ステイ クローズド

だいたい悪態です。

シェル=シルヴァスタイン『おおきな木』

おおきな木

おおきな木

半年に1回くらい、無性に絵本が読みたくなる。

母親の趣味で幼少期にちょっとした絵本英才教育を受けていたためだろう。今でも書店に行くと絵本コーナーにちょっと足をとめてパラパラ読んでみたりする。周りは大抵親子連ればかりで、併設されている遊び場の積み木を手にMonkeyさながらウキャキャと遊ぶ子どもの3メートル横で怯えるように絵本を棚から取り出し取り出ししてる時、自分がすっかり許されない存在に成り果てたように感じる。

 

とはいえ流石に私もいい大人なので、『ねないこだれだ』とかを読んで喜んでいる訳ではない。最近はいわゆる大人向け絵本を読むことが多くて、これはそのジャンルのベストセラーだそうだ。某サイトで大人向け絵本のおすすめ第1位になっていたし、「世界一受けたい授業」でも取り上げられたことがあるらしい。

 

作者のシェル=シルヴァスタイン(1932-1999)はアメリカのイラストレーター・シンガソングライターで、グラミー賞も受賞している。顔写真を見るとまあまあいかついおじさんだ。

代表作であるこの「おおきな木(原題:The giving tree)」は1976年に本田錦一郎氏によって日本語に訳され、こちらの翻訳も評判が良かったようだが、訳者物故のため村上春樹の新訳となって2010年に改めて刊行された。私が読んだのも村上春樹版。村上春樹はほんといろんなところに現れてきますね。

 

あらすじ

1本の大きなりんごの木があり、その木はある少年が大好きだった。彼は毎日木のところに遊びにやって来て、木登りしたり葉っぱで冠を作ったり、体を預けて眠ったりした。木はそれで幸せだった。

しかし時が流れるにつれ、少年は木のところに来なくなる。久しぶりに姿を現した少年はもう大人になっていて、木と遊ぼうともせず「金が欲しい」と木に迫る。木は金など持っていないが、「私に生ったりんごを売ってお金にしなさい」と言い、少年はそれを聞いて1つ残らずりんごをもぎ取り金にする。木はそれで幸せだった。

中年になると家がほしいと木の枝を切り、老人になると船がほしいと幹を切る。木は少年の望むがままに身を与え、ついには切り株だけになる。それでも木は幸せだろうか——。

 

シンプルな筋書ながら、非常に胸が締め付けられる。 

少年(もう老人になっている)が「船を手に入れて遠くに逃げたい」と言ってきた時、ただでさえ滅多に訪れない少年が遠くにいってしまうなど木にとっては寂しいに違いないのに、木は惜しみなく自らの幹を切るように促して「それで遠くに行って、幸せにおなりなさい」と言う。最後に少年が木のところにやって来た時、木は「ごめんなさい、もうあげられるものがない」と言う。

 

木は母親、少年は子どもを象徴している、と考えることはとても自然な発想であるし私もそのように感じた。子どもが大きくなるのは当たり前のことで、与えられた愛を受け入れるのも健全なことだ。タダで鬱陶しいほど愛情をくれる人を、大事に思えない時だってある。私にだって思い当たる人達がいる。普通のことだ。少年も普通に成長しているだけ。しかし思い出とひと繋ぎに追った時、どうしたことか張り裂けそうに切なくなってしまう。だから少年も節目節目で思い出したように木のところに来るのだろう。母子という関係に限らず、昔から自分にだけ全身で愛を与えてくれた人のことって、大人になっても時折思い出すものだ。

 

幼い時私を目にかけて可愛がってくれた祖母が去年死んだ。昔はよく祖母の家にひとりで遊びに行ってずっとこたつで話していたり、二人で電車に乗って街まで出かけていったこともあった。きょうだいのうち私にだけお年玉を多くくれた。

しかし私は成長すると祖母の家には行かなくなった。行ったとしても家族と一緒に、挨拶として行くだけになった。別にトラブルがあった訳でも、嫌いになった訳でもない。大きくなっただけの話だ。気づいたら祖母は病に倒れ痴呆となり、あれほど可愛がっていた私のことさえ認識するのも難しくなった。それまで見たこともなかった、病人じみた口の動かし方をするようになった。病人だから当然なのに、私にはそれが衝撃だった。

その状態が10年以上続き、ついに去年亡くなった。私は悲しくすらなかった。近いうちに死ぬことはずっとわかっていたし、祖母の中にいる私はもう私ではない。けれどもやっぱり、悲しかったのだと思う。祖母のことを思い出すと頭の中でビー玉が転がる音がするのだ。

無条件で愛された確かな記憶が祖母の病臥によって突然モザイクをかけられたような気がして、長いことずっと変な感じだった。はじめに離れたのは自分の方だけど、それにしたって何でだよ、何でなんだ、という反発心もあったように思う。しかし葬儀で見た遺影の祖母は若く茶目っ気があり、小さな私とこたつで話していた時の祖母だった。それを見て私はやりきれず…祖母の死よりも自分の矮小さが悲しく、そんな自分がなお虚しかった。自分は自分が受けた愛に見合う人間ではないと思えた。

 

例えば自分がこの先もし結婚して子どもを産んだとして—もしくはその子がまた子どもを産んだとして、自分がこの木や私の祖母のように与えられる自信はないし、必ずしもそこまで与えなければいけないとは思わない。それでも子に対して無償で尽くし、「それで幸せ」と信じるこの木の気持ちもよくわかる。

 

有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』が思い出される。愛は自己への獲得であって、愛するものは絶対に奪っている。それでも不思議なことに、愛された側は何も奪われない。それが愛のすばらしくも厄介なところだと。

この絵本で愛する側である木はわかりやすく少年に身を捧げて「奪われて」いるが、言い換えれば少年に自らの幸せを見出してそれを「奪っ」てもいる。だが少年は一貫して何も奪われない。献身という名の愛は美しくもあるが自己満足の剽窃でもある。果たしてそれは本当に幸せなのか。

 

どうでしょうね。私のばあちゃんは私を可愛がって幸せだったと思いたいが、やはりそうでない時だってあったはずだ。人の人生に幸せとか不幸せなんてそもそもなく、その時々の日々があるだけだろうとも思うけど、それでも考えてしまうのが人間よ。

 

 

ちょっと辛気臭いことも書いてしまったが、読み応えのある良い絵本だった。もし子ども生まれたらまた読んでみたい。

木の描写も常に枝下あたりまでで見切れていて、表情が読めないような演出になっているのも想像を掻き立てる。あんま言及しなかったけど絵も線が綺麗ですごい良い。もちろんシルヴァスタイン画。