取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

へその緒結び

ちょうど1年くらい前に女性観に関する記事*1を書いたのだが、意外なことに未だにそこそこ読まれている。まあこのブログの「読まれてる」はつまり全然読まれてないってことなんですけど。でもこのブログにしては読まれてる。このブログにしては 。「女性の女性観」ってやはり関心を集めるテーマなのだろうな。


その記事我ながら長すぎて読み返すのがとにもかくにも七面倒だが、冗長さに耐えながら今また読めば言ってることの筋としてはわりとまともというか、普通のこと言ってるだけかなと思う。少なくともとち狂ったこと書いてるようには思わない。まだ1年しか期間置いていないし、自分の感性だから当然と言えば当然か。


ただあれからまたちょっと考えたこともある。件の記事の中で「なんで女性は他の女性をこんなに気にしてしまうのか」ということについて少し考え、そこでは「女性という絶対的基盤を共有しているという意識」と「目の前の女性個々人が持つ多様すぎる個性」との間にちぐはぐさを見出してしまい、このマクロとミクロふたつの視点が交錯する心理的抵抗を解消したいがゆえ、執拗に他の女性を観察し答えのない推論を張り巡らしてしまうのではないか…みたいな考察に着地した。この見解自体は今も特に変わってはいないのだけれども、女性が他の女性を必要以上に気にかけるのって、これに加えて別の素因もあるなと最近思うようになってきた。要は母親の幻想ってやつである。



自分は今26歳なんですが、私の母は25でもう結婚し、27で兄を産んでいる。考えてみれば空恐ろしい。私なんて今もまだまだ生意気盛りな気がしていたが、気づけば家庭を据えても何らおかしくない歳であり、事実母の結婚にはもう追い抜かされてしまったわけだ。母と比べるだけなら世代の違いで済む話だがそうではない。同級生達にだってそろそろ結婚の波第一陣が来始めて、Facebook見てると高校時代の胡散臭い同級生がもう二児の父親になり妻や赤ちゃんとのプリクラ画像を載せている。いや、そんなろくでもない奴らだけが結婚しているなら別にいいのだが、そうでもない人、当時自分と似たにおいを発していた人々までもぽつぽつ結婚し始めている。あの子がそろそろ母になるのかと考えると、時空に歪でも生じてんのか、っていう不思議な心地になるもんだ。


だがそれよりもっと奇妙で仕方ないのは、自分が母になってもおかしくない歳になるにつれ、それと逆行するように母への思慕が強まっていくのを体で感じていることだ。母である自分を想像することに対する抵抗が年々強まり、「いや私、どう考えても母じゃないから!だってお母さんっていうものは…」とムキになってしまうことだ。いつかの誕生日に母からもらった皮の鞄が今も私の部屋の壁にぶら下がっているのがふと視界に入るたび、名状しがたい思いが過る。


最近「毒親」なんて言葉をよく聞くが、見た感じあれって女性が母親について言ってるパターンが極端に多い。「毒親」つまり「子どもに悪影響を与える支配的な親」はそりゃもちろん一定数存在するはずだが、統計的なことを想像すれば彼ら毒親の性別やその子どもの性別って、どちらも男女トントンくらいになってもいいんじゃないかと思う。子どもを不要に激しく傷つける親は男にも女にもそれなりにいる筈で、子どもの性別だって彼らの態度をそこまで大きく左右するとはあまり思えない(子どもの性別が親の内面の揺さぶり方を変えてるところはあると思うし、虐待までなるとやはり女の子が対象にされることが多いだろうが)。教育態度に問題がある人間というのは、子どもが男でも女でも毒親化するものだと思う。しかし世情を見てみれば、「毒親に苦しめられた・られている」ことを語る人って圧倒的に女性が多く、しかもその毒親は大抵母親だ。(女性の語り癖とか母親側の心理は一旦置いて)娘は母親に対して過敏になりやすい、くらいは言えそうである。


