取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

怒りというエネルギー

気づいたら世間が阿鼻叫喚しているような殺伐としているような今日この頃。

 

私は最近また本腰入れて小説なんかを書くようになったんですが、ちょうどこの前3月末締切の文学賞の応募が終わり、生活がちょっと一段落した。

ただ出した小説はかなり悔いが残る出来になってしまった。応募しなきゃ勿体ないので応募したけど、今回は駄目だろうな。あーあ。

 

とはいえ、書けなかったものは仕方ない。大きな文学賞ってのはこの先半年近くないから、しばらく充電期間というか、自己分析したり他の本や映画をたくさん摂取したり、趣味でやってる絵も研磨したりラジバンだりしようと思う。

 

顧みるに自分は、作家を目指してるくせに国内の現代小説について無知過ぎる。好きな作家は多少いるけど、基本的に私って現代の活躍してる小説家に遍く敵愾心持ってんだよな。

人気作家の本を読んでみたらめちゃくちゃ陳腐で、こんな人たちが第一線でのさばっていることに絶望した経験が少なからずあり――まあ今思うとそんなことは当たり前なんだけど――ここ最近はほとんど手を出せてなかった。ていうかあえて忌避していた。読むと悔しさで頭おかしくなりそうで。正直言うと全員見返してやりたい、踏んづけてやりたい、征服してやりたいって思ってるし。そこには嫉妬やら納得いかない不満、現実逃避、そしてわずかばかりの尊敬とかもいろいろ綯い交ぜになってんですが。

 

ただあれですね、読んだ上で敵視するならまだしも、読んでもないのに憎悪を煮え立たせるのも最悪な話だなと多少反省した。もっと好意的な目、いやそれは無理だけど、もっとまっさらな目で向き合ってみるべきだ。少なくとも作品に対しては。

 

という訳で、今後は日本の現代作家の「名作」と呼ばれるものも時々読んで勉強させて頂く。怒りというエネルギーの下に、しかし人を憎んで作は憎まず、やっていこうと思います。現状の圧倒的敗北を認めつつ、ブチ切れながら奮起していくしかない。

 

…なんかよく「怒りを原動力にしちゃ駄目」みたいなこと言う人いるし、そういう人にとっては行動の源泉って本当にポジティブなものばっかりなのかもしれないけど、私はむしろ怒りしか自分の原動力にはならないと思っていて。怒りだろうがそれを糧にして前に進めるならそれでいいじゃんと思うんだけど。

 

以前誰かのブログか何かで「定年退職した父がネット右翼に走って辛い」みたいな記事を拝見した。父の思想が攻撃的になったことへの物悲しい気持ちは痛いほどわかる一方で、でも仕事を失った父親が退屈を持て余さずに元気でいれるのって、まさにその怒りの思想のおかげなんじゃないかとも思った。怒りに突き動かされようが、それで元気に生きててくれるならまあ、子供としてはギリOKかなというか。他人に実害加え始めたらアウトだが。

多分怒ってないと退屈で、怒ることで活力が湧くんだ。良し悪しつけがたい怒りの循環。実際、怒ってる人って肉体かなり健康な人ばっかだし。

 

今のご時世、怒っている人が多い。人心乱れに乱れてますよ。

twitterでちょっと検索するだけで半端ない不満の声が際限なく見つかるし、いよいよ世紀末ムードが漂い始めた。

みんな生活がかかってる訳だし怒ることや主張すること自体は当然だけど、そういうのじゃなくて、たまに「え!?」って二度見するくらい些細なことで怒ってる人も結構いる。言葉尻ひとつに目くじらたてて興奮したり。怒りの出どころってほんと面白いなと改めて思わされる。

 

日常に制限が課され、収支も大きくバランスを乱され、狭い家の中でこもりきり。他人との接触は不衛生な悪癖として非難され、なおかつこの状態からいつ解放されるかもわからない。そういうストレス直下の状況に置かれた人間に渦巻く最大の感情は怒りのほかない。怒りで身体を調節しようとしてる。怒りっていうのはエネルギーであり娯楽であり、生命力なのだと思い知る。怒りに囚われてる時って体を巣食われてるような感覚になるけど、実際はむしろ怒りこそが人間という動物の巣穴なんだろう。

だって本当に疲労しきって「死にたい」なんて思う時って、もう怒りすら湧いてこない。ただ深い疲れがあるだけで、怒る元気もなく、そうなると人は衰弱する。

 

怒りを抑制できず、ところ構わず暴力的に当たり散らす人は怖い。まず顔が怖い。人間なのにギャラドスみたいな顔になってる。私もああいう顔で怒られたこと何度かあるが、あれはほんとに、人を最悪な気分に陥れる。

 

でも自分もあれと同じ怒りを持っている自覚はある。表出の仕方が違うだけで、彼らが何に怒っているかわかるし、それがどういう感覚なのかも、大抵の場合どこかしら共鳴できるし。全く理解不能、なんて怒りはあまりない。「え?」って驚かされる怒りだって、改めて想像してみると多少は理解できたりする。喜びよりも怒りの方がずっと共感の敷居が低い気がする。

 

現実の私は元々休日引きこもってるし、日常生活自体は幸いコロナで多大な影響を受けることもなくやれている。どうぶつの森でバーチャル外出もできてるし。だから私はあんまりコロナで怒ってない方だと思う。世間がこんな状況なのだから、声をあげて怒るべきだ!と怒られるかもしれないが。

しかし生来の怒り、野望に付随する怒り、他人の感性への怒りは絶えず沸騰したままだ。そしてその怒りがまさに自分を突き動かして生命維持に向かわせる。

 

カート=ヴォネガットが『国のない男』で「ユーモアというのは恐怖に対する生理的な反応なのだ」って言ってたけど、私は怒りというのも恐怖に対する生理的な反応だと思うな。よく考えたら当たり前だけどね。