取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

『ショーン・タンの世界』と『アライバル』

ショーン・タンの世界 どこでもないどこかへ

ショーン・タンの世界 どこでもないどこかへ

いま全国巡回中の「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ |」の公式図録。去年東京のちひろ美術館で開催されていて行けず終いになっていたのだが、図録が一般販売されていたことを1年越しに知って棚ぼた気分で購入した。実際ただ私が知らなかっただけで棚ぼたでも何でもないが。
同個展は自分が学生時代に何度か足を運んだ「えき」KYOTO(京都駅にある小規模美術館)でも開催されていたというから、勝手に奇妙に親近感。部活の友達と休講時間を縫い合って、市バスの狭い席にすし詰めに並び…ゆらゆら揺られて行ったりしたのがもう懐かしい。
ちなみに今は長野の安曇野ちひろ美術館まで巡回しているらしく、そもそもいわさきちひろの名前を冠した美術館が複数あったことがまず衝撃。いわさきちひろ恐るべし。


ショーン・タン(1974年~)はオーストラリアの絵本作家・イラストレーター。よく大人向け絵本作家と言われるけども、実のところ明確に大人に向けて描かれているのは彼の代表作であり出世作の『アライバル』(2006)くらいのような気もする。しかしこの『アライバル』がやはり抜群に素晴らしい。「移民」の出発と新生活への歩みを描いた文字なし絵本なのだが、まさしく言語を絶する超大作。圧倒的な画力で描き出されるイマジネーションの世界の中に、地を踏みしめて現前する生々しい生活者達の姿が見える。


アライバル

アライバル


この人の著作はどれもレベルが高いが『アライバル』は何といっても別格で、この図録もほぼ『アライバル』のこぼれ話目当てに買ったようなもの。案の定ページも一番割かれていたし、着想初期のスケッチやコラージュが載ってたりしてて面白い。


でも他のページも充実してた。画家としての油彩小品群はどれも素晴らしいし、数ページだけ載っていた立体作品の中には寄生獣のミギーもいてこの本随一のキモ面白ポイントになっている。(一応言うと実際にはミギーではなくミギーに似てる作品があったということです。)


インタビューも制作に対する姿勢がよく伺える内容だった。わりと意外なことに、『アライバル』は当初日本の漫画やアニメさながら、背景はリアルに、人物はシンプルに描こうとしていたらしい。しかし資料として収集した移民達の顔写真を何枚も何枚も見ているうちに「この写真が持つ力強さをイラストレーションが超えられるのか」という不安を抱き、熟考の末に描画方法を転換したそうな。つまり結果として人物は可能な限りリアルに、しかし鉛筆の跡を意図的に多く残して手描きであることを強調する、そして背景は緻密ながらも空想的にすることにしたと。こういう経緯は作者の真摯な態度が浮かび上がって面白い。実際その路線変更もちゃんと成功していて、ともすれば沈鬱になりかねない移民というテーマが非常にファンタスティックに、しかし楽観もなく落とし込まれている。

僕が毎回驚かされることは、自分にとっても他人にとっても最良の作品というのは、実は一番奇妙で、個人的で、変わっていて、癖のあるものだということです。それはいまだに驚くべきことですが、信じようと思っています。僕が強く感じたことは、たとえそれが変で奇妙で理解不能のものであっても、それを見た他人の感情を強く呼び起こすことが多いということです。僕は、そうして他人は自分と同じなんだと信用することや、みんな人それぞれであっても同じものを同じように感じるんだということを学んでいますし、アーティストの一人として人には様々な感情があるということも受け入れたいと思っています。(p.177)


インタビューの締めのこの節はすごく良いことを言ってるし、彼の作品の根底にある理念が凝縮されているように思う。訳者の岸本佐知子が巻頭で「はしっこの感性」と分析していたことに通じるが、ショーン・タンの著作には「異質なものとして現れた人や生物が徐々に世界に根づいていく、あるいは根づこうとする」というテーマが形を変えて繰り返し現れる。こういう疎外のイメージはオーストラリアの移民二世である作者の生まれも影響しているのだろう。しかし自分という存在の異質さというのは多かれ少なかれ誰もが潜在的に感じているものだ。