宇多田ヒカルしか例に出せないボキャ貧人間なので宇多田ヒカルを例に出す。彼女の母親藤圭子(宇多田純子)は毒親ってのとはちょっと違うと思うが、藤圭子が娘を生んでしばらくすると精神的に不安定になり没交渉状態に陥ってしまったことは、娘の宇多田に強烈な影を落としている。彼女の病が完治することはなく、娘が稼いだ金で気まぐれに一人で世界を巡り、昼夜を問わず元旦那や娘に電話を寄越し、普通の会話ができる時もあれば身に覚えのない出来事についてヒステリックに責め立ててくることもあったらしい。2013年ついに藤圭子が自殺するが、宇多田はそれ以前からも折々に母親のことを歌にしていて、そこには母親への思慕と怒りと感謝が交錯した形で表れている。『Be My Last』とか『Letters』とか『嵐の女神』とか。自分の原点は母親という宇宙にあると、本人もいつか述べていた。


母親という人間が持つ毒が娘の体に根深く回ってしまうのはそうとして、しかしそれは別に毒に限った話じゃないのだ。愛情や優しさや不意に目にした可愛らしさだって同じことだ。母親という宇宙的な体から自分が生まれたという絶対の事実が、母親にだけの特有な目を持たせ続ける。


エディプス=コンプレックスの女性版としてエレクトラ=コンプレックスっていう、平たく言えばファザコンを指す用語があるが、あれって男のエディプス=コンプレックスをそっくりそのまま反転することはできていない。だって男にとっての母親と女にとっての父親は違う(今調べて知ったが、フロイトエレクトラ=コンプレックスという概念など不要だと否定しているらしい)。


男だろうが女だろうが誰しも母親という「女性」から産まれており、この非対称性ってひっくり返すことができない。や、生命科学が発展すればあるいはそう遠くない将来男性が子供を産めるようにもなってくるかもしれないが、それはあくまで操作的な文脈を持った入替になるであろうし、生命倫理問題を取り巻く一般意識などそう簡単に動かせるものではないので、やはり相当な年月を経ない限り女性が「産む性」であるという認識は強く残り続けるはずだ。みんな母親という1人の女性のお腹の中からぽこっと産まれ出てきていて、そのことがごくごくナチュラルな共感覚としてずっとある。「母親」とか「お腹」とかいう言葉が喚起する、柔らかく膨らんだ、しかし茫洋たる暗いイメージ。母親ってのは自分の原始で原子(座布団)であり、還る場所として唯一無二の極限的な存在だ。出産1か月前に母親の心臓が止まったら胎内の子供だって一緒にの垂れ死ぬわけで、こんな包含関係は母と子以外ありえない。


還りたいという気持ちを一切持たない人が、果たしてどれだけいるのだろうか。別に実の母親と交わりたいだとかそんな具体的でえげつない欲望のことを言っている訳ではなくて、もっと漠然とした回帰願望のことだ。概念としての母親を待つコップが誰にでも体の中にどこかにあっておかしくない。


男であればそれを満たせる。男は女を恋人に持つことで疑似的な母親、言い換えれば母性的な愛を得ることができるが、女はそうではない。性志向と合致しない限り女性と交わることはなく、自分のルーツである性と相まみえたり、銀行口座をひとつにしたり、血を分け合った子供を作ったりすることができぬまま、自分が与える側に回るほかない。これは何だか、不公平ではないですか。しかしかといって誰にもどうしようもないのだ。


起源への志向と性的志向の性の不一致。あっちを立てればこっちが立たず。この違いが決定的な男女の違いだと、最近ふつふつ感じ始めている。まさにこのことが女性の体に常にどこか満たされない孤独を落とし続けて、女性が他の女性をこうも湿っぽく夢追うように追いかけてしまう理由の一つになっているのではないか。持て余した回帰願望と情念が倒錯した形で実母や他の女性に向けられて、勝手に期待と失望を繰り返している。


まあちょっと考えすぎかもしれないが、それでも男になって女に受け入れられてみたいって感覚は、ある程度の女性から共感を得られるものだと思う。女が宝塚の男役にこよなく憧れてしまう心理とかもそういう部分から来ているに違いない。だっていいとこどりですもんね。いつまで経ってもセーラーウラヌスに魅了されてしまうし…。


試験管ベビーの人とかってこのへんの感覚どうなってんだろうね。シャーレの上で生まれたとかさ。性自認ニュートラル寄りになるのか、それとも案外何も変わらないのか。
こういうテーマで1つ小説を書きたいなあとこの頃よく思っている。もうちょっと煮詰めてなんとか形にしたいものだが。言うは易きだね。

*1:2020.9 非公開にしました