取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

キケロ『友情について』


再読本。大学時代に岩波文庫版で読んで大層感動し、人と人との関係性に対する考え方を15度くらい変えさせられた思い入れの強い本なので、去年講談社学術文庫で新訳が出ていたことを今更知ってお布施みたいな気持ちで買った。大西英文先生の訳で、注釈も(自分はほぼ読めていないが)非常に詳らか。


キケロ共和政ローマ末期の文筆家であり、あのカエサルと同時代人。家柄のハンディキャップを乗り越え政治家として一旦は成功を収めるが、カエサル独裁以降は苦境に立たされ観想的な生活を余儀なくされる。『友情について』はこの不遇の時期(前44年)の著作だそうだ。


形式としては対話篇で、ローマの高名な政治家ラエリウスが同じく政治家で竹馬の友だった小スキピオを喪った数日後に、彼との関係を思い起こしながら友情論を語る…という体を取っている。とはいえ実質的にはキケロ自身の友情論の代弁だろう。


主張は非常に高尚かつ清潔、略して高潔で、雲の上の賢人達の誇り高く厳格な友情論をひたすら聞かされる説教本だ。そのため現在のレビューでは「頭でっかちな綺麗事」と手酷く言われていることも多く、それも確かに仰る通りなのだが、自分はこの頭でっかちな綺麗事が好きだった。大学時代も感銘を受けたが、今になっても読後の感想は大して変わっていない。

友情は善き人々のあいだで以外ありえない。(18節)

人間にとって、不死なる神々から与えられたもので、叡智を除けば、これ(友情)以上に価値あるものはおそらくない。(20節)

自分自身に語るように、すべてを腹蔵なく打ち明けることのできる友をもつこと以上にうれしいことがあろうか。(22節)

われわれが友人に求めるものは立派なものではなければならない。また、友人のためには立派なことをしなければならない、また、求められるまで手をこまぬいているようなことをしてはならず、常に熱意をもち、逡巡は忌避しなければならない。(44節)

友情以外のものは、すべて力で勝利する者の手中に落ちる(55節)


とにかく友情のことを徳性に並ぶ貴いものとしていて、徳を備えた善き人々が友と篤い信頼関係を培うことは、人間本性にとってごく自然なことらしい。便益のために仮初めの友情を求めるなどそれはもう友情ではなく、「友情が先にあり、便益があとからついてくる(51節)」わけで、「その有益性は、たとえみずから追い求めなくとも、花が咲くように友情からおのずと生まれ出てくる(100節)」のだ。


『友情について』で認められている友情というのは、偽りも疑いも許さないかなりハードルが高いものだが、このくらい門を狭める友情論が私はやっぱり良いと思う。現実問題世間を見ると確かに産業廃棄物みたいな友情築いちゃってる人達もいるので、それはもう友情じゃなくて産業廃棄物ですよ、ということをこのくらい厳しく取り締まる人がいてもいい。


ただ初めて読んだ時から1点だけ呑みこめないところがある。

不幸な事態や不都合を回避する唯一の安全策や予防策は、あまりにも性急に愛さないこと、さらに(友情に)ふさわしくない人を愛さないことである。(78節)

判断したあとで愛さなければならず、愛したあとで判断するようなことがあってはならない。(85節)


この、「友情を築くに値すると判断した相手しか愛してはならない」説。えらく立派で崇高な友情論を語るわりには、これは自己中心的、自己便益的すぎないかと思う。この逆の意見として「いつか憎むことになるかもしれないという心構えで、人を愛さなければならない」という先人の意見が紹介されているのだが、ラエリウス(というかキケロ)的にはこれはおかしな言説らしく、そもそもいつか憎むかもしれないような徳の低い人間は最初から愛せないのだと、取りつく島もないことを言う。処世術としてはわかるがこれはちょっと違うんじゃないかなと、下賤の者からすると思う。


ただ一応この後に補足はある。そうは言っても人とは無情に変わってしまう生き物であり、信じた友が過ちを犯してしまうこともある。キケロによればそうした場合は敵として袂を分かつ時機を考えるのではなく、むしろそれに耐えねばならないそうだ。自身は友人に対して忠告しなければならず、また忠告を受けた者は自分が友人に非難されたことに苦痛を感じるのではなく、自分が過ちを犯したことに苦痛を感じなければならない。そして過ちが正されることを喜ばなければならない。…とことん立派で頭でっかちだ。


自分がこういう友情を築くことを旨としたい訳ではない。大学時代はまだちょっと自分のことわかってなかった部分もあってこのレベルの友情を夢見たりもしたけれど、そもそも自分の胸に手を当てて我が身を振り返ってみれば明らかに自分は有徳の士ではない。だからこんな矜持ある友情を実現することは無理だと思う。まあ自分の友人はできる限り大事にしたいと素朴に思ってはいるし、それは自分のできる範囲でいいだろうと今は考えている。これに気づくのに5年くらいかかったが。


あとこれも最近気づいたが、だいたいこういう過剰に気高い友情論に殊更に感動する人間というのは、自分含め陰気な奴らばっかりだ。太宰治の『走れメロス』なんかはまさに象徴的だが、あの陰険極まりないラ・ロシュフコー先生だって、友情の話になると「友人に不信をいだくことは、 友人に欺かれるよりもっと恥ずべきことだ」と急に精悍なことを言う。武者小路実篤とかもそうだ。友情というのは全ての良い関係性の基盤にあって、性愛なんかよりも余程うつくしいものだ、と頭の隅で狂信している。



論の最後に亡き友小スキピオを思って呟くラエリウスの言葉が光り輝いている。

ごくごく些細な事柄でさえ、私があの人の心を傷つけるようなことは一度もなかったし、あの人からも私が聞きたくないことを聞いた覚えは一度もない。(103節)