思うに異邦人であるという感覚は、主人公であるという感覚にそのまま通じている。冒険者というのは定義からして部外者であり、既に在る世界の川面に投じられた小石であって、だからこそ川の底に沈んでいるものを最初に見渡すことができるし、戸惑うことができるし、真ん中がどこにあるか確かめたいと考える。


ただこの「異邦人感覚」を前面に出す作家って紙一重で…いわゆる独自の世界観系アーティストまで行くと私は興味が失せてしまう。基本的に自分の関心は人間性に集中しているので、唯一無二の世界観みたいな、人間性を超越・放棄したものを表現したがる作家にはあまり感動を覚えることがなく、「いや、既存の世界と向き合ってくれ」ってどこか醒めてしまうところがある。他人が作った独特な世界観にどっぷり浸ることに快感を覚えたり、その中心となるカリスマに憧れたりする人がいるのもわかるのだが、私はやっぱり実存しててほしいのだ。純粋哲学より倫理学の方が肌に合うし、椎名林檎にはあまり興味ないけどCoccoは結構好きだし。


お前の趣味だろと言われれば「そうだが?」としか返しようがなく、ましてやどっちが優位とかいう話ではないのだが、とりあえず私の直観としては「自分だけが超越的な異邦人であり主人公」という浮遊した感受性よりも「自分が異邦人であり主人公であると同様に、他人もまたそれぞれ異邦人であり主人公である」という感受性の方が地に足ついてて真実らしく響く(前者みたいな気分になることもままあるが)。


ショーン・タンの絵って奇抜だしイマジネーションに溢れているが、それでも根本にこの異邦人としての普遍的実在を求める姿勢がある。常に異質な存在を描きつつも、必ずその存在が世界と関係していく苦しみや喜びを見つめているというか。実生活同様、異質であろうと関係していくしかないということが念頭に置かれ、どこか郷愁を誘う趣がある。インタビューの「他人は自分と同じなんだと信用する」ってほんと良い言葉で驚いた。この身に覚える疎外感の理由は人それぞれ千差万別で、暴きようも立ち入りようもなく個人的でも、感情に共鳴があれば人は想像力で経験を補うことができる訳で、そういう意味不明な動物であることを「信用する」と言うのは良いな。原文でどう言ってんのか知らないけども。


来月に邦訳が刊行される『内なる町から来た話』も絵だけちょっと紹介されていた。私はそもそもショーン・タンの絵が好きなので絵本はまず買うのだが、これは25編の短編集だそうで、話にも期待。

内なる町から来た話

内なる町から来た話

へその緒結び

ちょうど1年くらい前に女性観に関する記事*1を書いたのだが、意外なことに未だにそこそこ読まれている。まあこのブログの「読まれてる」はつまり全然読まれてないってことなんですけど。でもこのブログにしては読まれてる。このブログにしては 。「女性の女性観」ってやはり関心を集めるテーマなのだろうな。


その記事我ながら長すぎて読み返すのがとにもかくにも七面倒だが、冗長さに耐えながら今また読めば言ってることの筋としてはわりとまともというか、普通のこと言ってるだけかなと思う。少なくともとち狂ったこと書いてるようには思わない。まだ1年しか期間置いていないし、自分の感性だから当然と言えば当然か。


ただあれからまたちょっと考えたこともある。件の記事の中で「なんで女性は他の女性をこんなに気にしてしまうのか」ということについて少し考え、そこでは「女性という絶対的基盤を共有しているという意識」と「目の前の女性個々人が持つ多様すぎる個性」との間にちぐはぐさを見出してしまい、このマクロとミクロふたつの視点が交錯する心理的抵抗を解消したいがゆえ、執拗に他の女性を観察し答えのない推論を張り巡らしてしまうのではないか…みたいな考察に着地した。この見解自体は今も特に変わってはいないのだけれども、女性が他の女性を必要以上に気にかけるのって、これに加えて別の素因もあるなと最近思うようになってきた。要は母親の幻想ってやつである。



