取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

用語の変数

唖(おし)とか聾(つんぼ)とか跛(びっこ)とか、そういう文字が私は好きだ。古めかしい差別用語だとしても、古代の障碍者が藻掻き苦しむ姿がここに鮮やかに閉じ込められていると思うから。言語には人間が味わってきた感覚が保存されている。



最近私が気に入る本には、大抵巻末に同じ決まり文句がついている。


『本書には今日の人権意識から見て不適切な表現と思われる記述がありますが、作品が書かれた時代背景や作品価値を鑑み、かつ著者がすでに故人であることから、刊行時の表記のままで掲載しております。』


保守的な良識と文化保存の志、その他多くのマネジメント。
これを読むと「私が良いと思ったのは『不適切』なものだったのか?」と水を差され怒り狂いたいような気分に…は実はあまりならない。蛇足だとは思うが、定型文なので別に目くじら立てることではない。


ただ敢えて目くじら立てるとすれば、時代背景とか故人であるとかの外在的な評価軸をわざわざ明記してほしくはない。気にならないとか書いたけど、やっぱりそこはげんなりする。「例えばいま誰かが同じものを書いたとすれば、虫同然にリンチってわけ?」とかそういうことを一瞬考えさせてくる。


差別用語などの不適切な言葉はコロナウイルスさながら入店の都度殺菌されて…結果、毒素を抜かれ形骸化した言葉だけが表舞台にGO TOすることを許される。舞台上の言葉は華やかに清潔に細分化し、修正変更され、厳密になる一方で、人が味わい言語に託した夥しい感覚史は、それこそ片隅に蔑ろにされていく。消費だとか呪いだとかの既存の言葉に突如として抑圧的かつハイコンテクストな意味を与えておいて、その後まるでそれが全会一致の語義みたいに振りかざす。


ある単語の意味が常に一義的であると考えている人達は、当然ながらその言葉を使って扱える問題のことも一義的にしか見ることができない。しかし人が引き起こす問題というのは常に複雑で常に多義的で常にどこかに遺恨が残るものであるので、言語説明と実態の間に大きな径庭が開いてしまう。言葉の上では差別的な語を用いていようと深く親密な関係を相手と育む人だっているし、逆も然りだ。本質が言葉にあるとは限らない。


この1年の間で定期的に自分で考えて文を書くようになって、こういうことを改めて強く感じている。新たな概念を認知して名前をつけ厳密にカテゴライズする行為は確かに重要で、これだという「しっくり感」がそこに伴うこともある。「これ以上は言う必要がない」こともある。しかし言う必要がなくたって、別にそこで終わりではない。終わる訳がない。それとこれとは話が別だ。美的で知性的な響きは議論を終わりにすることが出来るが、問題を終わりにすることはできず、人間は存在し続ける。


例えば「消費」というのは定義からして鑑賞のニュアンスも含んでいる。弱い者、見放された者を消費することで確かに私達は安心するし、その安心は「自分より下がこんなにいる」というポジション確認の優越感に違いない。しかし消費の際に生じる快感がただそれだけということもない。他人の弱さを目の当たりにすることで自分の弱さに気づくことが折々にあり、どうしてなのかそれは時々、妙に嬉しく心地が良かったり、救われたりする。こういう感覚も消費だろうか? 違うのか? だとしたらそれは何故か? それは何なのか? どう違うのか? 切り分けることができるのか? そもそも優越感の安心だって、非難されるべきことなのか? 断言するなら教えてくれよ。厳密な言葉で納得させてみせてほしい。しかし納得させても終わりではない。


他人のハンディキャップを意味する言葉に対して軽はずみに「良さ」を感じることは確かに不真面目な罪悪を孕んでいる。現存する他者の苦しみを忽ち美的なフィールドに置いて鑑賞してしまうことで問題はどこか矮小化する。しかし消費の際に感じるその「良さ」の内訳にはぐちゃぐちゃな個人個人の宇宙があり、誰もそれ自体を咎める資格を持たない。咎められるのは本人のみだ。私は、本当に向き合うべきは表現自体ではなく、自分自身の感受性ではないかと感じることがある。皆なかなかそれが出来ないから難しいという話だが。


私自身は普通に差別的な人間だけれども、差別用語を特定の人間に対して突き付けようとは思わないし、表現の過激さだけで印象に残ろうとする作品だって好きじゃない。しかし差別的な表現自体はやはりどこかに保存されてあってほしく、時々猛烈に見たくなるのだ。片隅に追いやられているその事実さえもがあまりに良い。