取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

越境すること

干支は12年だし1年は12か月だし、1ダース、というのにはやっぱり何かあるのかもしれない。スピリチュアルに興味はないが、心身の長期的なバイオリズムに12年という歳月もヒリヒリ効いているのだろうか。最近中学の頃をよく思い出す。


以下、多分にフィクションを含む。
今から12年前まだ私は中学生だった。過疎化が進む田舎の市立学校でも学年に1人か2人くらい桁外れに「出来る子」がいるものだが、高飛車な物言いをさせてもらうと私はまさにそれだった。モンキーだらけの騒がしく低次元な学校、それでも私はそのモンキー達に嫌われたくなくてびくびくと奮闘していた。些細なミスが壮絶ないじめに発展しうる。皆が良いと言っているものを全然良いと思えないけど、交友のために興味がある振りをしてCDや携帯小説を借り、くだらなさに絶望してはまた繰り返した。


それでもモンキー、もといヤンキーの女子と席が前後になった時、私はその子を振りでなく本当に好きになった。大変な巨漢だが垢抜けていて(既に茶髪だった)言うこと全てが面白おかしい。当時テレビでは小島よしおが出始めの時で、学校のお調子者はみんな「そんなの関係ねえ!」の物真似をしていたが、所詮子どもの猿真似芸で大抵全く面白くない。しかし彼女だけは女ながらに本当に面白くそれを成立させられる、稀有な才能を持ったムードメーカーだった。「残酷な天使のテーゼ」を「残酷なペテン師のテーゼ」にして替え歌を歌っていた。確かにそれは残酷だ。
ヤンキーの中では話しやすい鷹揚さがある人で、席が前後になったことをきっかけに私も会話をするようになり、よく勉強を教えた。彼女は塾に通っていたが勉強は出来ず、26点と赤字された答案を自ら教室中に触れ回り自虐的に笑いを取っていたけど、本当のところは出来れば良い点を取りたいのだ。塾で一番優秀という同じクラスのあゆみちゃんなどは、よく彼女の不出来を馬鹿にして、何でこんなのも解けないのと笑う。きっと悔しい。だからこそ「この問題教えて」とたびたび私にせがんできた。


最近になってよく思い出す。
いつものように理科の問題を彼女に教えていた時、しびれを切らした彼女が苦しそうに眉を潜め、「全然わからーん」と両手を広げて項垂れた。難しい問題では全くないが、こういう時の言葉には彼女を傷つけない細やかさが求められる。つまりは同調してやるべきなので、「難しいよね」と私は言った。なんてことない相槌に過ぎないが、言った瞬間彼女は項垂れた頭をふっと上げ、呆けた顔で私の瞳をまじまじ見るのだ。そして暫くしてからこう言った。


「○○(私)ってやっぱすごいね。あゆみなんかよりよっぽど天才なのに、難しいって言うんだね」


彼女とは放課後一緒に遊ぶくらいには仲良くなったが、その後彼女がネットで出会った男子高校生と付き合い始めたあたりから、私と彼女は疎遠になった。住む世界が決定的に違うことくらい元から当然わかっていたが、こうして汚らわしく肉感的な実相を帯びてそれが眼前に立ちはだかるまで、私はその世界の違いの糸口を見つけたとどこか図に乗っていたのかもしれない。渡り歩くことができるものだと思っていたが、そんなことは無理だった。彼女が嬉々として話す猥雑な人間関係は、愚かで汚く、価値がなかった。こう書くと私が一方的に彼女を見限ったような印象を与えるかもしれないが、彼女の方だってきっと私を見限っていた。じき男子高校生が会社員になり、そこでは金銭の授受が行われていたに違いない。


中学の卒業式の答辞のこともぼんやりと覚えている。
卒業生代表を飾ったのは、中学生にして既に堂々たる体躯を持った、いかつい野球少年だった。権力と女子の黄色い声をクラスで一番ものにするグループに所属して、下賤な不良達とも仲が良く、彼自身から汚い暴言が発されるのだって幾度となく耳にしたことがあったが、それでもどことなく何となく、品性を帯びた少年だった。自信に満ち溢れた彼が全校生徒の前で壇上に立って話す言葉は、意外にも消え入りそうな不安定な声色をしていた。


「………中学を卒業することで、感謝を伝えたい人がいます。僕は小2の頃に父親が死んで、それからずっと、母が1人で僕を育てました。それなのに僕は父親がいなくなってから、なぜだか母に強く当たって、物怖じしない勝気な母をそれでも何度も泣かせました。暴言を浴びせたその次の日でも、部活に行く僕のための弁当が絶対に机に置いてありました。僕は一度だってありがとうも言わなかった。でも母に……育ててくれて感謝したいです」