自分は今26歳なんですが、私の母は25でもう結婚し、27で兄を産んでいる。考えてみれば空恐ろしい。私なんて今もまだまだ生意気盛りな気がしていたが、気づけば家庭を据えても何らおかしくない歳であり、事実母の結婚にはもう追い抜かされてしまったわけだ。母と比べるだけなら世代の違いで済む話だがそうではない。同級生達にだってそろそろ結婚の波第一陣が来始めて、Facebook見てると高校時代の胡散臭い同級生がもう二児の父親になり妻や赤ちゃんとのプリクラ画像を載せている。いや、そんなろくでもない奴らだけが結婚しているなら別にいいのだが、そうでもない人、当時自分と似たにおいを発していた人々までもぽつぽつ結婚し始めている。あの子がそろそろ母になるのかと考えると、時空に歪でも生じてんのか、っていう不思議な心地になるもんだ。


だがそれよりもっと奇妙で仕方ないのは、自分が母になってもおかしくない歳になるにつれ、それと逆行するように母への思慕が強まっていくのを体で感じていることだ。母である自分を想像することに対する抵抗が年々強まり、「いや私、どう考えても母じゃないから!だってお母さんっていうものは…」とムキになってしまうことだ。いつかの誕生日に母からもらった皮の鞄が今も私の部屋の壁にぶら下がっているのがふと視界に入るたび、名状しがたい思いが過る。


最近「毒親」なんて言葉をよく聞くが、見た感じあれって女性が母親について言ってるパターンが極端に多い。「毒親」つまり「子どもに悪影響を与える支配的な親」はそりゃもちろん一定数存在するはずだが、統計的なことを想像すれば彼ら毒親の性別やその子どもの性別って、どちらも男女トントンくらいになってもいいんじゃないかと思う。子どもを不要に激しく傷つける親は男にも女にもそれなりにいる筈で、子どもの性別だって彼らの態度をそこまで大きく左右するとはあまり思えない(子どもの性別が親の内面の揺さぶり方を変えてるところはあると思うし、虐待までなるとやはり女の子が対象にされることが多いだろうが)。教育態度に問題がある人間というのは、子どもが男でも女でも毒親化するものだと思う。しかし世情を見てみれば、「毒親に苦しめられた・られている」ことを語る人って圧倒的に女性が多く、しかもその毒親は大抵母親だ。(女性の語り癖とか母親側の心理は一旦置いて)娘は母親に対して過敏になりやすい、くらいは言えそうである。


宇多田ヒカルしか例に出せないボキャ貧人間なので宇多田ヒカルを例に出す。彼女の母親藤圭子(宇多田純子)は毒親ってのとはちょっと違うと思うが、藤圭子が娘を生んでしばらくすると精神的に不安定になり没交渉状態に陥ってしまったことは、娘の宇多田に強烈な影を落としている。彼女の病が完治することはなく、娘が稼いだ金で気まぐれに一人で世界を巡り、昼夜を問わず元旦那や娘に電話を寄越し、普通の会話ができる時もあれば身に覚えのない出来事についてヒステリックに責め立ててくることもあったらしい。2013年ついに藤圭子が自殺するが、宇多田はそれ以前からも折々に母親のことを歌にしていて、そこには母親への思慕と怒りと感謝が交錯した形で表れている。『Be My Last』とか『Letters』とか『嵐の女神』とか。自分の原点は母親という宇宙にあると、本人もいつか述べていた。


母親という人間が持つ毒が娘の体に根深く回ってしまうのはそうとして、しかしそれは別に毒に限った話じゃないのだ。愛情や優しさや不意に目にした可愛らしさだって同じことだ。母親という宇宙的な体から自分が生まれたという絶対の事実が、母親にだけの特有な目を持たせ続ける。


エディプス=コンプレックスの女性版としてエレクトラ=コンプレックスっていう、平たく言えばファザコンを指す用語があるが、あれって男のエディプス=コンプレックスをそっくりそのまま反転することはできていない。だって男にとっての母親と女にとっての父親は違う(今調べて知ったが、フロイトエレクトラ=コンプレックスという概念など不要だと否定しているらしい)。


