取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

絶庭

 頭の中に絶海の孤島がある。
 例えば読んでいる小説の5p目、読めない漢字─この場合は『橇』と仮定する─がポンと出てくると、脳味噌のぐちゅぐちゅした連なりに一粒の砂鉄が混入した、そんな気持ち悪さを一瞬味わうことがあるだろう。初めのうちは一瞬だから無視すればいいが、しかしそうやってやり過ごそうとしたものに限って、その先に2度も3度も何度も何度も、小説の中に頻出してくる。紙の本だとコピー&ペーストでのネット検索も手軽に出来ず、かと言って大袈裟に手間を掛けて調べる屈辱にも耐えられないが、橇、橇、尾橇、橇、こうなってくると都度これが読めない自分を意識せられるのがいちいち不愉快極まる体験となり、読書そのものがストレスになる。
 こうした時に私はいつも、読めない漢字の代わりじゃないが、「海馬」という文字が頭に浮かんで離れなくなる。頭の中に不似合いに蹲るタツノオトシゴ、今まさにそこがつっかえているような気がするのだ。それを除去すればこんな難読漢字なぞすぐにでもスラスラ読めるようになり、それどころか目の前の小説の文章全て、一息で一言一句逃すことなく脳のクラウドに登録し、その小説を記した当の本人、知能の知れたこの作者なぞよりも高次にすら解釈できるような直観が、全身に伝ってくるのであった。だからこそ、それを妨げる礫ひとつの存在が、余計に不快でたまらない。明晰な私であることを阻む乾いたタツノオトシゴ、これが脳に実在していることが、嘘みたいで気色悪いのだ。
 同じようなことを、私は生活の中でたびたび経験させられる。更に例を出すならば、道端でふと霊柩車が脇を通るのを見かけた時に、ふと自分の母がそこに入っていることを想像する。
 灰になる実母を想像する。その想像は私をあらゆる感情に掻き立てる筈だ──しかし、するとまたタツノオトシゴが現れて、すんでのところで止まってしまう。ともすればもう少しで私は、霊柩車をきっかけに母の死について深く重い思案に入り込み、自分と世界の関係性の神秘に辿り着けるかもしれないのに。思考が発展しかけそうな時、干上がった海洋生物が、こうしていつも感性を停滞せしめて終る。
 それは人の棲まない島のようだった。豊穣な流れの中央に位置する絶縁体だ。海の中にあって水を通さず、動物一匹も寄り付かず、叩けばほろほろに砕けそうな程脆いのに、いかなる時も再起する。
 それがあるであろう位置を人差し指で押さえてみる。指先を押し付けると頭が揺れるような鈍い痛みがし始める。タツノオトシゴは悲鳴もあげずただフカヒレみたいに解けていく。この世で最も虚弱な竜だ。


 橇、橇、尾橇、橇、犬橇、橇──あっ、『そり』だ! 私はついに合点する。
 そう考えれば今までの全て辻褄が合った。アラスカ西部で専ら輸送方法に使われる犬橇。著者はそれを暫くずっと「橇」と一文字だけで書いていたのだ。
 タツノオトシゴは死に絶えて、今度は壮健なアラスカン・マラミュートが頭の中でハスハスと舌を出しながら、元気にこちらを見据えてくる。小さな私を葬って、犬はアラスカの美しい雪の庭を駆け回る。その目は黒く艷やかに潤い、人間と生きるための活力で満ち溢れている。干上がったちんけな自分の死体は、海に投げ込まれるのを待つまでもなく忘れられ、次なる竜の生成に遷る。