豪快で男らしい彼があふれ出る涙を次々拭い、嗚咽と共にそう述べた時、保護者席の大人や教師たちは感極まって同じように泣いた。彼の母親の心境などはいかばかりだったろう。ふいに明かされた同級生の健気な吐露は、いつも喚いてばかりの生徒達の胸の奥にまで達したたらしい、騒がしい彼らが静まり返って何人もが目を潤ませていた。泣きながらそれでも最後まで前を見て話す壇上の彼を眺めつつ、私は以前彼が特別支援教室の生徒全員を「身障」とニヤニヤしながら一括りに呼んでいたことをぼうっと思い出していた。
それでも、笑わすな、なんて思わなかった。彼がいま語っていることだって真実なのは容易くわかる。私が蔑ろにできるものなど何ひとつない。


(良いお父さんになっているだろう。きっともう結婚している筈だ。それもあの田舎の中で。私にはそれが手に取るようにわかるのだ…。)


県で一番の進学校に進んだら自分に近い人達が大勢いるのかと何となく思っていたが、それも違った。確かに高校の人達は小中学校の人々とは全く異なり、甲高い喚き声なんてあげないし、廊下に自転車を持ち込んだりしないし、鬱陶しい相手をロッカーに閉じ込めて窒息寸前にさせたりなんてする訳がない。集会中にトイレが我慢できず皆の前で粗相をする人もいなければ、当然、特別支援教室などなかった。生徒達は皆学校の制度に納得し、自らを律し目標を持って秩序の中に身を置いていた。


彼らが授業で何の気恥ずかしさもなく手を挙げて、指名されれば私の何十倍も理路整然とすらすら自分の考えを述べるのには驚かされたし凄いと思ったが、テストをするとなぜかまた私が1番になった。私が直前に5分単語帳に目を通せば満点を取れる小テストを、ほとんどの人が前日に1時間2時間かけて予習しているらしく、それなのに70点とか取っている。授業中に突然先生に当てられても淀みなく受け答えするあの器用な彼らは一体どこに行ったのか。彼らが「出来る」のは間違いないが、出来ることが私と違う感じがした。


優等生に囲まれて、オセロみたいに私も優等生になる。対立も派手な遊びも好きじゃないから、悪目立ちせず程々に、がモットーだ。中学のように強烈に下劣なことをする人はいないし、私は3年間を穏やかに過ごした。激しい苦痛はなかったがその代わり鮮やかな青春もなかった。男子に告白されれば自分が女として太鼓判を押されたようでフワフワと有頂天な気持ちになったが、その喜びは徹頭徹尾、承認であり、自分の中で完結していた。まあ単純に誰にも恋愛感情が湧かなかった。中学時代に多少感じたときめきじみたものすら皆無で、恋人を作っている同級生が不思議だった。
波長の合う友人も勿論いたが、学校全体として見れば進学校進学校で酷く表面的で不気味に見えた。


彼らが皆いいとこのお坊っちゃまお嬢様だったかと言うと別にそういう訳ではない。中学の人達よりも明らかに世帯収入平均は高かっただろうが、進学校と言えど公立だったので、私と同じように小中まで動物園的公立学校で時間を過ごした人だって大勢いた。エリート育ちの生徒達より、私はむしろ彼らの方が癪に触った。彼らは…黄金郷を見つけたような顔をしている。そんなもの無いに決まっているのに。
高2の時のクラスを牛耳っていたド派手な男子は、ラップが好きらしく休み時間によくライムを刻んでいた。それは面白いし性格自体は朗らかで気持ちいい好男子なのだが、よくチア部の女子を侍らせてご満悦にしており、そういう時の彼は実に小物の為政者っぽかった。ある時彼と中学が同じだという女の子が、彼について眉をしかめてこう言っていた。「○○君、中学でもまあイケてるグループではあったけど、あんな風にクラス1番とかでは全然なかったよ。髪がチリチリだからスチールウールって呼ばれてたし」。それを聞いて私は全てに合点する。彼女と一緒に彼を憐れみ、滑稽に、そして少し可愛く思った。彼のカリスマ性は中学のムードメーカーのあの彼女などと比べれば、遥か格下、月とすっぽんの違いがある。見ていてどこか恥ずかしいのはその半端さに由来する。しかしその半端さが彼を好男子にしているのだ。
その半端さには共感するし、ヤンキーよりは優等生の方が自分にとっては格段に落ち着く。しかし、彼らが「スベリ散らかしてる」のは事実だ。自分にちょうど相応しいと思える共同体を見つけた時の人間は、まるで湯に浸かってのぼせ上がっているかのように、傍から恥ずかしく剥き出しに見える。私はそれになれなかったしなりたくなかった。


志望校を京大にしたのは既に家族が京大に行っていて親しみがあったというのもあるけれど、ぼんやりとした京大のイメージとして、はぐれ者が多そうなところに好感を持っていたからだ。自分と似ているかどうかはわからないが、一般論として、はぐれ者の方が面白い。以前このブログで「京大の幻想に固執するのは傲慢だ」みたいなことを書いたが、結局のところ私も京大の外れ値的な個性に少なからず共感や興味を抱いて入学したクチなのだ。