男だろうが女だろうが誰しも母親という「女性」から産まれており、この非対称性ってひっくり返すことができない。や、生命科学が発展すればあるいはそう遠くない将来男性が子供を産めるようにもなってくるかもしれないが、それはあくまで操作的な文脈を持った入替になるであろうし、生命倫理問題を取り巻く一般意識などそう簡単に動かせるものではないので、やはり相当な年月を経ない限り女性が「産む性」であるという認識は強く残り続けるはずだ。みんな母親という1人の女性のお腹の中からぽこっと産まれ出てきていて、そのことがごくごくナチュラルな共感覚としてずっとある。「母親」とか「お腹」とかいう言葉が喚起する、柔らかく膨らんだ、しかし茫洋たる暗いイメージ。母親ってのは自分の原始で原子(座布団)であり、還る場所として唯一無二の極限的な存在だ。出産1か月前に母親の心臓が止まったら胎内の子供だって一緒にの垂れ死ぬわけで、こんな包含関係は母と子以外ありえない。


還りたいという気持ちを一切持たない人が、果たしてどれだけいるのだろうか。別に実の母親と交わりたいだとかそんな具体的でえげつない欲望のことを言っている訳ではなくて、もっと漠然とした回帰願望のことだ。概念としての母親を待つコップが誰にでも体の中にどこかにあっておかしくない。


男であればそれを満たせる。男は女を恋人に持つことで疑似的な母親、言い換えれば母性的な愛を得ることができるが、女はそうではない。性志向と合致しない限り女性と交わることはなく、自分のルーツである性と相まみえたり、銀行口座をひとつにしたり、血を分け合った子供を作ったりすることができぬまま、自分が与える側に回るほかない。これは何だか、不公平ではないですか。しかしかといって誰にもどうしようもないのだ。


起源への志向と性的志向の性の不一致。あっちを立てればこっちが立たず。この違いが決定的な男女の違いだと、最近ふつふつ感じ始めている。まさにこのことが女性の体に常にどこか満たされない孤独を落とし続けて、女性が他の女性をこうも湿っぽく夢追うように追いかけてしまう理由の一つになっているのではないか。持て余した回帰願望と情念が倒錯した形で実母や他の女性に向けられて、勝手に期待と失望を繰り返している。


まあちょっと考えすぎかもしれないが、それでも男になって女に受け入れられてみたいって感覚は、ある程度の女性から共感を得られるものだと思う。女が宝塚の男役にこよなく憧れてしまう心理とかもそういう部分から来ているに違いない。だっていいとこどりですもんね。いつまで経ってもセーラーウラヌスに魅了されてしまうし…。


試験管ベビーの人とかってこのへんの感覚どうなってんだろうね。シャーレの上で生まれたとかさ。性自認ニュートラル寄りになるのか、それとも案外何も変わらないのか。
こういうテーマで1つ小説を書きたいなあとこの頃よく思っている。もうちょっと煮詰めてなんとか形にしたいものだが。言うは易きだね。

*1:2020.9 非公開にしました

キケロ『友情について』


再読本。大学時代に岩波文庫版で読んで大層感動し、人と人との関係性に対する考え方を15度くらい変えさせられた思い入れの強い本なので、去年講談社学術文庫で新訳が出ていたことを今更知ってお布施みたいな気持ちで買った。大西英文先生の訳で、注釈も(自分はほぼ読めていないが)非常に詳らか。


キケロ共和政ローマ末期の文筆家であり、あのカエサルと同時代人。家柄のハンディキャップを乗り越え政治家として一旦は成功を収めるが、カエサル独裁以降は苦境に立たされ観想的な生活を余儀なくされる。『友情について』はこの不遇の時期(前44年)の著作だそうだ。


形式としては対話篇で、ローマの高名な政治家ラエリウスが同じく政治家で竹馬の友だった小スキピオを喪った数日後に、彼との関係を思い起こしながら友情論を語る…という体を取っている。とはいえ実質的にはキケロ自身の友情論の代弁だろう。


主張は非常に高尚かつ清潔、略して高潔で、雲の上の賢人達の誇り高く厳格な友情論をひたすら聞かされる説教本だ。そのため現在のレビューでは「頭でっかちな綺麗事」と手酷く言われていることも多く、それも確かに仰る通りなのだが、自分はこの頭でっかちな綺麗事が好きだった。大学時代も感銘を受けたが、今になっても読後の感想は大して変わっていない。

友情は善き人々のあいだで以外ありえない。(18節)

人間にとって、不死なる神々から与えられたもので、叡智を除けば、これ(友情)以上に価値あるものはおそらくない。(20節)

