取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

下村湖人『論語物語』

論語物語 (河出文庫)

論語物語 (河出文庫)

  • 作者:下村湖人
  • 発売日: 2020/11/05
  • メディア: 文庫

 論語は「天の書」であると共に「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。
 彼の門人達も、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼等の多くは結局地の言葉しか語ることが出来なかった。中には天の響を以て地の言葉を語ろうとする虚偽をすら敢てする者があった。そこに彼等の弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通に持つ弱さである。吾々は孔子の天の言葉によって教えられると共に、彼等の地の言葉によって反省させられるところが非常に多い。
 こうした論語の中の言葉を、読過の際の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立てて見たいというのが本書の意図である。無論、孔子の天の言葉の持つ意味を、誤りなく伝えることは、地臭の強い私にとっては不可能である。しかし、門人達の言葉を掘りかえして、そこに私自身の弱さや醜さを見出すことは、必ずしも不可能ではなかろうと思う。(序文)


中学の時のテストだか問題集だかで出てきて、「異常に面白い!」と印象に残っていた本。当時近所の本屋でもアマゾンでも品切れで、もう入手できない物なんだろうなとぼんやり諦めてそれきりだったが、昨年末に河出文庫で再版されているのを発見して買ってみた。しかしよくよく調べたら入手不可どころか著作権も切れて青空文庫に収録されてる、無料素材状態の本だった。以下から読める。

www.satokazzz.com最近知ったけど、青空文庫ってこんな読みやすいブラウザのビューワーが開発されてたんですね。紙の裏写りまで再現されてるのは鬼気迫るものがあるな。


概要については序文が簡潔かつ余すところなくそのエッセンスを伝えてくれているので冒頭で引用した。形式としては『論語』における孔子の言葉から物語を発展させて、28篇の独立した道徳説話を編んでいる。全ての物語が究極的には同じく仁に関することを指し示しており、物語のパターンとしても、孔子に対して少々の疑いや虚栄心を抱いた弟子達が孔子にその心の暗さを完膚なきまで見透かされ襟を正される…という典型が繰り返されるだけなのだが、それでも1話ごとに人間劇の面白さを味わえ、また自分自身も諭されドキッとする思いになるのは、生き生きとした、平明ながらも品格の貫徹した下村湖人の筆力によるものだろう。早い話が説教本、諫言本であるのに嫌味がほとんど無く(まれに孔子の人格の出来過ぎ振りに弟子と同じく詭弁を感じたりするが)、全ての物語が読後感良く仕上げられている。


序文にもある通り孔子および儒教というのは、信仰とは縁の薄い、地に足ついた「教え」であることが徹底している。孔子自身貧しい生まれから自分を磨いた下剋上の人であり、現実的な実践者であり、一時期には故郷魯の国に仕官し政治家としても成功を治めた。ところが、嘘みたいな古代中国史的逸話だが、仕えていた君主が敵国から送られた妖婦に現を抜かして淪落し、これを機に孔子は再び魯から離れて諸国を遍歴する。隠遁ではなく遍歴というのが重要であり、その中身は詩書礼楽を究めること、弟子を育成すること、春秋諸国の君主や時には野人らと交流し進言を送ることにある。理想家ではなく渡世人だ。


孔子のように挫折経験のある大家に惹かれる弟子の気持ちは直観的に理解できる。『論語物語』に登場する弟子達は皆それぞれ鮮やかな個性を有しており、それぞれが孔子の境地に達せない地臭を残した小人たる理由がある(この心理描写が非常に緻密かつ的確で舌を巻く)が、みな孔子という人間の奥深さに魂を揺さぶられ、自らに立ちはだかる巨大な執着の巌を押し退けて師と道を歩まんとしている。孔子孔子で、彼らの精神の不完全なことを嘆きつつ、弟子として等しく友愛を向け相対している。交わされる対話の全てがひしひしと臓に染み渡るようでもあれば、自分という小人の胸倉をぐっと掴まれて激しく詰問されるようでもある。このように志高く立派な人達が時代下ること秦の頃には始皇帝によって書を焼かれ生き埋めにされたのかと思うと、怒りで指先がわなわな震え、「何が『キングダム』だよ!!」と、読んだことも無い漫画にムカついてくる程だ。
…まあそれは酷い風評被害だが、弟子という読者の投影可能な存在、ある種のオーガナイザーが配置されているために、孔子の教えがより一層平直に自分に向かってくるような感があり、正直に言って私は時折目頭が熱くなりさえした。『論語』の入門としてこれ以上の作品は無いという評判も頷ける。著者である下村湖人(1884-1955)は文学者・研究者であると同時に教師でもあるが、彼が優れた教育者であったに違いないということがこれを読むだけでも窺い知れた。有名な教養小説次郎物語』も折を見て読んでみたいが…。


全28話の中で一際感銘を覚えたのは『伯牛疾あり』と『渡場』。
『伯牛疾あり』では、病に侵された弟子の一人伯牛が、病床の淵で「病んで醜い自分を孔子は見捨てたのではないか」と猜疑を巡らし、気が狂わんばかりに苦悶しているところを、ちょうど孔子が見舞いにやって来る。慈悲のこもった声で自分に語りかけ、当時伝染すると思われていた皮膚病の自分の手を躊躇いなく握る孔子に、伯牛は罪悪とそして感謝で身が張り裂けん程に一杯になり、握りしめられた自分の手指を、孔子が去った後もじっと穏やかに見つめている。
『渡場』では、高弟である子路孔子のために渡場を探そうと聞き込みに向かい、そこで二人の隠士に出会う。遁世の士である彼らは孔子のことを俗世への未練が捨てられず遍歴などをしている半端者だと誹ってはばからない。子路は当然憤るが、内心どこか自分も師に対してそのように思う節が無くもなく、隠士の言うことも尤もであると思い始める。結局反論も出来ぬまま孔子の元に戻り隠士の話を孔子に伝え、師の思うところを直接尋ねる。孔子は答える。

「わしは人間の歩く道を歩きたい。人間と一緒でないと、わしの気が落ちつかないのじゃ。」
「山野に放吟し、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかも知れない。しかし、わしには真似の出来ないことじゃ。わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いて見たい。つまり、人間同志で苦しむだけ苦しんで見たい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路の話では、隠士たちは、こう濁った世の中には未練がない、と云っているそうじゃが、わしに云わせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんで見たいのじゃ。正しい道が行われている世の中なら、今頃はわしも、こうあくせくと旅をつづけていはしまい。」


地上を歩きながら天の言葉を語る人、というのがまさに象徴されている。自分には孔子の言葉をその言葉の上ですらも正しく理解できる能がなく、ましてや実践に落とし込むなど一生かかっても成し得ないが、語られた文言に厳として漂う真善美の風味くらいは掠めることが出来たかもしれない。身に詰まされる。



余談

齋藤孝による本書の解説に「中島敦の『弟子』も併せて読むのをお勧めする」とあり、恐らく自分も昔読んだ筈だが内容をさっぱり覚えていなかったので、そちらも読んでみたところ、私が三度の飯より好きな類の物語だった。熟慮に欠けるが豪放磊落、妬み嫉みなど歯牙にも欠けない勇猛の子路が、孔子のような厳しく穏やかな哲人に只管一途に就き従った半生を清々しく描いた傑作。

弟子

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