実際入学してみたら確かに外れ値的な人は多いが、それはクレイジーという類の外れ値ではなかった…と思う。変わった人が多いとよく言われる大学だが、ほとんどの人はやや不器用なだけの普通の人だ。知能が高いのに不器用な人間のことを人は変人と呼びたがるのかもしれない。カテゴライズすることは理解でもあれば理解の放棄でもある。変人と呼ばれることが嬉しい人もいるだろうが、京大で出会った人達のことを変人だと思ったことはあまりない(ヤバい奴っていうのはそりゃいるが、そういう言わば有病率を取っても、京大よりも世間の方が圧倒的に高い)し、私だって自分は普通じゃないなんて思わない。ただ、今にして思えば放浪者気質の人は確かに多かった気がする。美術系サークルに属していたので余計にそうだったかもしれない。共同体にどっぷり浸かることにやんわりとした拒否感があり、必要な時でもそれが出来ない幼児性がある。調子の外れた個人主義者の弦の集まり。
自分と種類が似た人達ばかりの空間に初めて触れてみて、確かにやりやすかった。言っていることがわかるし伝わる。集団化しても性質上あまり馴れ合いにならない緩やかな関係が成立しており、そのくらいが居心地よかったし、圧倒される熱意や技能を持った人達、私なんかよりよっぽど頭の良い人達にもたくさん出会い、刺激になった。学生生活を謳歌したかと言われるとそうではなく普通に地味に過ごしていたし、学問に打ち込めた訳でもないのでそれは多少悔やまれるが、ほとんど一切猫を被らずにいられた貴重な日々だったと思う。


社会に出てからは再び、そして久しぶりに、自分とよく似た人が周りにいない環境になった。大学まではずっとそうだった訳だから別に何も不思議なことはないし、大学時代に戻りたいとも思わない。ただ大人達のアイデンティティーは、こんがらがっているのに頑ななのがややこしい。



「東大なのに、京大なのに、使えない」。高学歴を顎で使ってそう言う時の人間の顔は花咲くように喜んでいる。以下特にフィクションだが、例えば私がそれを誰かに言われたとして、その時私は彼/彼女の復讐の道具にされているという点で実によく「使われて」いる。自分が貢献したと見える社会を自分の存在価値として必死に守らんとするかのような彼/彼女の価値意識の構造に私はゾッとする一方で、使えない高学歴のままでいたくない、このままじゃ駄目だ、何で私はこうなんだ、と悔しくてギュッと拳を握る。軽蔑している価値意識に自分までも呑み込まれ、またそのことをも自覚して狭間の中で蠢き回る。買いたいものもわからずにスーパーの中をひたすら無為に右往左往する時のように、自分が虫にでもなった気がする。しかし虫は必要なことしかしないのだ。高等とされる生物ほど無駄なことをするのはとても不思議だ。立派な頭で悩んだところで状況は一つたりとも進展しない。


振り返ると高校や大学、特に大学の時は、中学の頃に煮えたぎっていた文筆への野望や意欲も失われ、小説もほぼ書かなかった。凪というより停止した精神状態で、向こう見ずなこともやれないくらいに堅実だった。今にして見れば結構幸せだったのだと思う。しかし堅実になっても野心が跡形もなく消える訳ではないし、生きる原動力は依然として不満や怒りに端を発しており、それを昇華することに自分のアイデンティティーの原点があるのも変わらない。最近漸く「いっちょやってやるぞ!」と腰を据え、自分が何をやりたくて何で満たされるのかということが、だいぶ見えてきた気がする。


その環境、その属性を手にしているのに、どうしてそんな性格なんだ、と周囲からたまに聞かれることがある。「そんな性格」がどういう性格を指すのかについては遠慮なのかあまり明言されたことがないが、恐らく「性格が宜しくない」ということだろう。素朴だが愛情のある家庭で育ち、環境には何の文句も無いし、昔から大体のことは人並み以上にこなせたくらい能力的にも恵まれているのに、どうしてそうオドオドと余裕がなくて陰険なのかと。
どうしてと言われても、私はことのほか納得している。自分の人格の成り立ちがこの頃よくわかってきた。全ての出来事が連続的に理由を成して一つの頭に散らばっている。他人の場合は知らないが、少なくとも自分に関して言えば、責任は全て自分にあり、外部に転嫁できることなど皆無に近い。


「やっぱすごいね。あゆみなんかよりよっぽど天才なのに、難しいって言うんだね…」


それを言われた時の気持ち良さを、私は未だに覚えている。その気持ち良さ甘美さが一体どういう構造的感情であるのか、今の私は具に分析することができる。その傲慢さ、矮小さ、欺瞞、罪悪、気持ち悪さ。しかし確かな喜びだった。何だか私は、今でもずっとあれを追いかけているような気がする。


現実の世界に境界線は無く、ただ人間の意識がそれを引く。川を越えてみたいと志向しても川の向こうの人達がそれを拒まないとは限らない。蔑ろに出来るものなどないと思えど、脳裏では全てを薄ら寒いと軽蔑している。時々私達は相反する二つのことを同時にやろうとするが、それは両立を可能にしている訳ではなくて、常に軋轢になっているように思えてならない。しかしその軋轢さえも無くなった時、代わりにそこに何が生まれるというのだろうか。