自分自身に語るように、すべてを腹蔵なく打ち明けることのできる友をもつこと以上にうれしいことがあろうか。(22節)

われわれが友人に求めるものは立派なものではなければならない。また、友人のためには立派なことをしなければならない、また、求められるまで手をこまぬいているようなことをしてはならず、常に熱意をもち、逡巡は忌避しなければならない。(44節)

友情以外のものは、すべて力で勝利する者の手中に落ちる(55節)


とにかく友情のことを徳性に並ぶ貴いものとしていて、徳を備えた善き人々が友と篤い信頼関係を培うことは、人間本性にとってごく自然なことらしい。便益のために仮初めの友情を求めるなどそれはもう友情ではなく、「友情が先にあり、便益があとからついてくる(51節)」わけで、「その有益性は、たとえみずから追い求めなくとも、花が咲くように友情からおのずと生まれ出てくる(100節)」のだ。


『友情について』で認められている友情というのは、偽りも疑いも許さないかなりハードルが高いものだが、このくらい門を狭める友情論が私はやっぱり良いと思う。現実問題世間を見ると確かに産業廃棄物みたいな友情築いちゃってる人達もいるので、それはもう友情じゃなくて産業廃棄物ですよ、ということをこのくらい厳しく取り締まる人がいてもいい。


ただ初めて読んだ時から1点だけ呑みこめないところがある。

不幸な事態や不都合を回避する唯一の安全策や予防策は、あまりにも性急に愛さないこと、さらに(友情に)ふさわしくない人を愛さないことである。(78節)

判断したあとで愛さなければならず、愛したあとで判断するようなことがあってはならない。(85節)


この、「友情を築くに値すると判断した相手しか愛してはならない」説。えらく立派で崇高な友情論を語るわりには、これは自己中心的、自己便益的すぎないかと思う。この逆の意見として「いつか憎むことになるかもしれないという心構えで、人を愛さなければならない」という先人の意見が紹介されているのだが、ラエリウス(というかキケロ)的にはこれはおかしな言説らしく、そもそもいつか憎むかもしれないような徳の低い人間は最初から愛せないのだと、取りつく島もないことを言う。処世術としてはわかるがこれはちょっと違うんじゃないかなと、下賤の者からすると思う。


ただ一応この後に補足はある。そうは言っても人とは無情に変わってしまう生き物であり、信じた友が過ちを犯してしまうこともある。キケロによればそうした場合は敵として袂を分かつ時機を考えるのではなく、むしろそれに耐えねばならないそうだ。自身は友人に対して忠告しなければならず、また忠告を受けた者は自分が友人に非難されたことに苦痛を感じるのではなく、自分が過ちを犯したことに苦痛を感じなければならない。そして過ちが正されることを喜ばなければならない。…とことん立派で頭でっかちだ。


自分がこういう友情を築くことを旨としたい訳ではない。大学時代はまだちょっと自分のことわかってなかった部分もあってこのレベルの友情を夢見たりもしたけれど、そもそも自分の胸に手を当てて我が身を振り返ってみれば明らかに自分は有徳の士ではない。だからこんな矜持ある友情を実現することは無理だと思う。まあ自分の友人はできる限り大事にしたいと素朴に思ってはいるし、それは自分のできる範囲でいいだろうと今は考えている。これに気づくのに5年くらいかかったが。


あとこれも最近気づいたが、だいたいこういう過剰に気高い友情論に殊更に感動する人間というのは、自分含め陰気な奴らばっかりだ。太宰治の『走れメロス』なんかはまさに象徴的だが、あの陰険極まりないラ・ロシュフコー先生だって、友情の話になると「友人に不信をいだくことは、 友人に欺かれるよりもっと恥ずべきことだ」と急に精悍なことを言う。武者小路実篤とかもそうだ。友情というのは全ての良い関係性の基盤にあって、性愛なんかよりも余程うつくしいものだ、と頭の隅で狂信している。



論の最後に亡き友小スキピオを思って呟くラエリウスの言葉が光り輝いている。

ごくごく些細な事柄でさえ、私があの人の心を傷つけるようなことは一度もなかったし、あの人からも私が聞きたくないことを聞いた覚えは一度もない。(103節)