチェのすぐ夢中になる態度がいやだし、彼の熱情までが気に入らない。(中略)彼は人間を遠くからしか観察していない。もっと近々と寄って眺めていたら、超人などというものを思いついたり、喧伝したりはしなかったろう。この超人たるや、なんとも突飛な、グロテスクとはいかぬまでも滑稽さきわまる幻想であり、順調に年をとる暇もなければ、解脱とか、ゆっくりと熟してゆく晴朗な嫌悪感とかを身につける暇もなかった、ある種の人間の心にしか湧き出ることのない妄想、気まぐれのたぐいであった。(p.117)

人はどんな場合にも、迫害される者の側に立たねばならない。たとえ彼らのほうに非があろうともだ。ただし、その被迫害者たちが、迫害する者らと同じ粘土で捏ね上げられているのを見損なわずに。(p.166)

気に食わない連中をことごとく抹殺する権利こそ、理想国家の憲法第一条に明記されるべきだ。(p.167)

無垢な人間に出会ったりすると、そのたびに私の心は動揺し、度を失ってしまう。いったいこの男はどこからやってきたのだ? 何を探し求めているのだ? こんな人間が出現したことは、何か痛ましい事件の前触れではないか? これが、どこから見ても自分の同類とは思えない人間を前にしたとき、私たちを捉える特殊な困惑というものだ。(p.185)

虐殺された樹木。家屋が出現する。至るところ、面また面だ。人間は広がる。人間とは地球の癌だ。(p.224)

子供のころ有名だったある人気俳優の名が、ときどき脳裡によみがえってくる。誰がいまそのスターを覚えているだろう。ながながしい哲学談義などよりも、この種の些事のほうが、時間の怖るべき実在性と非実在性とを、ともどもに教えてくれる。(p.234)


鈍感な人間への当惑、怒り、生きるしかないという憤怒、苦しみへの尊敬と同時に込み上げる馬鹿々々しさ。反出生や自殺肯定を唱えながらも、シオラン自身は決して自殺などしそうにないくらい生命力に溢れていることがよくわかる。こういう逆行的な逞しさみたいなものは共感できるし、勇気すら与えてくれる。毒針のような思想だけどもそういうのって薬にもなる。
自分も(と言うとシオランに失礼だが)体系的な脳を持たないタイプの人間なので、言ってることの矛盾もあまり気にならなくて2冊とも終始面白く読めた。


最近シオランの復刻が続いている。シオランbotを見ている限り現在絶版の『カイエ』もかなり攻撃的で面白そうなので、これも復刻になってほしい。シオランは思想家にしては妙に親近感のあることばかり書くのでとても読みやすい。文の上ではひたすら厭世的だけど、本人は結構愉快な人なんじゃないかなと思う。




余談

反出生というと最近はすっかりネットのモテない男性御用達の不甲斐ない理論みたいになっている。私は全然詳しくないが、ちょっと不当な扱いの気もする。今月こういう本が出るらしいので余力があれば読みたい。

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

  • 作者:正博, 森岡
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


反出生と少し関連して最近読んだ下記のnoteが面白かった。有料noteってあんま好きじゃないしこの人も当たり外れが大きいなと思うのだが、この記事は間違いなく当たり。無料のうちに読めて良かった。呪い、という安易な形容だけが気に食わない。
note.com

10/7 追記
もう有料になってたので要旨だけ思い出すと、男性は「女によってしか幸福になれない」という他律的な幸福観を形成していることが多く、そうした世界観の中で「女をものにできない自己」を日々認識させられることで、自分にだけトロフィーが与えられない不公平感や欠落感に苦しんでしまう…という話だった。そうだと思う。ただ筆者によればこの幸福観は幻想や呪いの類い(現に女性の場合は恋人を得られなくても自分で自分の機嫌を取ったりできる場合が多いことを引き合いに出してる)だそうだが、別に幻想ではないんじゃないかという感想を持った。ていうか自分を苦しめるものが幻想か幻想でないかってそんなに問題だろうか。

この筆者は個人が抱える「病み」の分析自体はいつも冷静だけど、その先の態度が私とは道を違えてることが多くて、そういう記事は個人的に微妙。というのも分析した「病み」をただちに「向き合い、治すべきもの」として啓蒙しようとする言説になってるからだ。それは立派な心意気かもしれないが、私は悩める人は一生悩んでればいいと思う。それこそシオランみたいに。犯罪抑止の点で言っても、そういう一段上からの啓蒙が果たして有効かどうかは疑問が残る。